帰宅後
ニコラスとセーラが帰宅すると、ダニエルが居間でジョンの様子をみていた。
「おかえりなさいませ。ジョンちゃん、今寝たところですよ」
ダニエルは小声でいった。
ジョンはゆりかごの中で、気持ちよさそうな寝息をたてている。
「ほんと、ジョンはかわいいねぇ」
ニコラスは顔をでろでろにして、ゆりかごを覗き込む。
セーラもジョンの寝顔を微笑みながら眺める。
二人は顔をあげて目を合わせて、互いにニッコリ笑うと、またジョンの寝顔に視線をもどした。
ダニエルは気を使って、そっと居間から出て行こうとした。
「ダニエル」
ヒソヒソ声でニコラスに呼ばれ、ダニエルは振り向いた。
「セーラ。ジョンはオイラが見てるから、お風呂入ってきなよ」
ニコラスはヒソヒソ声でセーラにそういうと、ダニエルに向かっておいでおいでをした。
「お願いね」
セーラは察して、居間を後にした。
*****
お風呂から上がったセーラが居間に行くと、ゆりかごの横で、ニコラスとダニエルが分厚い本を広げて、ヒソヒソと話しているところだった。
二人はしばらくセーラが来たことにも気がつかない様子で、何やら真剣に話し合っている。
セーラは二人の邪魔をしないように、こっそりとゆりかごを持ち上げた。
ニコラスが視線をあげ、セーラの方を見て、ニッコリ微笑んだ。
セーラは声を出さずに「おやすみなさい」と言うと、居間を出て自室へと向かった。
*****
セーラは鏡台に腰かけると、ホッと息をついた。
夢のようにめまぐるしい一日だった
昨夜のプロポーズには驚かされたが、一番びっくりしたのはニコラスのまともな姿だ。
あんなに美男子だとはは思わなかった。
それに立ち居振る舞いも完璧で、ニコラスにエスコートされていると、まるでどこかのお姫様にでもなったような気分になりかけた。
しかし、たまに彼の口から飛び出してくる一言が、セーラを現実に引き戻しもした。
それさえなければ、本当に素敵な紳士だったのに、それがニコラスらしさでもあり、憎めないところでもあった。
セーラは何気なく夜着の袖をまくり、左腕のブレスレットを眺める。
本当にニコラスの妻になったのだろうか。
こうしてブレスレットを見ていても、いまいち実感がわかなかった。
本当に突然すぎるプロポーズだった。
そういえば、ニコラスとの出会いも突然だった。
死のうとしていたセーラの目の前に、突然現れて、そして、いつの間にかセーラはここで、家政婦として働くことになっていた。
ジョンのこともそうだ。
気がついたら、ニコラスはジョンの父親になっていた。
何が何だかよくのみこめないうちに、どんどん進んでいく。
ニコラスは本当にいつも強引だ。
こちらがぼーっとしてるうちに、どんどん進めてしまう。
でも、無理矢理ではない。
要所要所で、きちんとセーラの意思を確認してくれている。
その上、いつもちゃんと逃げ道を作ってくれている。
このブレスレットのこともそうだ。
ニコラスはセーラに「オイラにしか外せない」と言った。
それは、きっとセーラが望めば外してくれるという意味だ。
絶対に外すつもりがないのならば、わざわざそんなことをセーラに言わなくてもいいはず。
ニコラスの台詞は、いつも突飛で、ペラペラとまるで急流のようだ。
ぼーっと聞き流してしまえばそれまでだが、きちんと聞いていれば、大切な情報はちゃんと織り込まれている。
だけど、セーラはその場では、ニコラスの言っていることが半分も理解できない。
後で何度も何度もじっくり考えて、ようやくわかるのだ。
トントン
微かな音が扉から聞こえた。
セーラは上着を羽織ると、扉の前に立ち、カチャっと静かに開けた。
「起こしちゃった?」
隙間からニコラスが首を傾げ、すまなさそうな顔をする。
セーラは首を横に振った。
「起きてたわ」
「ならよかった」
ニコラスはニッコリすると続けた。
「ちょっといい?」
セーラは頷き、「どうぞ」と扉を大きく開けた。
ニコラスはスッと部屋に入ると、扉を閉めた。
そして、振り返ると、いきなりセーラを引き寄せ、抱きしめた。
「セーラ。今日はとっても楽しかったね。オイラ、ずっとドキドキしっぱなしだったんだ」
セーラの耳元でささやく。
「今もドキドキしてるんだよ。耳をあててごらん。オイラの胸の鼓動、聞こえるかい?」
そう言って、腕の力を緩める。
セーラは突然の出来事に驚き戸惑いながらも、言われるままにニコラスの胸に耳をあてた。
ドックンドックンと心臓の波打つ音が聞こえる。
しかし、セーラにはそれがニコラスの心臓の音か、それとも自分の心臓の音か分からなかった。
それくらいセーラの胸もドキドキしていた。
「ああ、セーラ。オイラ、君が欲しくてたまらないんだ」
熱い吐息でささやかれ、セーラの鼓動はさらに早くなる。
あまりにも鼓動が早くなりすぎ、セーラは胸が苦しくなって身を固くした。
「ごめん、セーラ。困らせてしまったね。オイラ、つい……。いいよ。無理しなくていい」
セーラの様子に気がついたニコラスは切なげにささやく。
ニコラスの腕の中で、セーラは首を横に振り、「違う」と伝えようとしたが、息が苦しくなるくらい胸がきゅっとして、なかなか声にならなかった。
「大丈夫。オイラ、いつまでも待つよ。待ちたいんだよ、セーラ。君の心の準備が整うまで」
優しく語りかけるニコラスに、セーラは酔ってしまいそうだった。
普段のニコラスはとても強引だ。
どんな状況でも、いつの間にか相手を自分のペースに巻き込んでしまう。
こちらが驚き戸惑っている間に、いつの間にか物事を進めてしまうのだ。
しかし、今、目の前にいるニコラスは違う。
いつもの大胆な強引さはなく、臆病なくらい慎重だ。
もどかしく思ってしまうくらい、セーラを気遣っている。
あの人とは正反対だ。
あの人は普段はとろけるように優しくて、そして強引だった。
そこまで考えて、セーラは愕然とした。
こんなにも愛してくれるニコラスの腕の中にいるのに、あの人のことを思い出してしまう。
あんなひどい仕打ちをされたのに、まだあの人を忘れられない。
なぜ。
どうして思い出してしまうのだろうか。
どうしたら忘れることができるのだろうか。
悔しくて、悲しくて、情けなかった。
いつになったら、あの人の呪縛から解放されるのだろうか。
「君に無理はして欲しくないんだ。大丈夫。オイラ、君の一番にならなくてもいい。君がオイラのことを好きになってくれれば、それで充分なんだ。焦らなくていいよ。時間はたっぷりある。少しずつでいいんだ。少しずつ、オイラのことを好きになってくれれば、それでいい」
ニコラスは、肩を震わせるセーラの髪を、愛おしげに撫でながら続けた。
「オイラ、焦らされるのも、キライじゃないんだ。焦らされれば、焦らされるほど燃え上がるって言うでしょ」
少し冗談めかしてささやくニコラスに、セーラは嗚咽を堪えるように、しがみついた。
「ああ、セーラ。泣いてる君もホントに可愛いね。もっともっと泣いていいんだよ。オイラの胸で思う存分泣いたらいい」
ニコラスは甘く優しい声でセーラに語りかける。
セーラは我慢できずに、わっと泣き出した。
「可愛いセーラ。オイラがずっとこうして、抱きしめててあげるね」
ニコラスは泣きじゃくるセーラの頭に頬をよせ、その髪や背中を、あやすように優しく撫でつづけた。
しばらくすると、セーラの嗚咽は聞こえなくなった。
肩の震えもおさまる。
「セーラ」
セーラは涙にぬれた顔をあげた。
ニコラスは、セーラの顔を両手で挟むようにして、頬に残る涙の跡を、親指で優しく拭ってやる。
「ねぇ、セーラ。ひとつだけオイラの望みを叶えてくれないかい?」
優しい笑みを浮かべながら尋ねる。
セーラは不思議そうな顔をしながらうなずいた。
「今夜はずっと傍にいて欲しい。君の横で眠りたいんだ」
ニコラスは真直ぐにセーラの瞳を見つめながら言った。
セーラははにかみながらも、こくりとうなずいた。
「やったぁ」
ニコラスはパッと顔を輝かせると、そそくさとセーラのベットの上にあがり、布団の中に入る。
「うーん。良い香り。セーラの香りだ」
しばらく布団に顔をうずめ、堪能した後、バサッと布団をあけた。
「セーラおいで」
満面の笑みを浮かべながら、セーラをおいでおいでと誘う。
その子供のような振る舞いに、セーラは思わず顔をほころばせながら、ベットにあがった。
すぐにニコラスの腕が伸びてきて、セーラを捕える。
「はぁ。セーラは柔らかくて、あったかくて、抱き心地が最高」
ぎゅっと抱きしめながら吐息まじりにささやく。
「セーラ。おやすみのキッス」
ニコラスはそう言うと、唇を伸ばすようにして、目をつぶった。
セーラくすっと笑うと、ニコラスの額に口付ける。
ニコラスがパチっと目を開けた。
「えー。そっちじゃないのにぃ~」
口をとがらせ、頬を膨らませる。
セーラはクスクス笑った。
「ま、いっか。おやすみ、セーラ」
ニコラスはニヤリと笑ってそう言うと、目を閉じる。
すぐにスヤスヤと安らかな寝息が聞こえてきた。
セーラは目を丸くしてしばらくニコラスを見つめていたが、クスリと微笑むと目を閉じた。
*****
セーラが目覚めると、隣にニコラスの姿はなかった。
胸騒ぎを覚えたセーラは、すぐに起き上がると上着を羽織った。
よく眠っているジョンの姿を確認してから部屋を出ると、廊下を小走りにエントランスへと向かった。
ゲートの小部屋の前で、ダニエルと何やら話しているニコラスの姿を見つけ、セーラはホッと息を吐いた。
ニコラスの姿は、いつもの乞食服ではなく、シンプルで動きやすそうな服に、リュックを背負っていた。
とはいっても、服もリュックもボロとまでは行かないが、だいぶ使い込んだ、くたびれ感がある。
もちろん頭は、いつものボサボサ頭だ。
「セーラ?」
振り向き、セーラの姿を見つけたニコラスは、驚いたように目を丸くした。
「ニコラス」
セーラは駆け寄った。
「起こしちゃったのか。ごめんね」
気遣うように言うニコラスに、セーラは横に首をふった。
「どこか行くの?」
「ちょっと遠方のお仕事なんだ。しばらく留守にするから、よろしくね」
「いつ、戻ってくるの?」
セーラの声は自分でも驚くくらい、寂しげに響く。
ニコラスは破顔すると、セーラを抱きしめた。
「大丈夫。そんな危険な任務じゃないよ。ひと月くらいで帰れるし」
「ほんと?」
セーラはニコラスの顔を見あげる。
「嘘ついてもしょうがないでしょ。君ってそんなに心配症だったっけ?」
ニコラスは苦笑いを浮かべる。
「ごめんなさい」
セーラは恥ずかしくなって、ニコラスの胸に顔をうずめた。
「ほんとに君はかわいいね」
ニコラスは腕に力をこめ、再びセーラを抱きしめた。
ダニエルが咳払いをする。
「ダニエル。風邪でもひいたの? うつさないでくれるかなぁ」
ニコラスはセーラを抱きしめたまま、ダニエルにチラリと冷たい視線を送る。
「えー、師匠。お取込み中、大変申し訳ありませんが……」
「大変申し訳ないよ、君。ちょうど盛り上がってきたところなんだ。邪魔しないでくれる?」
相変わらずセーラを抱きしめたまま冷たい声を出すニコラスに、ダニエルは自分の後頭部をなでながら、あいまいな笑みを浮かべた。
「あのぉ。予定の時刻が過ぎておりますが……」
ニコラスはハッとしたように、ダニエルに顔を向けた。
「早く言ってよ」
慌てた様子でセーラを離すと、床に置いてある大きなバックを肩にかけた。
「じゃ、セーラ行ってくるよ。行ってらっしゃいの儀式」
そう言って、目をつぶり、セーラに向かって唇をつきだす。
セーラはくすっと笑うと、ニコラスの頬にキスをした。
「んー。セーラのいけずぅ」
ニコラスは口をとがらせ、身悶えながらそう言うと、身を翻し、急いでゲートの小部屋へと飛び込んでいった。