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Justice OR Vice.  作者: 風舞 空
season.2 【Forgiveness】
30/35

2nd act. “Nomen homo, Jeremie Blanchia”①

 宿を出たのは、陽がすっかり昇りきった、朝の七時過ぎだった。


 一時間で目覚めるつもりだったのに、俺は随分と長い時間、一度も目覚めることなく深い眠りについてしまったらしい。まだ抜けきっていない酒の所為なのか、身体が重く感じた。

 ふと隣を見ると、エミーが俺の胸へ頭を凭れさせる様に、小さな寝息を立てて眠っていた。化粧を落としたその無防備な寝顔は少し幼くて、ダイヤの形に小さく開いた唇から、ほのかに酒のにおいがする。


 俺は彼女を起こさないようにそっとベッドを抜け出して身支度を整え、脇に置いてあった小さなメモに“今夜、あの店の前で八時に“と走り書きを残した。


 出入口の小窓から、見慣れた顔がこちらを覗き込む。


「アンタ、一人で出てきたの」


 ポケットを探り、金を取り出して受け口へ置いた。


「まだ寝てんだ」


「いつもは女に払わせてるのに、珍しいじゃないか」


「まあ、たまにはな」


「別嬪だったもんねえ。あの娘。もしかして、ついに身を固める気になったとか?」


 ケラケラと笑い声を上げる女によしてくれよ、と肩を竦めた。


「そうだ。彼女が出てきたら──」


「分かってるよ。言っとく」


 頼んだぜ、と言い残してから、俺はその場をあとにした。



 通りは早い時間から、多くの人で溢れかえっていた。軒先からうまそうな匂いを漂わせている食べ物屋、喫茶店のテラスで新聞を広げながら茶を嗜む初老くらいの男、品出しにせっせと店内を駆け回る若い娘。


 薄暗い部屋の中で一晩中、裸のままの男と女が抱き合って愛を囁き合うような濡れた世界を一歩外に飛び出せば、いつもの穏やかな日常がそこにはあった。


 店先で豆を輓くいい香りに誘われるように、俺は小さな露店に立ち寄ってから、街の外れに続く細い路地を歩く。



 眠りにつく前、意識が夢現を彷徨う途中に、彼女が耳元で小さく囁く声を聞いた。


「次は、いつ会えるかしら」


 彼女は俺の書き置きに、気付いてくれるだろうか。


 一晩限りは嫌だというあの言葉がもし本当なら、彼女はまた俺に会いに来るだろう。そう確信していた。


(なにを期待してんだか)





 オフィスのある古びたビルへたどり着いた頃には、既に八時を回っていた。少し疲れた顔で階段下に腰掛けぼんやりと煙草をふかしていたクロウが、俺を見つけて小さく手を上げる。


「おはよう。また朝帰り?」


 差し出された箱から煙草を一本抜いて、奴の隣に腰掛ける。

短くなっていたそれから火種をもらい深く息を吸い込むと、肺の中がゆっくりと煙で満たされていく。


「昨日、すげえ良い女に出会ったんだ」

「うん」

「っつうか、それ」


 俺は自分の首筋を指し、「もしかして、キスマーク?」とからかうつもりで言ってみたのだが


「まあ……そんなとこ」


 顔色一つ変える様子もなく、クロウはあっさりと白状した。


「歳、いくつなんだ」


「四十八って言ってたかな」


「付き合ってんの?」


「いや、特に」


 奴は若い女にもそれなりにモテる様だが、射程範囲外らしい。無類の年上(それも親子ほど年の離れた女)好きだということは知っていたが、そういう関係の相手がいるなんて初耳だった。

 クロウは昔から、長年連れ添っている俺にさえ、自分のことはあまり話したがらない。特に、そういう事は。


「で? そのイイ女ってのは」


 靴裏で火を揉み消すと、クロウはまた新しい煙草に火を付けた。


「新しく出来たジム、あるだろ。あそこで知り合ったんだ。スレンダーで浅黒い肌してて、それに乳もデカい」


「お前好みだな」


「声を掛けたのは俺の方だったんだけど、誘ってきたのは向こうから。それで、彼女の知り合いがやってる店で飲んだ後、そのまま一晩」


「惚れてんの?」


 まだ一度だけだろ、と笑うクロウに、俺は(かぶり)を振って否定した。


「また会いたいって言われた。なあ、どうするべきだと思う? それってどういう意味なんだ」


 考えを巡らせる様に空を仰ぐと、彼は俺の顔を覗き込む。


「お前はその人と、どうなりたいんだ」


 出会って間もない相手に惚れるなんて馬鹿馬鹿しい。俺はまだ、彼女の素性も何もかも知らないというのに。


「自分でもよく分からない。でも、彼女と一緒にいると不思議と……落ち着く」


「別れたあと、その人の声とか仕草とか、そういうもんを思い出して頭の中が一杯になったか? もしそうだとしたら、それが答えだよ。お前はまだ戸惑ってるんだ。その気持ちが、何なのか」


「……そういう経験、ある?」


「なかったら言えないだろ。こんなこと」


 馬鹿だな、と苦笑するとクロウは俺の肩を掴んでゆっくりと立ち上がり、そのまま階段を上って行く。


「依頼が入ってる。早く来いよ」






 標的(ターゲット)の名は、ジェレミー・ブランシェ。


 ペインズの東にある小さな町、アルティナで約十年前に起きた、連続強姦殺人。三人の女を自宅に監禁し、暴行の後に殺した。男は当時、二十歳。十年の服役の末、つい数日前に仮出所したばかりらしい。


 依頼主は、殺された三人のうちの一人、ダイアナ・マックレイズの遺族だった。


 報酬は五十万クォル。決して悪くはない。


「女の敵だな。許せん」


 顔の前で手を組みながら、険しい表情でジェードが呟く。


「出所後はどこに?」


 クロウが取り出した写真には、出所後に撮られたらしいジェレミーの姿があった。

 人混みの中頭ひとつ分飛び出た彼は、よれたシャツを纏い、坊主頭に顎髭の生えたいかにも囚人の様な出で立ちで鋭い視線をこちらに向けている。


「ペインズ郊外にある出所者の為に用意された住居で、数年は社会復帰の為の支援を受けながら暮らすらしい。だがあくまでも仮出所だから、まだ警察の監視下にはあるようだ。怪しい動きを見せれば、またすぐにムショへ逆戻りだろうな」


 俺は、一度見た人間の顔は二度と忘れない。こんなに人相の悪い男なら尚更、街中ですれ違えばひと目で判る。

 檻の中でひとり自分の罪を悔いながら生きてきたとして、人は十年なんかじゃそうそう変われないはずだ。あの写真に写る奴の顔を見れば、きっとまた同じ事を繰り返そうと考えているに違いなかった。


 俺にあるのは正義感なんて大それたモノじゃない。欲しいのは、その先にある見返りだけ。人の命が金に変わる。ただ、それだけの事だ。



「俺が行く」


 小さく手を挙げると、クロウが無言で頷いた。他には? と言う彼の問いに、全員が俺を見て首を横に振った。


「じゃあ、決まりだ。頼んだぞ」






 殺された三人の女には、ある共通点があった。


“黒くて長い髪”。


 ペインズには他国からの移住者が多く、人種も様々だ。髪の色も肌の色も、瞳の色も多様で、それぞれ言葉も微妙に違う。

 その『黒くて長い髪』という特徴に、何か意味はあったのか。



「メイ」


 ミーティングルームから下のオフィスへ戻る途中、彼女に声を掛けた。真っ直ぐに伸びる綺麗な黒髪を靡かせながら俺の前を歩いていたメイは、「何?」とこちらに振り向いた。


「外を出歩く時は気をつけた方がいいぞ。もしかしたら、お前も狙われるかも」


「やだ、脅かさないでよ」


「あの写真、見ただろ? あの顔、とてもじゃないが更生している様には見えなかった」


「そうね、私もそう思った。でも、彼はまだ仮出所をしたばかりでしょ? 次に罪を犯して捕まったら、今度こそ一生牢屋の中だわ」


「……髪、結えば? 俺はそっちの方が好き」


 軽く撫でる様に彼女の頭に触れてそう言うと、メイは「余計なお世話よ」と少しだけ頬を赤くした。





「なあ、そういや昨日の彼女。どうなった?」


 トントン、と指でデスクを叩くジェードが、俺の隣に座って待ち構えていたように満面の笑みを見せる。


「……聞きたい?」


「当然だ。第一、俺がとりもってやった様なもんだろ。感謝しろよ」


「分かってる。じゃあ今度、いい女を紹介してやる」


「約束だからな。それで? あの後どこに行ったんだ」


「彼女の知り合いがやってるってバーに連れていかれて、食事して、酒を飲んだ。昔話とか、お互いの事とか、色々話して」


「で、寝たの?」


「まあ聞けって。それで少しずつそういう雰囲気になってきた頃、突然彼女がこう、俺の唇を」


 ぽかんと口を開けていた彼の下唇を人差し指で軽くなぞるフリをすると、一瞬、息が止まった様に動かなくなった。


 そして


「おいおい。お前それ、どう見たって誘ってる合図じゃねえか」


 オフィス中に響き渡る大声でジェードがそう叫ぶと、クロウがちらりと俺を見たので「すまん」と小さく謝っておいた。


 声を顰める様にして、俺は続ける。


「その後は、まあ……流れで」


「なるほど……次は? また会う約束はしたのか?」


「約束というか――実は俺、書き置きだけ残して先に帰ってきたんだ。彼女、寝てたから。そのメモを見てくれていれば今夜。多分」


 ふうん、と横目で俺を見ながら、ジェードは肘で脇腹を小突いてきた。


「いいカンジじゃん?」






 俺にはひとつ、気掛かりな事があった。――そう、エミーのことだ。


 彼女も同じく、長くて黒い髪。もしも偶然、街中であの(ジェレミー)と遭遇してしまったら……。

ジェードと話をしている最中もただそのことばかりが、ぐるぐると頭の中を廻り続けていた。



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