1st act. "Odi me sicut"④
「どうした? ため息なんてついて」
ふとそこに、片付けを済ませたのかヴェッチがエプロンの裾で手を拭いながらやってきた。外したエプロンを隣に掛けると俺の向かいに腰を下ろし、ポケットからキャンディーを三つ取り出して俺の目の前に置くとにっこり微笑んだ。
「疲れているのね。……甘いものは気持ちを落ち着かせるわ」
ありがとう、とそれを一つ手に取る。クリーム色の包み紙を開けて口へ放り込むと、ミルクの甘い味が口の中に広がった。キャンディーを舐めながら、俺は小さく呟いた。
「俺、そんなに頼りない? 優しい気持ちって……俺達には必要ないモノ?」
さっき彼らに言われた言葉を頭に浮かべる。
余計な情けをかけるな、隙がある、自覚を持て……
そんな事は言われなくたって分かっている。自分でも改善しなければいけない点だと言う事は百も承知なのだが、いざという時になっていつも僅かな躊躇いを感じてしまう。依頼を正確にこなす事こそが、俺達の使命であり正義である。たとえそれが、誰かの命を奪う事であっても。
“俺達とは違う”。
クロウが言ったあの言葉に多分意味はないのだろうけれど、少し胸の奥を引っかかれた様な気分になった。
価値観の違いから生じる考え方のズレ。そんなものは誰にでもある事だ。全ての人間が皆同じ考えや思考を持っているなんて有り得ないし、当たり前の事。しかし会社という組織に所属している以上、仕事に関してはそれなりに社の理念に沿った行動・思考が求められる。いくら自分が正しいと思っている事であっても、組織という大きなフィルターを通して見ると必ずしもそうであるとは限らない。俺はそこに生じている考え方の『ズレ』に、未だ順応できずにいるのだ。それはそれ、これはこれという割り切った考えが出来ず、つい自分自身の意思と混同して考えてしまう。
「なんか、上手くいかなくてさ」
テーブルの上のキャンディーを指先で転がしながら、俺ははあ、と再び深い溜め息をついた。ヴェッチは優しい眼差しでこちらを見つめながら、項垂れる俺を慰める様に口を開く。
「優しい心ってね、誰もが持っている訳じゃないのよ。少なくとも私は、貴方のそういう所すごく好きよ。ボスだって貴方のそんなところ、分かってくれているから何も言わないんじゃないかしら。それに本当に向いていないのだとしたら、早いとこ見切りをつけるわ。使えない人間は、会社にとって足手まといだもの」
……足手まとい、か。自分がそうだと言われている訳ではないのに、その言葉が妙に胸に突き刺さる。現場に出ている男性社員の中では、俺が一番年下だ。といっても、俺達全員が四年前の会社の設立と共に集められた同期ではあるのだが。しかしいくら同期と言えど、皆少なくとも俺よりは長い人生を歩んできた者達。何かしらの過去を持っている彼らは、その分俺なんかよりもずっと経験や知識が深い。
最初は同じスタートラインに立っていた筈なのに、なんだか自分だけが大きく出遅れ、取り残されている様な気がする。引き離された遅れを取り戻そうと必死に追いかけていくものの、彼らの背中はまだ伸ばした手さえも届かない程遠い。
口には出さないものの、きっとクロウはいつまでも成長できずにいる俺に呆れている事だろう。単独で任務を任される事もある他の社員達と違い、俺だけがいつまでたっても誰かの後ろについて歩いている。そしてその度にいつも、俺は一人酷い劣等感に陥ってしまう。これまで一体どれほどそんな自分に苛立ちを覚えてきた事か。
自覚しているからこそ、余計に彼らの言葉が重く響いた。やはりそう思われているのだと思うと、分かっていても悲しくなる。
いつもは自室で一人になった時だけそんな事を考えては自己嫌悪に陥るのだが、今日は何故か一人になりたくなくて、そんな弱気な話をヴェッチに延々と聞かせてしまった。こんな話、今まで誰にも打ち明けた事はなかった。というか、そんなところを人に見せたところで自分自身の『弱さ』を実感してしまうのが怖かったというのもある。知られたくない事のひとつやふたつ、誰にだってあるものだろう。
しかし彼女はうんうん、と静かに頷きながら、最後まで俺の言葉に耳を傾けてくれた。そしてふと気が付いて、壁にかけてある大きな時計に目をやれば既に二十一時を回っている。心の中にあった渦巻く暗雲が小さくなった事で、少しだけ気持ちが落ち着いた。それに今頃やってきた食後の眠気が重なって、俺は一つ欠伸をした。もうこんな時間だわ、と彼女が椅子に掛けていたエプロンを手に取り、腰を上げたので俺も席を立つ。置きっぱなしにしていたテーブルの上のキャンディーをポケットにしまい、聞いてくれてありがとう、と礼を言う。するとヴェッチはまた優しく笑ってくれた。
「……大丈夫。もっとシャキッとなさい! 男なんだから」
そう言って背中をぽん、と叩かれる。本当に、この人は母親みたいな女性だ。
ロビーで彼女と別れた後、俺は二階にある自室へと戻っていった。
殺風景な白い壁に、クイーンサイズのベッドと可愛らしい猫足のサイドテーブル、革のソファに小さな冷蔵庫。部屋に備え付けられたユニットバスのシャワールームと、無駄にでかいクローゼット。外観こそ幽霊屋敷のようだが、内装は意外に綺麗なまま保たれていた。備品もほとんど当時使われていた物をそのまま使用しているし、さすがは元ホテルだっただけの事もあってか、洒落たデザインが多い。
上着を脱ぎ捨て、首を締め付けていたネクタイを外してから俺は広いベッドの真ん中に飛び込む様に倒れ込んだ。
シャワーを浴びなきゃな、と思ったが今日はもうこのまま眠りにつきたかった。
(明日からまた、頑張ろう)
そう思いながら、ゆっくり目を閉じた。