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テルモアが『陽炎』に閉ざされた。
八つある国の八つの太陽。その内七つが終わらない闇と眠りに落ち、残るはあと一つ。
「リチャード、なんとか持ちこたえてくれればいいんだが」
エトランディア王国のお膝元、セント・エトランディアへ向かう船の甲板で、ケイ・都基山は唇を噛みしめた。晴れ渡る青空の下、一つに結んだ焦げ茶色の長髪が風に揺れる。この空が偽物であることを知る者がこの世界で一体どれほどいるだろう。世界中の城を中心に張られた人工オゾン層(オゾンスクリーン)という名の白い幕。それが剥がれたら、ガス星雲と化した本物の太陽が剥き出しとなって自分たちに牙を剥き、早晩世界は終わってしまう。
「あと少しだったんだけどな……」
本当はもう少し時間が欲しかった。王の身に起こる不可解な分離現象『ロア』の研究は、あと一歩というところだったのに。こんなに早く事態が最悪な状態になるとは思いもよらなかった。今頃ともに研究していたテルモアの釦師リチャード・ルイスは、『陽炎』を維持するため必死になっているに違いない。
ケイは穏やかな碧い海を見た。凪いだ波とは裏腹に、船上は払拭しがたい不安と恐怖で満ち溢れている。目的地まであと小半時。食糧の尽きたこの船で、もう二日を過ごしていた。ケイは瞳に深い恐れを宿した人々の顔をゆっくりと見つめていく。母国に帰ろうとするエトランディアの民、釦師である自分が守るべき人々の今の姿だ。
「おにいちゃん、もしかして釦師の人?」
下から小さく声をかけられ、床を軽く蹴る。深緋色をした臥蝶丸のサーキュラーケープをふわりとなびかせ、声をかけた子供の前に降り立った。
「そうだよ、よくわかったね」
少年の目線に合わせて屈みこみ、黒い髪の上に手を軽く置く。黒髪の少年は頭に乗せられたケイの手を両手でとりしげしげと眺めた。
「だって、遠くから見てもわかるくらい、ぼくらよりずっと白い肌をしてるもん。でもテルモアの人たちはみんな眠っちゃってるはずだし……。それによく見たらテルモアの人たちよりは黄色いし、瞳も真っ黒だね」
少年は瞳を輝かせ破顔する。
「すごいな。探偵になれそうだ」
ケイは心底感嘆して少年の薄茶色い瞳を覗きこんだ。少年は少し照れた様子でへへっ、と頭に手をやる。ケイは目を細め、少年の胸元に輝く黄色いロスタルム製のボタンを見つめた。
「旅行だったのかい?」
国の外へ出ていく者はみなロスタルム製のボタンをつけて、その中に王から太陽力を分け与えられる。期限は長くて一年。そうでないと眠りに就いてしまうのが『太陽の民ランドラリア』の宿命だ。夜を駆ける自分たち少数民族『月の民レイラリア』とは、まったく逆の性質である。ケイは少年の身なりを改めて見聞した。二藍色をした平織のマフラーと茶色いジャケット、黒のパンツに黒い布のブーツ。あまり旅行向きの格好ではないか、と結論づけたところで少年が首を横に振った。
「ううん。テルモアで一旗揚げるって父ちゃんが。でも一年に一度は戻ってるんだけどさ」
「それは大変だね」
相槌を打ちながら少年の幼く丸い輪郭を見て、ふとこの少年は今いくつなのだろうと考える。大人っぽい口調をしてはいるが、五、六歳だろうか。十七の自分よりよほどしっかりしている気がするのが少し情けない。こちらを見上げた少年は、そうでもないよ、と堰き切ったように話を続けた。
「ぼくら家族全員うちの女王さま大好きだし。それにテルモア市民になるには五年住み続けてあっちの王さまの太陽力を少しずつもらわないとだめだったからさ。『ぎしき』? がめんどくさいって父ちゃんが言ってたし。それに」
饒舌に話していた少年がほっと息をつきうつむく。今にも泣きそうな、不安げな声音でケイに尋ねた。
「だいじょうぶだよね? 『碧仮面』にも勝てる?」
少年の言葉に、ケイは内心で舌を打つ。釦師殺しの『碧仮面』に対する恐怖が、こんな小さな子にまで浸透しているとは。ケイはだいじょうぶ、と口で答えるかわりに力強く頷き、少年の手をとり歩きだした。