応接室
セーラを応接室に案内すると、ニコラスはクレメンスとともに着替えに行ってしまった。
二人が出て行ってすぐに、若い女性職員がやってきた。
「お飲み物、何にいたします?」
尋ねられて、セーラは躊躇した。
先ほど喫茶店で紅茶を飲んだばかりだったからだ。
「たいていそろってますよ。コーヒー、紅茶、緑茶に」
どうやら職員は、セーラがメニューをがわからなくて戸惑っていると、勘違いしたようだ。
「ほうじ茶、そば茶、ゆず茶、アップルマンゴーティー、特製ハーブティー、リンゴジュース」
ずらずらと出てくる品名に、セーラはポカンと職員の口元を眺めていた。
思い出すように目線を上に向けて指折りながら、職員はひたすら言い続けている。
「みかんジュース、ぶどうジュース、あんずジュース、グレープフルーツジュース、ミルクセーキ、メロンソーダ、レモネード、ラムネ、特製ミックスベジタブル、青汁に……」
そこまで言ったところで、職員はハッとしたようにセーラをみる。
「メニューお持ちしますね」
慌ただしく応接室を出たと思ったら、すぐに戻ってきた。
「どうぞ」
セーラは差し出されるままに職員からメニューを受け取った。
急ごしらえ感たっぷりの、メニューと書かれたバインダーを開く。
コーヒー、紅茶、緑茶と最初の方は大きな文字でしっかりと書いてあったが、リストの下の方にいくにしたがって、文字はどんどん小さくなっていく。
最後の数行に至っては、一行一品目が無理だとなったらしく、一行に小さな文字で、数品目書いてあった。
「これ、全部なんですか?」
セーラは顔をあげた。
そこいらの飲食店よりも豊富なメニューに、問わずにはいられなかった。
「びっくりですよねぇ」
職員は頷きながら言うと、声をひそめる。
「ここだけの話、師範の先生方って、頑固でわがままなんですよぉ。『これは絶対になきゃダメなんだ』とか『なぜないんだー』とかはじまっちゃうと、もぉ~大変。仕方ないんで、とりあえず追加してたら、こんなに増えちゃって」
そう言って、困り顔をして見せる。
セーラは、なんとなく想像がついてしまい、笑うしかなかった。
「あの。ニコラスも何かご迷惑を……」
ふと気がかりになって訊いてみる。
あのニコラスなら、十分にあり得ることだった。
「あ、すみません」
職員は肩をすくめ口を手で押さえた。
「あ、いえ」
セーラは慌てて首を横に振る。
「ニコラス先生は特には……」
職員はセーラから視線を逸らす。
「お気になさらないでください。予想はしてますから」
セーラはそう言って、ふわっと微笑む。
職員はホッとしたように肩の力を抜いた。
「特に追加しろとはおっしゃらないんですけど、お水が……」
「お水?」
セーラは首をかしげた。
「はい。どっかの山奥のなんとかっていう泉の湧き水じゃなきゃダメだとおっしゃって。違うお水を使うと……」
メニューのこだわりよりも、よっぽど性質が悪い気がしたセーラは、眉間にしわを寄せた。
「あ、でも、ご自分で汲んでらっしゃるんで、大丈夫です」
セーラの様子に気がついたのか、職員は慌ててそう言うとニコッと笑う。
「秘密の場所なんで、誰にも教えたくないそうです」
決めの一言に、セーラはどういう顔をしていいのか戸惑い、とりあえず微笑んだ。
「あ、じゃあ、お抹茶にしましょうか? 先生の汲んできたお水を使って、点ててきますね」
職員はそう言うと、部屋から出て行った。
応接室はセーラだけになった。
ソファーに腰かけたまま、辺りを見まわす。
室内は落ち着いた雰囲気だったが、よく見ればところどころに不思議な文様の装飾が施されている。
高い天井からつり下げられた照明からは柔らかい光が降りそそぎ、部屋全体を照らしていた。
魔術の素養が全くないセーラにも、何か不思議な力を感じないではいられない空間だ。
不思議な空間といえば、ニコラスの館も不思議な雰囲気に包まれてはいるが、わりとシンプルな感じがする。
ここはそれよりも、もっともっと複雑に色々なモノが混じりあい、互いに干渉し合いながら融合しているような、そんな感じだ。
建物全体が生きているのではないか、と思ってしまうくらい、息づくような、そんな雰囲気がある。
かといって、排他的な居心地の悪さはなく、優しく包み込まれているような、とても居心地の良い建物だった。
ノックとともに、先ほどの職員より少し年かさ――30代後半ぐらいの栗毛の女性が入ってきた。
女性はセーラににっこりと微笑みかけると、抹茶と可愛らしい色合いの上生菓子をテーブルの上におく。
セーラが会釈すると、女性は微笑みながら、軽く会釈をし、数歩後退し、方向転換した。
セーラはさっそく茶碗を手に取った。
「セーラ」
大きな音とともにドアが勢いよく開く。
「おっとぉ」
ドアの前にいた女性は軽くのけぞった。
「うわ、タチアナさん。ごめんなさーい」
女性ーータチアナは「どけ」というように手を力強く横に一回だけ振ると、そのまま無言で退出していった。
「セーラ。お待たせぇ」
タチアナと入れ替わりにこざっぱりした身なりの男性が入ってきた。
「あ、タチアナさん、点ててくれたんだぁ」
そう言いながら、セーラの横にストンと座る。
「ニコラス?」
セーラは茶碗を手にしたまま首を傾げた。
「タチアナさん、オイラには絶対点ててくんないんだ。いぢわるだよねぇ」
ニコラスは灰色の瞳をキラキラさせながら、当然のようにセーラの手から茶碗を奪いとると、「いっただきまぁす」と満面の笑みを浮かべて茶碗に口をつけた。
セーラはそんなニコラスの横顔をまじまじと見つめた。
つるんときめ細やか肌、スッと通った鼻筋、涼やかな目元に長い睫毛。
まるで風神ロイソールリースルのようだ。
「やっぱり、タチアナさんは上手だなぁ」
ニコラスは少し前傾姿勢になって、和菓子を摘まむと、血色の良い唇を開けてポンと放り込んだ。
「うぅーん。秋野のお菓子は絶品だねぇ」
青みがかった黒髪をサラサラ揺らしながら軽く身もだえる。
口調も仕草もどこまでもニコラスだった。
しかし、無精髭を剃り、髪もきれいに撫でつけた姿は、全くの別人にしか見えない。
セーラはしばらくポーッとニコラスを眺めていた。
「ん?」
ニコラスがセーラの方を向いた。
蠱惑的な灰色の瞳がじっとセーラを見つめる。
セーラは頬が熱くなるのを感じ、慌てて下を向いた。
「セーラ、もしかして……」
ニコラスが顔を近づけてセーラを覗きこんでくる。
セーラは恥ずかしくなって、うつむいたまま、軽く首を横に「イヤイヤ」と振った。
「お菓子食べたかった?」
予想外の台詞にセーラはキョトンとして顔を上げた。
ニコラスはそんなセーラの瞳を真っ直ぐ見つめながら、ニタァと意地の悪い笑みを浮かべた。
セーラは思いっきり眉間にシワを寄せる。
「後でちゃーんと秋野でお菓子、買ってあげるからねぇ」
ニコラスはわざとらしいニコニコ顔をしながらセーラの手をとる。
セーラは真っ赤になって「もう」と、頬を膨らませながらニコラスの手を振り払った。
「セーラ怒っちゃった?」
「知らない」
顔を覗き込んでくるニコラスを軽く押しやり、セーラはツンとそっぽを向いた。
「セーラ、ごめんよぉ。帰ったら、特別な茶器でちゃーんと点ててあげるからぁ」
ニコラスはセーラの肩に手を回し、甘えるような声を出す。
「ホント?」
「うん。セーラのために特別」
甘い声でセーラの耳に口をつけるようにして言った。
セーラはくすぐったくて身をよじる。
「ニコ。馬車がきたぞ」
突然飛んできたクレメンスの冷たく低い声に、セーラはハッと我に返り、慌ててニコラスを押しのけた。
「うわぁ~」
ニコラスはおどけた声をたてながら、楽しそうにソファーにひっくり返る。
「まったく。ドアが開けっ放しだ。ここは若い者や子供も出入りする。少しは場所をわきまえたらどうだ?」
クレメンスはソファーのすぐ傍にツカツカと歩み寄ると、腕組みをしながら、情けない態勢で転がっているニコラスを見下ろした。
「んもう。クレちゃんてば、やきもち焼いちゃって。あひゃひゃひゃひゃ」
ニコラスはクレメンスのしかめっ面もどこ吹く風と言うように、珍妙な笑い声をあげた。
クレメンスはしばらくキツい目つきでニコラスを見ていたが、諦めたようにフッと表情をゆるめた。
「あんまり馬車を待たせると、追加料金を請求されるぞ」
「そりゃ大変だ」
ニコラスは飛び上がるように立ち上がるとセーラの腕を掴んだ。
そのまま強引にドアへと向かう。
「ニコラス、待って」
セーラは戸惑いながら振り返った。
クレメンスは腕組みをしたまま「フフフ」と楽しむようにこちらを見ている。
「クレちゃんなんかほっといていいんだよ」
ニコラスは痛いくらい強い力でセーラを引っぱりながら、ドアを開けて廊下に出る。
「追加料金は困る~」
セーラを引きずりながら、ニコラスは走り出した。