1st act. "Odi me sicut"③
そう言えば、と俺はデスクで作業を続けるボスにひとつ疑問を放つ。
「発砲許可って、下りてなかったんですよね。良かったんですか? 撃ってしまって」
すると悪い事をして怒られた子供の様に首を竦め、舌を出して苦笑いを浮かべた。
「……あの後誰がチクったのか、帰社後すぐ国安局からうちに連絡が来てミッチリお叱りを受けたさ。まあ、あれは正当防衛ってやつだ。しょうがねえだろう」
そもそも銃の携帯も許可されていなかった筈だが、この人の事だ。何が起こるか分からないと準備には抜かりない……いつもの事ながら。きっと連絡が来た時にも上手い事言いくるめたに違いない。常に先の事を念頭に置いて行動する彼には、いつまでたっても頭が上がらない。まあ、そんな風に先々の事にまで目を配る事ができる彼がトップであるからこそ、俺達はついていこうと思えるのだが。
保安局宛ての報告書をファクシミリで送信し終えると、彼は一つ伸びをしてダルそうに開けられた目をこちらに向ける。
「腹減った……飯、食うか。モタモタしてるとまた母ちゃんに怒られちまう」
僅かな沈黙の後、その言葉が合図になり俺とボスは突然動き出す。全速力でオフィスを飛び出し長い廊下を駆け抜けると一階にある食堂を目指し猛スピードで階段を下りていく。
序盤はこちらが優勢だったのだが、二階から一階へと続く階段を駆け下りていく途中、すぐ後ろにいた彼の膝が、ふいに俺の伸びた膝裏を折り曲げる様にコツッ、とつついた。
突然仕掛けられたそれに俺の脚ががくんと落ち、危うく踏み外しそうになった。
「うわ、汚ねっ!」
口にしたのも束の間、その隙に前へ出た彼は何事もなかったかのように階段を下りきりチラ、とこちらを見る。
「お先にっ」
意地悪な笑い声を上げながら、あっという間に彼はロビーを抜け奥へ姿を消していった。
食堂へ辿り着くと、軽く息を切らしながら手前のテーブルに着き、ボスは俺が来るのを待っていた。先に来られたのが嬉しいのか、『どうだ』とでも言いたげな笑みを浮かべながらこちらを見ている。俺も乱れた息を直しながら、彼の隣へ腰を下ろした。
仕事中とそれ以外の時とのメリハリをきっちりつけている彼は、こうして勤務時間を終えるとそれまでの緊張感がまるでなかったかのように人懐っこい一面を覗かせる。無邪気にじゃれついてくるその様子は、例えるならばまさに子犬だ。しかしひとたびスイッチが入れば、人が変わった様に厳しくなるのだが。仕事に関しては人一倍生真面目と言うか、自分に対しても厳しい人だ。
……ああ、そう言えば紹介が遅れていた。今しがた俺とじゃれついているこの男が、俺達の組織『メタノイア』のボスであるクロウ。歳は俺より五つ上の二十六歳だが、見た目だけなら俺とそう大して変わらない。
どちらかと言うとほぼ白色に近い金色の髪、それに良く映える青い瞳はまるで一匹狼のように何物をも近寄らせない殺伐とした色を宿している様にも見えるのだが、その奥の深い碧はどこか優しげで、情と男気に溢れる彼自身を表している様だ。前髪で隠れているが眼帯で覆われた左目は、生まれつきの病気でどうにかなっているらしいのだが、どうやら失明しているわけではないらしい。しかし何故かその辺の事は本人が話したがらないので、特にしつこく問いただす事はしていない。
そして服の上からでは華奢な体つきをしているように見えるのだが、脱ぐとすごい。
俺達の仕事は常に体力勝負でもある。身体作りには特に力を入れているのだ。俺とクロウは背丈や体重もほぼ同じぐらいで筋肉の付き方にもさほど違いはないとは思うのだけれど、見た目よりもずっと、彼の身体は逞しい。
その時。俺達の席の向かい側へ一人、大きく椅子を引いて腰を下ろした。新聞を片手にやってきたその男は、難しそうな顔をしながら一面に目を通している。俺とクロウはテーブルに片肘をつき、二人で覗きこむ様にしてじっと彼の方を見つめていた。
……暫くして視線に気付いたのか、文面から目を離し、ちらっとこちらに目を向けた。
「……何だよ」
不敵な笑みを口元に浮かべながらそう言う彼に、俺達も同時に二ヤリと笑みを返す。
彼はシュライク。今回任務を担当した仲間の一人で、二十四歳。肩まで伸びた柔らかくウェーブのかかった栗色の髪と、どことなく中性的ではあるが男性らしい顔立ちは、女には困った事などないんだろうな……と想像するには容易である。彼自身、自他共に認める女好きでもあるのだが。
だがひとくちに女好きと言っても、別に見境なく鼻の下を伸ばす訳ではないらしい。まあ、彼の恋愛事情にまで干渉する気はさらさらないのだけれど。
そんな彼も仕事に関してはクロウも感心するほど熱心な性格で、銃の扱いにおいてはうちの社内ではトップクラスの腕前。鍛え抜かれた逞しい肉体はクロウや俺なんて比べ物にならない程で、同性の俺から見ても惚れ惚れしてしまうぐらいだ。本当は俺だって彼の様な身体になりたいと日々ストイックに鍛えているつもりなのだが、そもそも骨格が違うのか、なかなか思うようには育ってくれないのだ。この身体は。
読み終えたのか広げていた新聞を畳んでテーブルに置くと、シュライクはこちらに少し身を乗り出してくる。ふと、肘をついていた俺の右腕に手を伸ばしてきた。ぐい、とシャツの袖を捲られ、持ち上げられた腕に二人の視線が集まる。
見てみると、あの時咬まれた個所が痣になっていた。自分でも今になって気付いたぐらいだから、痛みと言う程感じるものはないが。青くなったそこを見て、腕を離すとシュライクはやれやれと溜息を洩らす。
「ターゲットに余計な情け掛けるのいい加減やめとけ。今回は防具があったからそれくらいで済んだけどさ。この前だって相手の弾に掠められて怪我してただろう」
ああ、そう言えばそんな事もあったなあ……なんて、俺は呑気に答えてみせる。
「隙を見せるから狙われるんだよ。もう少し自覚もってやらねえとな。こう生傷が絶えないと安心して単独の任務なんていつまでたっても任せられねえよ。なあ? クロウ」
からかう様に笑いながら、シュライクがクロウに同意を求める。クロウはそうだな、と頷き俺を見た。
「こいつは元々優しい奴だからな、そう簡単には変われねえさ。俺達とは違うんだ」
そう言って煙草を一本取り出すと、火を付ける物を探してズボンのポケットを探る。
「……お前はホント、甘いよな。ラークには」
葉が燃える様な音と共に、煙草の先から煙が上がった。吸い込んだそれを吐き出すようにふう、と息を吐きながらクロウは軽く笑う。そして、『お前よりは可愛い部下だからな』と悪戯な笑みを浮かべた。シュライクはまたわざとらしく大きな溜め息をつくと
「はあ、そりゃどうも」
そう言ってまた新聞を読み始めた。
3人で談笑していると、やがて厨房から一人がひょこっと顔を出した。ここは元々ホテルだったと言う事もあり、厨房もホールも結構な大きさがある。端のテーブルに座っている俺達に向かって彼女は良く通る声で、
「アンタ達、帰ってきていたなら一言声ぐらい掛けなさい。片付けが終わらないからさっさと食事済ませてくれるかしら」
そう言いながらこちらへ向かってくる。食器を乗せたトレイを運んで来ると、料理の盛られた皿をテーブルの上へ置いた。
総勢九名の社員の中で、事務の仕事を行っているうちの一人が彼女、ヴェッチだ。主に会計的な事を任されているのだが、俺たち全員の日常の世話(食事や洗濯など)をしてくれており、言わば母親の様な存在だと言ってもいいだろう。先程オフィスでクロウが言っていた“母ちゃん”とは彼女の事である。
歳は五十をとっくに過ぎているらしい。詳しくは誰もよく知らないのだが。しかしその外見はそんな歳である事も微塵も感じさせない程洗練されているというか、なんというか。歳のわりには目立った皺もないし、爪には綺麗にグラデーションが施されたマニキュアまで塗られていたりもする。多分他の女子社員たちの影響もあるのだろうが、彼女自身の意識の高さも、そこから窺い知る事が出来る。
丁度俺達ぐらいの歳の息子がいるらしく、いつも我が子の様に可愛がってくれる事から、いつのまにか『ママ』なんて愛称もついていたり。とにかく彼女は社員皆から慕われている良き理解者、みたいな女性。ああ、ちなみに彼女の家庭事情についてはまた機会がある時に。
グレイビーがかかったプディングを大口で頬張りながら、思い出したようにクロウが口を開く。
「明日は八時からミーティングだ。他の連中にも伝えといてくれ、シュライク」
ああ、と返事を返しながらシュライクは料理を豪快にたいらげると、空いた皿を下げに席を立った。いつも思うのだが、彼は少し食べるのが早すぎる。食事ぐらいゆっくりできないのだろうか。そんなに急いで流し込まなくたって誰も取らないのに……。そんな事を思いながら俺は皿に盛られたローストビーフを口へ運ぶ。一日の内で、この時間が一番幸せな気がする。ヴェッチの作る料理、すげえ美味いし。
再び席へ戻ってきた彼の手にはコーヒーの入ったポットと、三人分のティーカップ。それらをテーブルに置くと、俺達にもコーヒーを淹れてくれた。クロウはサンキュー、と笑いかけそれを口にする。俺も礼を言ってカップの淵を親指で撫でながら少し口にする。
しかし一口飲んですぐに顔をしかめカップをソーサーへ戻す。やっぱり苦手だ、ブラックは。
その様子を見て、シュライクが笑う。そして長いテーブルの丁度真ん中あたりに置かれた小さな籠からシロップとミルクを二,三個取ると、俺に渡してくれた。
「ガキだな、お前は」
そう言ってからかわれる。二つの液体をコーヒーへ注ぐと、ミルクの白色が表面で渦を描く様にくるくる回って、融けたシロップの甘い匂いがする。口に含むと、鼻に抜ける甘さにほっと息をつく。何だか今日は甘いものが欲しかったんだ、無性に。疲れているんだろうか?
食事を済ませ、一息ついた後自分の部屋へ帰ろうと席を立つ。二人も一緒に立ちあがると、シュライクが大きく欠伸をしながら、
「……今日もやるだろ? 相手よろしくな」
クロウにそう訊ねた。
「いいけど、今日は本気でいくからな。お前は加減ってもんを知らねえから困るよ」
彼の脇腹に軽くパンチを入れながら、クロウは苦笑した。それから、お前はどうする? と訊かれたが俺は首を小さく横に振った。
「今日は早めに休む事にする。疲れてるみたいだ」
そうか、と頷いたクロウは
「なら今日はゆっくり休んでくれ。じゃあ、また明日な」
そう言うとシュライクと二人、食堂を後にした。
元は客室だった二つの部屋の壁を取り壊し、一つに繋げトレーニングルームとして結構な金をかけて改装した部屋が、このフロアの一番奥にある。ありとあらゆる器具を完備させ、もはやスポーツジムと呼んでもいいぐらいだ。それもこれも全部シュライクが提案し、了承したクロウが業者に頼んで作らせたのだが。
彼らが言っているのは、そこにあるこれまた立派なリングで行う打ち合いの事だ。(あくまで、トレーニングの一環だが……)俺もたまに彼らや他の男性社員とそこで拳を交えるのだが、いくら本気でやっても勝てない。……とくにシュライクには。ミドルとヘビー程に体格や体重に差があれば当然な事だが。
一体何を目指すつもりなんだ、と言いたくはなるけれど、それで得られる瞬発力や身のこなしは、実際の任務で役に立つ事もあるのでそれなりにやる意味はあるだろう。食事の後はそこで汗を流し、シャワーを浴びて眠りにつくというのが俺達全員、日課にしている事なのだが、なんだか今日はそんな気にもなれず断った。
俺はふう、と息をつきもう一度椅子に浅く腰掛け背もたれに凭れかかる。どことなく視線を泳がせながら、ぼんやり遠くを見つめた。