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サイカイノミドリ


 1


 この星から緑という色が消えたのは百年前の話だ。僕が生まれた時には地球という星はもう、正真正銘、青い星だった。

 その昔地球には陸地があり、大陸は隆起した鋭鋒の頂を競うようにひしめき合い、緑と青のコントラストは優雅で雅な自然の証明として溢れていた。そんな時代の地球の姿を教科書で学んだ事があるし、図鑑でも見た事もある。

 しかし、人類は栄えすぎた。

 人が増え技術が発展すると、発展した技術は有害な二酸化炭素を大量に吐き出し、成層圏で囲われた地球の内部で占有領域を拡大し、地球が有する熱を帯熱させ星を火照らせた。その熱量は、嘗て北極と呼ばれていた氷に支配された極寒の地をすべて溶かし、氷塊を水へと帰してしまった。

 氷塊は全てが溶けて消えた。それに伴って海面が上昇した。

 地表はその面積を狭めた。北極の消失による海面上昇で、地表の半分以上が消滅した。

 北極の消失により変貌した気象メカニズムが異常気象を併発させたのは、直後だったらしい。教科書ではそのように語られていた。

 氷塊の融解に伴う温度の変化と気象の異常は、大気中の暖流と寒流の流れを正常なバランスから逸脱させ、世界中の空に人類史上では計測した事もない、一晩で数年分と形容された豪雨を数年もの間降らせ続け、溶けた氷の倍以上の水量となる雨が、面積を失わせた地表を襲った。

 瀑布の如く降る雨は海面を更に上昇させ、希少な大地を更に殺していった。

 地球は最早、寿命は残り何年かと推し量る事さえ滑稽になる程、臨終の時を目前に控えていた。大地が地球から消え失せるのも時間の問題だった。

 日に日に上昇する海面。日に日に狭くなる陸地。日に日に失われてゆく自然と文明。

 そこで、当時の国家を統括していた偉い人達は決断する。

 対処法は限られていた。

 自然の猛威に常に管掌されて生き長らえてきた人類が自然に対抗する技術や自然との主従関係を逆転させられるだけに圧倒的な技術を持ち得ている筈もなく、溶けた北極の莫大な氷塊を再生させる事も、成層圏内部に蓄積された星の火照りを冷まさせたり、火照りを地球外へ放出させたりするなんて空想科学は頭の中に浮かぶだけで、結果として国家の偉い人達は、自然が人類に向けた介錯の一手を退けるのではなく、自然が齎した地球上の陸地の消滅の危機を真摯な姿勢で受け止め、その上で、人類が生き長らえる方法を模索する事にした。

 陸地を失ったこの星で生き続けるにはどうすれば良いのか。

 宇宙ステーション。

 それも確かに案件として掲示されたらしいが、目と鼻の先に迫った陸地の消滅を前にして何世紀かかるかも判らない未来の生活を対処法にする程、昔の偉い人達は馬鹿じゃなかった。

 それは少し残念でもある。自然が人類から陸地を奪うのがあと数世紀先だったなら、人類はその間に宇宙ステーションの開発を推し進め、その時が訪れた際には人類は皆仲良く宇宙へ飛び出し、宇宙を生活の場とする生活が待っていたかもしれないと言うのに。

 まあ、そんな感じで地球脱出という対処法は却下された。ああ、これは本当に残念だ。宇宙での生活は今も絵空事だ。実現するのはきっと、僕の子供の子供、その子供が大人になった頃だろう。いや、そもそも実現するのかも定かじゃない。実現しない可能性の方が、冷静に考えて割合が大きい。

 人類が人類としてこの星に生まれた瞬間から、僕達はこの大地に縛り付けられていて、大地と離別して生きる事は許されないのかもしれない。

『人類は地球に拘束されている。例えば、首に鎖をかけるかのように』

 陸地消滅の間際、ドイツの物理学者が残した名言だ。それは、今や歴史の教科書にも載るくらい有名な言葉で、誰でも知っている言葉だ。僕でさえ知っているのだから、きっと誰でも知っている筈だ。

 鎖をかけられている以上、それを断ち切り支配権の届かぬ場所まで逃げる事は叶わず、首にかけられている以上、自然が気紛れであっても、それをぐいと引っ張り人類の首を絞める事はいつでも起こり得る悲劇だ。

 まさに、陸地消滅の危機を目前に控えた人類を象徴した言葉だ。

 では地球に鎖をかけられた人類はどの様にして生き長らえたのか。

 巨大なドームで都市をくるみ、水中生活?

 違う。

 巨大な船を建設して水上生活?

 優雅だが、これも違う。

 正解は、残された希少な大地をそのまま海面よりも上に浮き上がらせる。

 リニアモーターカーと同じ原理だ。磁石の同極同士が反発し合うのと同じ原理。地中深くに埋め込んだ基盤極アースポイントと、僕達が生活する大地に埋め込まれた浮遊極フローポイントが反発し合い、陸地は浮上した。

 長きに渡った雨の年月が明けたのは、陸地がひとしきり浮かび上がった数年後である。その時既に、地表という言葉は意味を失っていた。

 海面は最終的に本来の位置から3751メートル上昇した。それは、富士山頂が標高10数メートルの小さな丘になり果てる高さだ。

 僕達が生きている地球に今も残されている大地とは、嘗ては鋭鋒と讃えられていた山脈の僅かな頂だけ。地球という星に残されたそれらの貴重な大地は、現在各国の研究者が集まって結成された地球保護機構、通称PEOにより厳重に管理され、民間人が立ち入る事は国際法によって禁止されている。

 僕達が生きているのは、嘗ての標高で計測すると4250メートルの位置にある、嘗ての姿のまま空中に浮かんだ、区画と名付けられた街の上。区画はひとつずつが綺麗な正方形をしていて、隣り合った区画同士が手を取り合うように幾つも繋がっている。地図上で今の星を見たら、その姿はパズルを連想させるだろう。空中で行ったパズルだ。

 区画の隙間からは数100メートル下の海面が覗き、その遥か彼方にある海底には、空に浮かぶ事が許されなかった過去の街が、当時の姿のまま、今も眠っている。


 今は西暦2199年。

 陸地消失から一世紀の節目となる、記念すべき年だ。



 2



 ――そろそろ、この混沌とした暗い世界から抜け出さなくては……。

 鏑木アキトは決意を胸に抱きながら頭までかぶっていた布団を押し退けると、スローモーションのような動きで身体を起こした。カーテンの隙間から射し込みベットを照らす日差しは、今日も快晴であると主張している。彼はそれを確認して、大きな欠伸をした。彼の全身には、まだ眠気が大量に残されていた。目を開けている事が難しかった。

 寝惚け眼をこすりながら、アキトは目覚まし時計を持ち上げた。この時点で、なんとなくではあるが違和感はあった。いや、予感と言った方が適当だ。それも、嫌な、と前置かれる方だ。宿題を忘れた日に限って先生にあてられたり、傘を忘れた日に限って雨が降ったりする。その直前に感じるやつだ。

 外は起きようと思っていた時間にしては明るい。明るすぎると言ってもいい。第一、今が起きようと思っていた時間だとするなら、いつ目覚ましが鳴ったのかが判らない。まだ鳴る前なのかもしれないと、彼は思った。今日は珍しく目覚ましよりも早く起きたのかもしれない。だが、そうだとするには、やはり外は明るい。

 明るすぎる。

 頭が身体を追うように目覚めてくる。瞳もそれを追って目を覚ました。視界と意識が、ラジオのチューニングをするように、徐々に現実と同調する。

 目覚めた彼の瞳は時計のデジタル数字が“09:30”となっている事に気付いた。彼の意識は、そこで数秒間だけフリーズした。

 ――09……09。……9時?

 その数字の意味を繰り返し確認する。

 “06”と見間違ったのかもしれないと考えたが、何度見ても、時計は今が9時だと告げている。今は9時30分。起きようと思っていた時間が“06”の方である。

 完全な寝坊だった。

「まずい!」

 言うや否や、ベッドから飛び降り寝間着を放り投げると、昨日脱ぎ散らかしたままにしていた服を手に取り、それを着る。今から服を選ぶ時間はないと本能的に理解していた。胸にボーダーのプリントがされた半袖のパーカーは皺だらけだったが、気にしている余裕はなかった。どたばたとズボンを穿くと、机の上に置いていた昨晩プリントアウトした一枚の紙をポケットに押し込み部屋を飛び出るが、すぐに忘れ物に気付き戻ってきた。アキトはタンスの上が定位置であるペンダントを掴むと、それを首にかけた。それは毎日身につけているペンダントであり、彼の背格好が成長に伴って変化していく中、変化をしていない唯一のものである。

 ものの十数秒で身支度を終えたアキトは、その後大慌てで一階へと、文字通り、転げ落ちた。

「おはよう、アキト」キッチンで朝食の準備をしていたアキトの母は、普段通りに朝の挨拶をした。アキトの起床が慌ただしいのは鏑木家にとっては珍しい事ではなかった。「今日はどうしたの」

「どうしたの、じゃないよ!」アキトは膝を押さえながら訴えた。膝は、階段を落ちる時にぶつけていた。「6時に起きるって言っていたのに!」

「知ってるわよ」母は手元のフライパンに意識の大半を集中させながら言った。「起こしたわよ。お母さんもアキトの時計も。起きなかったのはアキトでしょう」

「起きるまで起こしてよ!」

「あと十分。そう言ったのはアキトよ」

 ほ、と掛け声を放ちながら、母はフライパンを跳ね上げた。音を立てるフライパンの上で黄金色をした卵焼きがひっくり返る。見た目の出来栄えは満点である。母は満足しながら用意していた皿の上に出来上がったばかりの卵焼きを盛り付けると、そこで初めて、アキトを見た。

「それに、そんなに早起きをしてどうするの? お父さんが帰ってくるのはお昼過ぎよ」

「判ってないなあ、母さんは」

 アキトは忙しなく洗面所へ向かった。蛇口をひねる音が母の耳に届く。

 今日は、北極での研究に就いていた父が一年と五カ月振りに我が家へ帰還する日である。詳しい時刻は聞かされていない。アキトの父で彼女の夫は、仕事以外では正確という言葉と無縁の人物である。数日前に届いたメールには、夕方には家に着くとしか書かれていなかった。ちなみに、その時のメールの文面とは、それだけである。

「リーデルから教えてもらったんだ」顔を洗い、寝ぐせを水でねじ伏せながら、アキトは言った。「PEOの通過ルートとか、いつ頃どこを通るのかとか、いろいろ」

「リーデル君から?」

「そう。研究区画が関東区画に接岸するのは、3時30分。10時にうちの区画の真下を通るから、その頃に区画溝に行ったらPEOがよく見えるらしいんだ」

「10時?」母は時計に目を向けた。「もうすぐじゃない」

「だから急いでるんだろ!」

 アキトは洗面台から一目散に玄関へ向かった。

「ちょっと、どこへ行くの!」母はその後を追いかけ、アキトの服の後ろを掴んだ。「朝ごはんがまだでしょう!」

 ダイニングテーブルには、しっかりと二人分の朝食の準備が進められている。母とアキトの分だ。

「そんな時間ない!」アキトは母の手を振りほどき、靴を履いた。急いでいるせいで、靴紐がうまく結べない。「それに、今日も魚でしょ」

 家の中には焼き魚の香りが充満していた。

 アキトは嫌というほど嗅ぎ慣れたその香りに、顔をしかめた。

「魚は飽きた」

「贅沢言わない」腰に手をあて、母は言う。

「肉がいい。肉が食べたい」

「だから、贅沢言わないの」

「夜は?」

「お肉」

「父さんが帰ってくるから?」

「その通り」

「じゃあ、それまでこの空腹は大切に取っておく」

 ようやく靴紐を結び終えたアキトは、立ち上がり玄関のドアに手を伸ばす。

「そういう問題じゃないでしょう!」母は再びアキトの服を掴み、彼を引き戻した。「ご飯はちゃんと食べなきゃダメって、いつも言ってるでしょう!」

「ちょっと、離してよ!」

「ちゃんとご飯を食べない間は、外出禁止」

「そんなあ。それだとPEOが見れないじゃないか!」

「寝坊したアキトが悪いんでしょう」

「起こしてくれなかった母さんが悪いんだ!」

「だから、起こしたって言ったじゃない」

「はなして母さん!」

 悲鳴を上げるアキトは、ふと、知恵を思い付いた。悪知恵である。こういった時ほど、彼はそういったものをよく思いつく。

「魚の焦げる臭いがする」

 その一言は、その瞬間には嘘であった。出まかせの言葉だが、しかし、母には大きな効果があった。

「え!」母は思わずアキトの服から手をはなした。

 その隙にアキトは外へ飛び出す。

 アキトの言葉が嘘であると気付いた時には、既に母の前にアキトの姿はなかった。あるのは、開いたままの玄関だけである。

 彼女はスリッパをつっかけアキトを追った。アキトは自分の自転車にまたがり、今、それをこぎ出そうとするところだった。

「こら、アキト!」母は声を大きくした。

「すぐに帰ってくるから!」

 アキトは最初のひと蹴りから全力で自転車を動かした。彼の姿は、瞬く間に小さくなり、向こうの交差点を曲がると、遂に見えなくなった。

 追いかけようと思ったが、母はそれをやめた。追えない事はないのだろうが、そうまでする程の事でもない。こういった事は日常茶飯事であるとは言わないが、別段珍しい光景というものでもなかった。

 母は呆れたように、朝の澄んだ大気の中に溜息を吐き出した。

「まったく。誰に似て育ったんだか」

 彼女は空を見上げた。彼女が吐き出した息は地球上の大気に飛散し、拡散し、上空に絶えず居座る巨大な雲に混入する。天候は本日も快晴である。空は青色と白色に分断されていた。

 数えて一年半ぶりの父親の帰宅。その日和として、申し分ない快晴だ。こんなにも空が綺麗だと感じるのは、久し振りかもしれない。久しく、こうやって空を眺めた事が無かった。

 空が今日の日を祝福しているのだろうか。彼女はそんな事を考えた。だが、唐突に穏やかな感慨は蒸発する。

「――魚!」

 先程までの嘘が、現実に変化をしていた。

 彼女は慌ててキッチンへ駆け戻った。



 3



 走っている間、アキトは自分の頬が次第に綻んでいくのを自覚していた。

 こんなにも、とある一日を待ち侘びる事など、これまでに一度としてなかった。毎朝毎晩カレンダーを見つめては、今日までの日数をカウントダウンし、その数が一桁の数字になってからは、一日の時間がひどく長く感じてしまうほど、この日が待ち遠しかった。

 リーデルとはアキトの友人の名で、彼が親友と位置付ける人物だ。

 だが、リーデルと対面した事はこれまでになかった。顔は知っているが、それはモニタに表示されるバストアップの状態だけで、アキトは彼の全身像をまだ知らない。リーデルとはテレビ電話で交流したことしか、いまのところない。

 そんなリーデルと初めて出会えるのが、今日だ。

 本名はリーデル・ラメド・ベーゼ。PEOに所属し、アキトの父親の下で研究補佐官として働いている、アキトよりもみっつ年上の少年だ。去年父親とテレビ電話で会話をした際に、同じ年頃の子供がいるのだが、研究所の中は大人ばかりだから友達になってくれと紹介されたのが出会いのきっかけだった。

 ディスプレイに映るリーデルは、夕焼け空を閉じ込めたかのように鮮やかな髪と瞳の色をした少年だった。

 アキトが名前を訊ねると、名前だけを呟いた彼の声は琴を鳴らしたように澄んでいたが、その時リーデルは唇しか動かさなかった。瞳は下を向き、その姿は儚げで寂しそうな少年だった。

 孤独を連想させる少年を見て、アキトは思った。

 ――なんて綺麗な男の子なのだろう。

 それからアキトは、事ある毎に彼へ電話をした。今日は学校でこんな授業があったとか、近所の自然保護区画で紅葉が始まったとか、そういった何気ない報告がほとんどだったが、アキトはリーデルを気に入り、モニタを通じての交流は、ほぼ毎日続けられた。

 何故リーデルの事が気に入ったのかは判らない。寂しげだったからだとか、孤独そうだったからだとか、そういった同情心ではなかったと、彼は思っている。純粋に彼に好意を寄せていたのだ。もしもリーデルが異性であったなら、これを一目惚れというのだろう。

 最初は口数の少なかったリーデルも、次第にアキトに心を開くようになり、話す会話の内容も日に日に増えていった。そうして毎日、他愛もない会話が繰り返された。

 だが、アキトが中学に上がるのを境にして、日課となりつつあった毎日の通信は数を減らした。リーデルが16回目の誕生日を迎え、これを機に、研究チームの一員として仕事を始めたからだった。

 仕事と言っても手伝いばかりで重要な仕事など当然与えられてはいないようだったが、研究チームの一員になった事をリーデルは喜んでいたし、アキトも親友からの朗報を自分の事のように喜んだ。そのせいで交流が減ったのは残念だったが、その代わりに画像や映像データを添付したメールでの交流が数を増やした。少しの時差が生じる交流だったが、以前よりも自分の知らない事を教えてくれるリーデルの話は、まるでお伽話や壮大なスケールの英雄譚のようで、アキトはリーデルからメールが届くのが楽しくてならなかった。

 そんなリーデルから、彼があるプロジェクトの一員に選出されたと聞かされたのは先月である。父の帰還と合わせて、その報告が届けられた。

 プロジェクトの内容は機密らしく教えては貰えなかったが、研究区画と共に彼も日本へ行く事になるから、その時に色々と見せたいものがあると、彼は言っていた。

 この時に送られてきたメールの文面が、どちらかと言えば“会わせたい”といったニュアンスだった事が気になっているのだが、文字の打ち間違いかなにかだろうと、アキトは深く気に留めなかった。そんな事を気にする余裕などないほど、初めてリーデルと会える事が嬉しかった。

 カレンダーでのカウントダウンから時計でのカウントダウンへと変わった昨晩、心躍らせていたアキトの元に一通のメールが届いた。差出人はリーデルだった。メールソフトを開いた瞬間に、アキトはリーデルからのメールに気付ける。彼からのメールは、すべて専用のフォルダに仕分けられるように設定している。リーデルと名付けられたフォルダに新着メッセージが一件収められていた。

 何だろうと首を傾ぎながらアキトはマウスをクリックしメールを開いた。本文を読むと、そこには研究区画が何時頃どこを通るかという、詳細な予定が記されていた。例の情報である。

 自転車を走らせながら、アキトはポケットに押し込んでいた紙を取り出し内容を再確認した。

 内容は、リーデルからのメール本文だった。

「10時ジャストに、区画溝……」

 書かれている内容を口に出して確認する。

 近所の公園を横切る時に、その公園の広場に備え付けられた時計に目をやる。10時5分前だった。

 彼は、上半身を地面と平行にして、もうこれ以上速く足は回転しないというくらいの全力でペダルを蹴った。彼の視界では、風景が溶けた飴細工のように横方向に伸びながら流れていく。そんな景色の街並みが、ぷつりと、途切れた。

 ――間に合った!

 彼は上半身を起こし、足の回転を止める。彼と彼の自転車は、空気と地面の抵抗を受けながら徐々に失速した。

 到着したのは区画同士の継ぎ目、区画溝である。正方形の区画には、当然端があり、区画同士の継ぎ目には隙間が存在している。区画同士は双方の行き来の為に、一片につき複数の橋がかかっているが、それ以外の場所には何もない。あるのは、海面を覗かせる隙間だけだ。それを区画溝という。区画溝は平均して10メートルほどの幅がある。

 アキトは自転車を完全に停止させると、区画溝への落下防止に設置されている塀の下に駐輪した。そして彼は、サドルを足場にして塀によじ登った。

 塀の上部に上ると、彼の視界は360度開けた。

 澄みきった空の色。それよりも幾許か淡い色をした眼下の海面と、遥か彼方の地平線。大陸を失わせたこの星の地平線は彼の視界と同じで360度の全方位である。彼が暮らしている区画の周囲に国際保護土壌は存在していないので、地平線にとって邪魔者となる隆起はこの区画を中心に数千キロは存在していない。

 アキトは塀を乗り越えると、眼下に狙いを定める。数メートル下に階段があった。彼は慎重に狙いを定め、そこへ飛び移った。階段の足場は網目の荒い格子状で、着地の瞬間に海面へ落ちてしまいそうな錯覚を覚えさせた。そこでは風は、上方へ向かって吹いている。勢いの強い風は衣服をはためかせ、ふとした瞬間に飛ばされてしまいそうだった。

 そこは区画のメンテナンスの際などに関係者だけが立ち入る事が許された場所で、勿論アキトは関係者ではないし、関係者であっても今の彼のような立ち入りは罰則の対象だ。

 手すりを強く握り締め、アキトは下を目指した。鼓膜の際で、風が騒々しく騒いでいる。

 風の隙間を縫って、重く低い駆動音が聞こえている。アキトは風の音よりもそちらの音に耳を澄ましながら、一度空を見上げてみた。前髪が上向きに揺れた。

 空は左右の区画同士が邪魔をしていて、ひどく狭かった。この位置からだと、青色は上空よりも真下の方が広い。区画の下部まで、あとほんの少しだ。

 海面の青色が近づき、その範囲を広める。その度に、先程から響く重低音は大きくなっている。いや、近づいている。近付いているのは両方だ。彼と音が、双方の中間点を目指すようにして接近している。その速度は音の方が速い。

 彼は区画の最下部へ到着する。彼が見る世界が海の青色だけになったその瞬間、海面を遮るように、目の前に、それは現れた。

 巨大な区画がゆっくりとした速度で目の前を通過しようとしていた。

「うわぁ……」

 時計が無いが、きっと今が10時だろう。アキトはまばたきを忘れて、区画の下を飛行するその区画を眺めていた。

 彼は目の前を横切る区画の巨躯に圧倒されていた。その形は、彼が暮らしている居住区画とは全く違う姿をしている。居住区画は平面的で、浮遊極や上下水道の設備の為に多少の厚みが存在しているが、外見で類似しているものを挙げるとするなら、本である。アルバムや写真集のように、正方形に装丁された書物だ。だが、今アキトの前を飛んでいる区画は、箱だ。進行方向の方が僅かに狭くなっている巨大な立方体が、彼の眼前を飛んでいる。アキトが居る位置からは大して離れた距離を飛んでいない。それこそ、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離だ。

「すっ……げえ」

 驚嘆と歓喜で自分が何を考えているのかが判らなくなる。ただ、そんな感想しか口から出てこない。アキトはしばらくの間、頭の中を白色の状態で区画の雄大さを堪能した。

 区画はアキトに挨拶をするように、区画の上部に刻まれた自身の名前をアキトの前に横切らせた。

そこには、ブロック体で三文字のアルファベットが書かれていた。

 “PEO”

 地球保護機構の略称であり、アキトの父とリーデルが所属する、国際的な研究機関の研究用区画だ。長かった北極での調査を追え、帰還の途は終盤である。途中でスコールに出くわしたのか、目を凝らすと側面に、汚れが縦のストライプを描いていた。それが、区画がひどく疲れているように思わせる。

 ――この中に、父さんとリーデルが!

 感動は次第に興奮にすり替わる。風に煽られながら、彼は強く握った拳を震わせる。だが、彼の胸の内の大半を占める高揚に水をさすように、視界の隅に何かが映り込んだ。そんな気がした。

「あれ?」彼は声に出して確認した。「何か、見えた?」

 目を凝らしてPEOの研究区画越しに海面を眺めた。その辺りで、何かが光った気がしたのだ。

 眼を細めて眺めるも、そこには波しか見えない。魚か何かが跳ねたのだろうか。いや、魚は光らない。太陽からの光を反射させたとしても、この距離で光が見えたとすると、そのサイズはかなり巨大な物でなくてはアキトの目に届かない。それこそ、PEOの区画ほどの大きさの何かが、そこにない限りは。

 ――なんだろう。

 アキトは転落防止のフェンスから身を乗り出し、何かが光った海面に目を凝らす。

 ――確かに、今何かが……。

 睨むようにその一点を睨む彼の身体を、不意に、突風が襲った。

「うわっ!」

 後ろから押す突風がアキトの身体をフェンスの向こうに突き飛ばした。一瞬で重力を感じなくなり、天と地が流転する。

 ――落ちる!

 既に落下をしながら、アキトは危機感を抱いた。だが、宙を舞った彼の身体に接続されている手のひらが掴めるものが、手を伸ばした範囲にはない。ぐるりと回転する視界の中に、直前まで自分が立っていた階段の淵が見えた。それは、一瞬毎に遠退いている。その代わりに、彼が叩きつけられる予定の、緑色をした海面が急速に接近する。

 衣服と髪を激しくはためかせながら、アキトは思っていたよりも海面が近かったと、他人事のように考えた。同時に、なんて短い生涯だったのかと、生を諦めた。どうにかして助かりたいとは、何故か思えなかった。どうしても助からないだろうとしか思えなかった。彼は、接近する緑色の海面を一瞥だけして、ゆっくりと目蓋を閉じる。

 ――緑色の海。……緑色の……“緑”!?

 アキトは慌てて目を開く。同時に全身を衝撃が襲った。だが彼を襲った衝撃は随分と優しかった。

 ばきばきと全身で小枝を折りながら、彼は柔らかな地面に背中から着地した。

 彼の息は数秒の間止まる。呼吸が再開してすぐに喉を通るのは、臓腑を吐き出しかねない咳だった。

 涙が出てくる。背中が痛い。いや、臀部の方が痛みは激しい。背中より先にそちらが着地したのだろう。だが助かった。痛いのは嫌いだが、生きている証に感じているこの痛みなら許そう。アキトは目尻にうっすらと涙を浮かべたまま、しばらく蹲っていた。

 やがて痛みが和らぐ。アキトは周囲を見渡した。

 そこは森だった。周囲は青色から深い緑色に変化していた。

 こんなにも鬱蒼と木々が生い茂っている場所を見るのは初めてだった。自然保護区画でさえ、これほどの密度で木々は植えられていない。それに、自然保護区画には彼を受け止めたような柔らかな芝生はない。

「ここ……PEOの中だ」

 先程から聞こえていた微かな駆動音が、今ははっきりと聞こえている。見上げた上空では区画がゆったりと横方向に流れている。彼が運良く落下したのは、PEO内部にある人工森林のようだ。リーデルから、PEOの中には広い人工森林があると以前に聞かされていた。ここがそうなのだろうと、アキトは理解した。

「とにかく助かった」彼は胸を撫で下ろした。「本気で死ぬかと思った」

 安堵の息を漏らした彼の脳内に、すぐさま次の問題が浮上してきた。問題としては、かなり大きなものだった。

「どうやって帰ろう……」

 彼の頭上では区画がどんどん過ぎ去っている。彼が先程まで居た場所は、とうの昔に彼方の向こうだ。飛び降りる事は出来ても、飛び移る事は流石に不可能だ。ならば、どうすればよいのか。

 こういった時、アキトの思考はどんなコンピュータよりも高速で回転する。

 頭の中で何パターンかの帰還シュミレーションを行った。大前提として、怒られたり叱られたりするのは嫌だったので、誰にも気づかれないまま帰還する方法というものを考えてみた。それと同時に、もし怒られた場合にはどれほど激しく叱られるのかも推測した。区画溝への不法侵入。それだけで、げんこつでは済まされないだろうと、彼のF1カー並みの思考は結論付けた。

 並行して行われていたシミュレーションが、帰還方法だけに集中する。考え付く限りの帰還方法は、どれも失敗に終わった。木を上って最上部に辿り着いても、上空の区画には手が届かない。それは、人間の脚力ではどんなに飛び上がっても届かない距離だ。距離は10メートル程あるだろう。試みなくても失敗は絶対だった。

 空を飛べない限り、ここから帰還するのは不可能だった。大前提を諦めるより他に策は無いとアキトは理解した。

 彼は肩位置を下げながら溜息を吐いた。

「仕方ない。怒られるけど、PEOの人に事情を言って助けてもらおう」

 それに、彼の父はPEOの主任である。伝えれば会えるだろうし、どうにかなるだろう。

 彼は痛む背と尻をさすりながら歩き出した。何処へ行けば良いのかが判らないが、やはり人が居るだろう場所は、区画の進行方向側だろう。研究区画がどういった原理で空を飛んでいるのか彼は判らないが、彼が頭の中で想像する乗り物の運転席は、一様に全て進行方向の先端部分にあった。ならば、このPEOもその方向へ向かえば運転席があり、そこに到着すれば誰かに会える筈だ。

 彼はもう一度空を見上げ、区画の流れる方向を見てPEOの進行方向を確認し、その方向へ向かって歩き出した。踏み締めた芝生は彼の体重の分だけ僅かに沈み、少しだけ歩き難かった。

 それからしばらく歩くと、壁が彼を出迎えた。それまでの森林と異なり、その壁は無機質だった。灰色をしていてかなり高い。恐らく、この壁の最上部はそのままPEOの外郭と接続しているのだろう。そこには扉やその手の類の物はなかった。

「ああ、……やっぱりか」

 アキトは肩を落として落胆した。

 おかしいと思いながら歩いていたのだ。この道程が正解だとするにはやけに木の枝が邪魔だと思っていた。どう考えても、今歩いていた場所は人が通らない場所だった。人が通らないなら、方向はどうであれ道のりは外れである。

 今も高速で計算を続けている彼の思考が、目の前に現れた壁を伝って歩こうと策を変えた。ここが複雑に作られた迷路でない限り、そうしていれば入口なり出口なりが見つかるだろう。

 彼は左手で壁に触れながら人工森林の周回を始めた。落下の時の痛みを、今は感じていなかった。彼が今感じているのは、相変わらず彼の体重に合わせて沈む芝生の柔らかさと、それゆえの歩き難さだった。彼はそう長い距離を歩いたわけではないが、足に疲労を感じていた。

 区画溝まで全速力で走って来た時点で彼の足は既に困憊していた。それに朝食を食べていなかった事も災いして、足取りも覚束なくなる。

 人工森林の端に到着して彼は直角に曲がった。それからも、左手で壁を撫でながらの徒歩が続く。どうやらこの森が彼の想像よりもかなり広いのだろうと気付くのは、次の直角に到着した時だ。その間も、彼の左手は扉というものに触れられていない。

「なんだよ、もう。どうしてこんなに広いんだ、ちくしょう」彼は愚痴をこぼした。

 近くに生えていた木の幹を蹴る。だが、逆に彼が蹴られたかのように、彼の足の方が悲鳴を上げた。彼の想像以上に木の幹は硬かった。

 たまらず彼はうずくまり、やがて座り込む。

 ――もう歩けない。しばらく休憩だ。

 アキトは壁にもたれて地べたに座りこんだ。芝生は彼の部屋のクッションよりも柔らかく彼を受け止めた。それを感じながら、彼は深呼吸をする。

 人工森林の中の香りは、それまで嗅いだ事のない鼻孔を擽る爽やかな香りだった。それまでは脱出方法に集中していて香りなど感じていなかったが、それはとても癒される。少しだけ湿っているが、とても澄んでいる。アキトは目を閉じ、初めて嗅ぐ森の香りを堪能した。

 ――いい匂い……。

 落下の際に木々や葉に擦れた自分からも同じ香りがしている。“本物の土”が貴重となり、身の周りに自然が溢れていた数世紀前のように自然が身近なものではなくなった今のご時世、こうやって緑に囲まれるのは貴重な体験だ。自然保護区画へ行けば同様の体験は出来るが、ここまで自然の姿のままではない。それに、自然保護区画では木々に触れる事は出来ない。

「なんか、すごいや」

 彼はぽつりと呟いた。散々な目に遭ったが、良い経験も出来た。微かな葉鳴りに自分の声を混じらせながら、彼はそのように思った。

 そんな時、彼の鼓膜は何か別の音を捉えた。

 それは足音だった。

 ――誰かいる……?

 彼は僅かに腰を浮かせ、耳に意識を集中した。

 誰かは判らないが、少し離れた場所から木の枝と舞い落ちた葉を踏む音がしていた。

 ――誰かいる!

 揚々と立ち上がり、彼は音の方へ向けて駆け出した。足はまだ疲労からうまく動かないが、それでも彼は走った。途中転倒しそうになるも、どうにか踏ん張り、音のする場所へ急いだ。

 視界を遮っていた枝葉がその主張をやめるのは、すぐのことだった。突然、目の前が広く開け、彼は広場のような場所に出た。

 そこが何であるのかは判らないが、これまで彷徨っていた鬱蒼とした木々の隙間とは明らかに異なり、手入れが行き届いていた。円形に開けた広場の中心には同じく円形の噴水があり、装飾が施された彼の身の丈ほどの上部からは絶えず水がこぼれるように流れ出ていて、それは近所の公園にある水を噴き出す為だけの道具というものではなく、装飾品や美術品といった役割を担っていた。噴水の周囲には、波紋を描いたような石畳。石畳の上には、舞い落ちた葉や木の枝が行儀よく並んでいた。

 その傍らに、人の姿があった。それは女性で、年齢によって呼称を分けると、少女だった。

 アキトは、思わず呼吸を忘れた。

 ――なんて、綺麗な……。

 年は判らない。判らないが、その少女の容姿とは幽玄の美だった。

 髪は白銀のような純白で、傍らの水面よりも澄んだ輝きを放ちながら少女の肩を擽っている。柔らかくなびくワンピースから覗く肌は、真珠のようだ。

 彼に気付いてこちらを向いた瞳の色は、空や海の色よりも鮮やかな蒼だった。

 まるで、ガラス玉を埋め込んだのかと錯覚する程に濁りを含まぬ双眸は人形のようだった。現にアキトは、少女が顔を自分に向けるその瞬間まで、それが人間であると思えなかったくらいである。彼は本気で、それは人形だと思っていた。

 きっと、世にある美麗のすべてを集約して人の形に形成したなら、この少女のような姿になるのだろう。

 少女は、あまりにも美しかった。いや、美しすぎた。

 アキトは呆然として立ち尽くした。彼の思考は今も高速で回転しているが、車のギアをシフトに入れるように、頭からの情報が手足に伝達されなくなっていた。

 彼が言葉と呼吸、そして脳からの情報を全身へと伝える行為を思い出すまでには数秒を要したが、その時間は彼にとって何倍にも何十倍にも感じられていた。

「あ、あの」アキトは声を上擦らせながら言った。

 思考と身体の歯車は、まだきちんと噛み合っていない。それでも彼は、どうにかして今自分がするべきであろう質問の内容を思い付く事に成功した。

「君、PEOの人?」

 少女は返事をしなかった。反応さえ、しなかった。

 少女は、ただ、アキトの方を見つめているだけだった。

 アキトは戸惑いながら少女の方へと歩み寄り、互いの距離を縮めた。

 接近するに従い、彼の視界の中で少女の浮世離れした美しさがより顕著になってくる。また、彼の鼓動も速くなる。今、彼の胸は早鐘を打っていた。

「えっとさ、ちょっと大変な事が起きて……」鼓動の高鳴りを自覚しながらも、彼は平静でいようと努力した。「その……信じてもらえるか判んないんだけど、実は俺、その、……区画から落っこちちゃって。それで、助けてほしくて……」

 少女の反応に変化は無い。

 無反応で、近寄ると、無表情である事も判った。

 少女は、ただ、アキトを見つめ続けている。

 少女はまさに、人形のようだった。

「あの、聞こえてるのかな。ひょっとして、外国の人? 日本語がわからないとか?」

 結果は変わらない。少女はそこに立ち、ただ自分の方を向いているだけで、何かの言葉を発したり、意思を示す様子がない。

 ――これじゃあ本当に人形と話をしているみたいだ。

 アキトは溜息をこぼした。

 その動作に合わせて、彼が身に着けていたペンダントが、服の隙間からこぼれた。それは、幼い頃に父から貰ったペンダントである。彼が常に身につけているもので、彼の背格好が成長に伴って変化していく中、変化をしていない唯一のもの。

 少女がゆるやかに動いた。それは、スローモーションのような動作だった。

 風に流されるような足取りでアキトへと歩み寄り、白くたおやかな指先を彼へ伸ばすと、アキトのペンダントに触れた。

 この時、アキトと少女の距離は数字の11よりも間隔が狭くなる。目の前にある少女の顔に、アキトは動揺した。陰りをつくる長い睫毛に、うっすらと薄紅に色づく柔らかな(触れていないので実際の感触などアキトには判らないが、しかし、視覚的な部分から、彼はそうであろうと確信していた)唇。そして、花の香り。

 少女は花の香りを纏っていた。

「え……」

 驚く彼は、何があったのかと首を傾ぐ。それまで何を話しかけても返事をせず、反応すらしなかった少女が、彼の服からこぼれたペンダントに興味を示していた。

「なに? これが気になるの?」

 少女との距離に緊張しながら訊ねてみた。

 反応はないだろう。アキトはそのように予想していたのだが、それは良い意味で裏切られた。

「――これ」少女が呟いた。その声は吐息か、或いは、小鳥の囀りのようだった。「欠片……」

「え、なに? なんて?」

 アキトは少女の言葉が聞き取れなかった。動揺していたからだ。今も二人の距離は先程までと同じか、それよりも狭まっている。

「欠片」少女はアキトにもう少しだけ近付いた。しかしそれはアキトの勘違いで、正しくは、近付いたのはアキトのペンダントの方に、であった。

「欠片って……」アキトはできるだけ少女を見ないようにしながら、自分の首にかかっているペンダントの造形を思い出そうとした。

 毎日身に着けているのでしっかりと観察した事などこれまでになかったが、ペンダントのトップ部分は自然のままの形をしている。琥珀に近い色をしたそれは、少女の言うように、加工される前の鉱物の欠片だった。

 父から貰ったと言っても、それは彼に物心がつくより前の事で、気付いた時には既に彼にとって身体の一部のようなものだったから、それが何であるのかを父に聞いた事はなかった。それこそ、何かの鉱物の破片だろうとしか思っていなかった。

「何かの石だと思うけど、よく知らないんだ」アキトは人差し指で頬を掻いた。彼はまだ、少女を直視できないでいる。「それより、その、……ちょっとだけ離れてもらえないかな」

「欠片」

「え?」アキトは互いの言葉がきちんと噛み合っていない事に気付く。それこそ、彼の思考と身体のように。

「私の欠片」少女は同じ言葉だけを繰り返した。

「ええと、その――欠片?」

 少女は風に揺れるように頷いた。

 アキトは混乱した。

 彼が今知りたいのはPEOからの、そしてこの人工森林からの脱出方法であり、ペンダントのトップについての会話など望んではいない。

「あの、悪いんだけど、ここら辺に君以外の人いるかなあ?」アキトは会話の流れを最初に戻した。「さっきも言ったんだけど、俺としては早く区画に帰りたいんだ。だから、できれば、その……、君以外の人と話がしたいんだけど」

「アープ」アキトの声ではなく、少女のものでもない声が、近くもなく遠くもない距離から聞こえた。

 それは琴の音だった。琴を指で弾いたような声である。

 アキトの胸の内側で、風船を膨らませるように、喜びが膨れ上がる。

 その声は、彼がこのPEOの中で一番聞きたかった声だった。

 声のした方向をアキトは見る。透明なカーテンを作るように水を噴き上げる噴水の向こうに、こちらへ歩み寄る彼の姿があった。

 頬が綻ぶ。泣きそうなほど、アキトは歓喜した。

 そこには、夕焼け色をした少年がいた。

「そこにいるのかい、アープ? 話し声が聞こえるけど、誰かと――」

 現れた少年は、アキトの姿を見付けるなり、硬直した。時間が止まるとは、きっとこの瞬間の事を言うのだろう。アキトと少年の時間は、数秒の間だけ世界から隔絶された。

 そこにいたのは、見紛う事もなく、確かに、リーデルだった。

「リーデル!」アキトはリーデルに駆け寄った。少女の存在は、この時忘れていた。

 少女は変わらない姿勢のまま直立していた。手はペンダントに触れていた時のまま胸の前に持ちあがっているが、その指先にあったペンダントは少女の指から逃げるように、アキトと共にリーデルの元へ行ってしまった。首から上だけを、今はアキトとリーデルの方へ向けている。

「アキト。アキトなのかい?」リーデルは激しく混乱していた。「え、でも、ちょっと待って。どうしてここに。だって、……えぇ? まだ区画に接岸する前だろう?」

「落ちたんだ!」アキトはリーデルの手を握り、強引に握手をした。初めて触れたリーデルは、想像していたよりも温かかった。

「落ちた? 落ちたって、どこから」リーデルは一方的な握手に身を委ねたまま頭の中の整理に追われる。

「ちょっと待って、ちょっと待って……」リーデルは目を閉じてしばらく考えた。「君は本当にアキトなんだよね」

「そうだよ。俺だよ。アキトだよ」

「信じられない。いったいどうして」リーデルは目を開く。その瞳からは、まだ驚きが消えていない。

「だから、落ちたんだって」

「落ちたって……」ひょっとしてと、リーデルは頭上を見た。PEO研究区画は、今も居住区画の下を通過している。「まさか、……あそこから?」

「そのまさかさ!」アキトはどこか自慢でもするように説明をした。「突風に押されて、ひゅーん、って、まっさかさまに!」

「まさか、区画の下にいたのかい?」

「だって、そうしないと研究区画が見れないじゃないか」

「区画の下は立ち入り禁止だよ」リーデルは叱るように言った。「それに、そんな危険なところに……。運良くここに落ちたからいいものの、そうでなかったら君は今頃……」

「でも、そのお陰でリーデルに会えたんじゃないか!」アキトは笑顔だった。

 リーデルはアキトの行為をもっと叱りたかったのだが、アキトが顔に浮かべる満面の笑みがその言葉を忘れさせてしまう。それと同時に、自分がアキトとモニター越しにではなく、実際に対面し、触れ合っているという実感が芽生えてくる。

 リーデルもアキトと同じように、喜びを自覚し、笑顔になった。

「アキト。本当に君なんだね」リーデルはアキトの手を強く握り返した。

「リーデルも、本当にリーデルなんだよね」

 この喜びを言葉にして言い表す事が出来ない。どんな言葉もこの想いには釣合わず、役にも立たなかった。

「アキト!」リーデルは思わず、感情のままに、アキトを抱き締めた。

「ちょ、……え?」アキトは狼狽した。

 誰かに抱き締められるというのは初めてだった。両親からもそのようにされた経験がない。

 ――ああ、これが欧米の文化にある、“ハグ”というやつか。

アキトの思考は戸惑いながらも冷静で、そんな事を考えていた。そう考えれば、何も不自然な行為ではなく、感動の対面の場としては、寧ろ自然なものなのだろう。だが、なにせ人生で初めての経験であったので、アキトがこの状況に対して抱く感想の方も、同様に自然なものだった。

「あの、ごめんリーデル」笑いと戸惑いをちょうど半分ずつ混ぜ合わせた表情でアキトは訴えた。「なんて言うか、死ぬほど恥ずかしいんだけど……」

「え? ああ、ごめん」リーデルはアキトの背中を二度ほど優しく叩いてから、抱擁を解いた。「日本はそういう文化がないんだってね。この前教えられたよ」

「ないない。抱き締められるのなんて初めてだった」

「嬉しくて、ついね」申し訳なさそうにリーデルは笑った。

「俺もすごく嬉しい」アキトは自分の周囲、360度を見渡しながら言った。「ねえ、リーデル。ここってなんなの?」

「ここ?」リーデルも同じように周囲を見た。

「PEOの中だよね。前に教えてくれた、人工森林ってやつ?」

「そう。人工土壌を使った植物の成長を実験してる場所」

「人工、土壌?」それは初めて聞く単語だった。

 陸地を失わせてしまった今の時代、本物の土はとても貴重で量も少ない。海底に潜り採掘すればいくらでも手に入るが、土に含まれた塩分の除去が必要であるなど、実際に使用できる状況にするまでには相当の時間と労力を要する。

 そこで各国様々な研究機関では土に変わる物資の開発が行われており、ここPEOでも同様にそれが進められていた。

 ここでは、そうして開発された人工土壌で実際に草木が育つかどうかの試験が行われているのだと、リーデルは言った。

 彼は一通りの説明を終えると、アキトの格好を見て苦笑した。

「大事な場所だから、そうやって折ったり踏んだりしたら、本当はすごく怒られるんだよ」

「う……」呻き、アキトは枝葉をかき分ける時に身に纏わり付いた汚れを思い出す。

 彼は散々木の枝を折りながら出口を探していた。それに樹木だけでなく大事な人工土壌も踏んでいる。

 どうやら、アキトがPEO関係者に出会った際に、もし叱られるとするなら、その原因というものは区画下部への不法侵入や危険行為だけではないようだ。

「怒られるかな?」不安になって、アキトは少しだけ小声になる。

 リーデルは上を向いて少しだけ考えた。

「うーん、……どうかな。研究員のみんなは、そんなに怒らないだろうけど」

「けど?」

「君のお父さんは……」

「う。父さんか」

「普段は優しいんだけど、研究に対してはすごく厳しいんだ。人工土壌開発の指揮も、君のお父さんだよ」

「息子の無事とか再会とかを喜んでほしいよ」

「こういう状況じゃなければ喜んだだろうね」

「あ、そういえば……」アキトは少女の事を思い出す。「あの女の子って?」

「女の子?」会話の内容が突然変わったので、リーデルはそれが誰の事なのか、すぐに理解できなかった。

「あの真っ白な女の子」アキトは先程の少女をそのように記憶していた。

 彼が少女の方を見ると、彼女は先程までと変わらない姿勢でこちらを見ていた。首から上だけを二人に向けている。身体は横方向を向いていた。アキトのペンダントに触れていた手は、今は下ろされていた。

「ああ、彼女か」リーデルは少女に手招きをした。少女はそれに従い、ゆっくりとした歩みで彼の隣にやって来た。「紹介するよ。この子の名前は、アープ」

「アープ?」アキトは首を斜めにした。最初彼は、自分が聞き間違ったのかと思っていた。

「そう。アープっていうんだ」

「かわった名前だね。外国人?」アキトは少女を観察するように眺めた。先程までの緊張などを今は感じていなかった。リーデルが横にいるお陰で、自然にアープという名の少女を見つめる事ができた。「どこの国の子?」

「知らない」リーデルは即答した。

「知らない?」アキトはリーデルの返事と同じ速度で聞き返す。

「前に僕が任された仕事の話はしたよね。覚えてる?」

「ああ、うん、……覚えてる」言いながら、アキトは思い出そうとした。「何かのプロジェクトが、どうのって……」あまり覚えていなかった。

「彼女が僕の仕事」

「えぇ?」言っている意味が理解できなかった。

「僕は、彼女の観察を任されている」リーデルは少女の髪を撫でながら言った。

 少女はそれでも、反応をしない。

「観察?」アキトはまだ親友の言葉の意味を理解できていない。「どういうこと?」

「ごめんね。ここから先は秘密、いや、機密なんだ」

「その子を観察? この森みたいに?」

「そう」

「変なの」それがアキトの正直な感想だった。

「研究所の仕事は、ほとんどそんな感じだよ」

「変な仕事?」

「そうじゃなくて、何のためなのかがイマイチよくわからない」

「わからないのに仕事をするなんておかしいよ」アキトは腕を組むと、左目を細め口を斜めにして、顔が左右非対称になるようにした。

「上の人は全部わかってやってるけどね」リーデルが弁明した。「それこそ、僕や君の父さんは目的をしっかりと把握してる。でも、僕みたいな子供はそうじゃないんだ。だって僕は、まだ手伝い要員だから」

「気にならないの? 女の子を観察っておかしいじゃないか」

「そうだね。普通の女の子ならおかしい」

「普通の女の子……」アキトはリーデルの言った言葉の中の、その一句を注視した。「普通の女の子じゃないの?」

「それも機密事項」

「なんだよそれ」その返事は予想していたが、しかしアキトはその返事がつまらなかった。「色々話してくれるって言ってたじゃないか」

「言ったけど、仕事内容は別だよ」リーデルはゆっくりとした口調で言い訳をした。「仕事の事はほとんどが秘密にしなきゃならないんだ」

「少しくらい教えてくれたっていいじゃないか」

 不服そうにアキトは頬を膨らませた。

 リーデルは少女の髪を撫でている。

「アープは、ちょっとだけ、特別なんだ」彼は声を潜めて言った。

「特別?」アキトもつられて小声になる。「ああ、……確かにその無表情にノーリアクションは特別だね。研究し甲斐がありそう」

「そうじゃなくて」リーデルはアキトの返答に、つい笑ってしまう。「本当に特別なんだ。信じられないだろうけど」

「ふうん」アキトは曖昧な返事をして、リーデルに撫でられる少女をまじまじと見つめてみた。

 リーデルに撫でられても身動ぎせず、やはり表情にも変化がない。

 最初は彼女の挙動が気になり興味を注いでいたものの、こうも反応がなく変化もしなければ、さすがにそれも削がれて失せる。先程、自分のペンダントに触れて言った言葉さえ今はさして気にならなくなっていた。

 確か、自分の欠片と言っていただろうか。

 ――どういう意味だったんだろう。

 その疑問符だけが、晴れた日の空にぽつんと浮かんだ小さな雲のように胸の内側にひっそりと残っていたのだが、それも今、少しずつ薄れている。アキトは頭の後ろで手を組み、凄いねと言った。

「PEOって、いろいろやってんだね。よくわかんないけどさ」

「そう。いろいろやっているんだよ」リーデルは閃くように言った。「そうだ。PEOの中を見たくないかい?」

「え。いいの?」アキトの声のトーンは、数オクターブ上がった。

「今の時間だと、他の人たちは家に帰る準備をしてるだろうから、研究施設の何か所かは見られると思う。見せられないところは当然見せられないけど、そうじゃない場所は案内できるよ」

「それ、怒られる?」不安になって、声のトーンは上がった分以上に下がる。

「ばれなきゃ平気さ。行こう」そう言って、リーデルはアキトの手を引っ張った。少女を呼ぶのも忘れない。「アープも一緒に行こう」

 純白の髪に海より鮮やかな青色の瞳を持つ少女は、こくりと、首を折りたたむように一度だけ頷いた。

「そうだ」リーデルの先導で歩き出した直後、アキトは心の中に残っていた疑問を訊ねた。それは、少女の放った意味深な言葉と同様に胸の内側に残されていたのだが、しかし少女の言葉とは異なり、疑問符が事実、空に浮かんだ雲であるとするのなら、それは明らかに、濁りのある雨雲だった。「PEOの後ろに、何かある?」

「後ろ?」リーデルは首を傾がせた。

 アキトは自分が区画下部から転落した経緯を、もう一度、先程よりも事細かに説明した。

 PEOの研究区画が飛ぶ少し後ろの海面に何かが見え、それが何であるかを確かめようと身を乗り出した時に風に押されて落下したと。

「確かに何かが見えたんだ」彼は瞳だけを上向きにして、その時の光景を頭に思い浮かべた。「何かが、……海の中に何かがあったんだと思う。魚とかじゃなくて、もっと大きな何か。リーデル、君、何か知らない?」

 リーデルの表情が険しくなった。

 彼はアキトからの問いには答えず、通信端末をポケットから取り出すと発信履歴から目的の人物を探し出し、通話のボタンを強く押した。耳元で響くコール音は一回と半分。相手はすぐに出た。

「リーデルです」彼は少しだけ早口になっていた。「区画の後方に何かがいるという情報が。探査と警戒を」

 それだけを伝えてリーデルは通信を終えた。通信の後も彼の表情から険しさが消えない。まるで重大な危機を感じているかのようなその顔が、アキトを不安にさせた。

「なあ、リーデル。俺、何か悪い事言ったのかな」アキトは普段よりも低い声でいった。

「そんな事ないよ。むしろ、お手柄だ」

 リーデルの持つ通信端末が、二人の会話を遮るように鳴った。ディスプレイには、彼が今通信をした相手の名前が英字で表示されている。通話ボタンをやはり強く押して、リーデルは回線を開いた。

 焦慮した顔で、彼は耳元で響く声に集中した。一秒毎に、彼の顔色は険しくなる。

 通信を切ったリーデルは、緊迫した面持ちでアキトに目をやった。

 アキトは激しく戸惑っている。

「どうしたの」声が震えていた。

「ごめん研究施設は見せられなくなった」リーデルはまだ早口だった。

「どうして」

「説明はあと。こっちへ来て。アープも早く」リーデルは再びアキトの手を握り、引っ張るようにして歩きだした。その歩調は歩くというよりも走るに近い。アキトは身体を斜めにして、リーデルに引かれた。

 リーデルは人工森林の出口へ向かった。出口は、噴水の向こう側にあった。アキトが落下した位置の反対側だった。出口は壁を刳り抜いたような造形で、人が出入りをする為のものとするには大きすぎた。恐らく、ちょっとした車両なら悠々出入りができるだろう。

 出口をくぐると、そこはエレベーターホールになっていた。エレベーターの扉も大きい。人工森林の出口よりももう少しだけこちらの方が大きかった。リーデルは叩くようにしてエレベーターのボタンを押し、到着を待った。

 エレベーターは数秒で到着した。その数秒間、リーデルは何も語らなかった。彼はどこか苛立った顔で、目の前にある大きな扉を見据えていた。そんな彼を、アキトは苦しげな顔で見つめていた。

到着したエレベーターに乗り込むと、リーデルは一番下の階を押した。

 三人を乗せた籠は、僅かな振動を伴いながら下降を始める。三人は下降の間、ほんの少しだけ軽くなった。だが、その場の空気は、逆に、重たくなっていた。

「なあ」たまらず、アキトは語調を強めて問う。「どうしたんだよ。何があったんだよ。言ってくれなきゃ、不安になるじゃないか」

「いいから、今は黙って僕について来て」リーデルの口調は荒くなっていた。

「これも秘密、……機密ってやつなの?」アキトは少女に目をやった。美しすぎる少女は、何事もなかったかのように、リーデルの斜め後ろに起立していた。その瞳は、アキトの方を向いていた。

 この状況で、少女の無表情と反応が、却って、不気味だった。

 アキトは背中と首筋を震わせた。

「どこに向かってるんだ?」アキトは聞いた。

「安全なところに」リーデルは、そう言った。

「どうして」

「決まってるだろう」

 エレベーターが目的地へ到着する。現状と相反して扉はゆるやかに開き、三人へ降りろと訴えた。

 リーデルはエレベーターからの命令に従いながら、言った。

「避難だ」


 直後、予兆も前触れもなく、PEO研究区画は激しく震動した。


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