2nd act. “Nomen homo, Jeremie Blanchia”②
「あら、今からお出掛け?」
咄嗟に声のする方へ振り向くと、数歩後ろからこちらに向かって歩いていたヴェッチがにこりと笑みを見せた。
緩くカールした茶色い髪が、歩く度にふわりと揺れ動く。歳の事はよく知らないが、淡いクリームイエローのカーディガンに花柄のタイトなスカートを纏う彼女は、どう見たってまだ三十代後半くらいだ。
「もう帰るのか?」
「娘の誕生日なの。だから今日は早めにね。……よかったら、途中まで一緒にどう?」
いいよ、と頷くと、ヴェッチはまた目を細めて笑った。同時に目尻に刻まれたいくつもの皺から、多分俺の予想は外れていると静かに確信する。
彼女──ブレンダ・ヴェッチには家庭がある。
連中に家族がいるかどうかなんて知ったことではないし、別に興味もない。だが、ヴェッチとあとはもう一人、トニー・レイスは俺達とは異なり、裏の依頼には一切関与していない。表向きの活動である“慈善事業”団体の一員として、彼女(彼)らは会社に籍を置いているのだ。
一般人と何ら変わりのない彼女には当然、帰る家も、そこで帰りを待つ家族もいる。
「歳、いくつなんだ」
住宅街から東へ、大通りに抜ける小道を並んで歩いた。近道は他にもあったけど、街灯のない道を歩かせるのはなんだか気が引けた。
「もう二十歳になるわ。今、大学で……」
前を向いたままそう口を開いた彼女の言葉を、「そうじゃないよ」と遮った。
「アンタの事さ。そういえば、知らないなと思って」
「そんな事訊いて、どうするの?」
「ただ気になっただけだよ。別に深い意味なんてない。俺の読みじゃ、三十七、八ってとこ。もっと若い?」
人差し指で顎を撫でながら、考える素振りを見せる。
「言い過ぎよ」
少し照れるようにはにかんだが、「そんなに若くないわ」とヴェッチすぐに呆れるように肩を竦めた。
「貴方のお母様は? きっとそう変わらないと思うけど」
「さあ、どうかな……俺の母親は──」
言いかけたところで、ふと思考が止まる。
母親の顔は、もう随分前から思い出せずにいた。今でも夢にでてくるあの人は、首から上が煙に巻かれたようにシルエットだけがぼんやりと見えているだけなのだ。しかし、声だけは記憶の中にしっかりと刻み込まれていて──それが本当に母の声なのかすらもはや知る術もないが、俺の名前を呼ぶ彼女のその声が、耳の奥で響き続けた。
今となっては、もう思い出したくもない話だ。
「死んだ」。──そう口にしかけた時だ。少し間を置いた後、ヴェッチは気まずそうに俺から目をそらすと、何かを察したように「いいのよ」と小さく呟いた。
「何か気に障る話題だったのならごめんなさい。訊かない方がよかった?」
「いや、その、なんていうか」
覗き込むように彼女の顔を見る。目が合うと、ヴェッチは眉尻を下げたまま、困った様な笑みを浮かべていた。
ごめん、と誰に謝るでもなく呟いて、俺は口を噤んだ。
何かないかと必死に思考を巡らせていたが結局それきり会話は途絶えてしまい、俺達は互いに無言のまま、歩き続けるしかなかった。
やがて人通りの多い街の中心部へ続く大きな交差点が、目と鼻の先に見えてきた。信号待ちで立ち止まる人の群れに混ざりながら、俺はまださっきの事を気にしていた。
その場に留まっていたのはほんの数十秒ほどだったが、俺にはとてつもなく長い時間のように思えていた。
頭上のランプが、赤から緑に変わる。
一斉に歩き出す人の波に思わず押し流されそうになりながら、横目でヴェッチを盗み見た。
「付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ。おかげで退屈しなくて済んだ」
そう口を開いたのは彼女の方。つい数十分前までの気まずさは消え、またいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
また明日、と小さく手を振り歩き出す彼女を、待って、と呼び止める。
「娘さんに伝えて。誕生日、おめでとうって」
高層ビルと老舗の高級ブランド店が軒を連ねるメインストリートから少し外れた場所にある大きな公園は、夜になっても人の姿が絶えることはない。
ライトアップされた園内のベンチには、恋人同士が仲睦まじく隣り合い、デートを楽しむ姿があった。他には犬を連れて歩く上品な初老くらいの女、数人で屯しながら大音量で音楽を流し、得意気にパフォーマンスを披露する若い奴ら。通行人がふと足を止め、彼らに歓声を上げている。
公園のちょうど真ん中にそびえ立つ大きな時計台を見上げた。もうすぐ七時だ。
あと一時間、どこで暇を潰そうか。あてもなく歩き回りながら、俺はぼんやりと通り過ぎて行く車の列を眺めていた。
何か気の利いたプレゼントの一つでも買っておくべきだろうかと足りない頭を働かせ、考えを巡らせてみたが何一ついいアイデアは浮かんでこない。
――と、その時だ。
ふと視線を流した先、一台の車が目に飛び込んできた。
黒塗りの高級車がゆるやかに減速しながら、歩道の脇にぴったりと横付けされ、後部座席の窓が音もなく静かに下りていく。
中から姿を現したのは、五分刈りの黒髪にダークブラウンのサングラスをかけた、いかにも裏社会の住人であると言わんばかりの風貌をした男。
目は見えなくても、こちらをじっと睨み付けているだろうというのはなんとなく分かる。
マフィアだろうか。もしくは何か他の……組織の人間か。なんであろうと別に構わないが、問題はそこではない。
俺に何か用でもあるのだろうか。言葉も、口すらも開かずにただじっとまっすぐこちらに向けられた視線に、あまりいい気分はしない。
男はかけていたサングラスの縁に指を掛け、剥ぎとるように顔から外して再びこちらに視線を合わせた。
やはり思い込みではない。俺を見ている。
しかし、睨みつける男の目が俺に向けているのは敵意ではなく、何か訴えかけているような──こちらの反応を窺っているような気がする。
(もしかして)
数メートル先の男の顔を見つめたまま、俺の頭に過ぎったのは
「……セス?」
懐かしい男の名前だった。
そう呟いたのとほぼ同時に、後部座席のドアが開き、中から男が姿を現した。縦縞が入ったグレーのスーツに身を包んだ彼は口元に僅かな笑みを浮かべながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
そして。
「変わらないな、お前は」
レイン、と口にしたその男は、両手を広げて俺の側までやってきた。
「やっぱりお前だったか」
頭ひとつ分小さな彼の身体は、俺よりずっと細い。
抱擁を交わし、差し出された右手を強く握った。
「相変わらずだな。色男?」
悪戯っぽく笑うセスに、俺は漸く安堵の溜息を漏らす。
「お前は随分変わったみたいだな」
「まあな。大変なんだ。色々」
「親父のところか」
「ああ」
この国の三大犯罪組織と呼ばれている『ダルトン』・『カウトゥス』・『シレンティウム』。この国に一体どれほどの裏組織が存在しているのかは知らないが、少なくとも俺が知っているのはその三つだけ。
それぞれが拠点とするペインズ(主に南部、アルデオ)、インベル、そしてマリオス。アートルムの主要都市は全部で五つあるが、そのうちの三都市がそれら組織の所謂“シマ”だと言われている。
彼──ヴァレリー・セス・バーンズは、その中で最も巨大と言われるダルトンの幹部であるヘンリー・バーンズの一人息子だ。
かくいう俺の父親(父親だと認めた覚えはないが)デリックもその組織の幹部だと言われているが、詳しい事は何も知らないし興味もない。
セスの親父とはもう随分と昔に面識があったが、とてもそういう世界の人間だとは思えないほど、見た目もどこにでもいる普通の人と何ら変わりはなかったし、温厚で息子思いの良い父親だった。
セスは上着の内ポケットから取り出された銀色のシガレットケースから煙草を一本引き抜くと、口に咥えて火を点した。
薫る煙が風のない空気中へと放り出され、頭上を漂いながら霧散する。
そうだ、と彼は灰色の瞳を俺に向けた。
「時間あるなら今から少し付き合ってくれないか、レイン」
「そんなに長い時間は取れないけど──それでもいいなら」
「手短に済ますさ。ここじゃ、少し話しにくい事なんだ」
足元に落とした煙草を、綺麗に磨かれた革靴の爪先で揉み消す。踵を返すと、ついて来てくれ、とセスは低い声で小さくそう呟いた。