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「至らぬ者で申し訳ございません。お怪我はございませんでしたか、女王陛下」
「あ、ああ。大丈夫だ」
ユカリィが視線を彷徨わせながらルージェに頷く。どうやらルージェの勢いに気圧されたのは、ケイばかりではなかったらしい。
「ケイ」
ユカリィが呆けたような面持ちで、ケイの名を呼ぶ。
「ん?」
「この者は一体?」
尋ねるユカリィへ、ケイは、ああ、と頷きちらりとルージェに視線をやった。
「こいつはルージェって言、ってぇ!」
真面目に紹介しようと思っていたのに、錫杖で足をぐりりとやられ、痛みに言葉を失う。立ちあがったルージェは、涙目で睨みつけたこちらへ勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、ユカリィへ向かって艶然と微笑んだ。
「私は悠久を旅し世の均衡を尊ぶ者。そして、あなたとそこにいる若き釦師の成長を誰よりも望む者」
「そうか。ではあなたが『全ての事象の記憶(マインド・オブ・マインド)』なのか」
納得したように頷くユカリィに、ルージェが不思議な笑みを浮かべる。
「信じておやりなさい。あなたの匠を。そしてあなた自身を」
その瞬間、虚を突かれたようにユカリィが目を見開いた。ルージェはそんなユカリィに心底満足げな微笑みを湛え、虚空へと消える。
ケイは、ルージェの消えた虚空をぼんやりと眺めているユカリィに近づき、小さな声で呟いた。
「タレアスクの『陽炎』がまずいらしい」
「そうか」
言葉少なにユカリィが答える。ケイは急に心配になって、ユカリィの顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「ああ」
虚空を見上げたままユカリィが頷いた。その顔色は少し青みがかっている。
「辛そうだぞ?」
重ねて尋ねてみると、ユカリィが虚空から視線を外し、こちらを見つめてきた。
「少しだるいだけだ。まだ起き抜けだからだろう」
それはあまり納得のいく答えではなかったが、これ以上の追及が無駄なことだという気がして、話題を転換を試みた。
「碧仮面でもないが似た感じのする奴、か。本当に正体はばれてないんだよな?」
「ああ」
ユカリィが頷く。瞬間、俄かにバランスを崩したたらを踏んだ。慌てて支えに入ると、ケイは眠たげに瞳を瞬かせるユカリィへ笑いかける。
「おいおい、今さら眠るなよな」
「いや、そういうつもりではないが。……眠くてな」
瞼を擦るユカリィに、ケイは肩をすくめ軽口をたたいた。
「しゃれにならないこと言わないでくれよ。やっぱり『陽蕾』が盗られてるんじゃないのか?」
「そんなことはない。ここにこうして」
話ながらユカリィが胸元に触れる。その視線を追いかけて、ケイは固まった。
「ない」
「ないな」
ケイはユカリィと顔を見合わせ、黙りこんだ。なんなんだ。この事態は。正直言って、何が何だかさっぱりわからない。もはや混乱しすぎて驚くこともできず、ケイは止まりそうになる思考を懸命に動かした。
「ええっと。君、いつまで動けるんだっけか? 確かロンドラルの鐘が……」
「ロンドラルの鐘が一万回鳴り終わるまでだな」
淡々とした口調で事実を述べてくるユカリィを前に、背筋が凍る。時間がない。唇を噛み締めるケイの耳に、破滅を告げるロンドラル鐘の音が、暗く重々しい響きをもってこだました。




