1st act. “Scorpii, et aranea mulier”③
――このクラブの設備にひとつ文句をつけるとしたら、何故男子更衣室のシャワーブースに仕切りを設けてくれなかったのか、という点か。
「悔しいけど、認める。やっぱりお前は良い男なんだな」
「どういう意味で?」
「女は皆、お前のツラをみて判断するんだろ? ヤれるか、ヤれないか」
「彼女とはただ食事をするだけ。寝るわけじゃない」
ソープで全身くまなく擦りあげたあと、もしもの事も考えてソコだけはいつもより入念に洗っておく。
ジェードがこちらを横目で見ながら、静かに蛇口を捻った。
「お前の見てたら、自信失くすわ」
「じろじろ見んなよ」
「不公平だ」
「何が」
「……何もかもがだよ」
勢いよく飛び出してきたシャワーの雨を頭から浴びながら、ジェードは壁を殴りつけると、項垂れたまま暫く動かなくなった。
身支度を整えてジェードと共に一階のロビーへ向かうと、階段下のソファに腰掛けていたエミーが俺の姿に気付いて手をあげる。こちらに向かって歩いてきた彼女は、丈の短い赤のワンピースに身を包んでいた。
「ごめん、待たせた」
「いいの。私もついさっき来たところよ。支度に時間かかっちゃって」
赤い紅を引いた唇に、薄く笑みを浮かべる。うっすらと施された化粧が、 先程プールで目にした時よりも一層彼女の色気を引き立てていた。
そちらは? とエミーがジェードを一瞥する。
ジェードは俺に小さく目配せを送った後、「はじめまして」と彼女へ手を差し出した。
「彼――レニーと同じ旅行会社で働いてます。ウィル・スコットです」
「初めまして、スコットさん。あら、二人とも同じ会社にお勤めなの」
「ちょうど昨日も、マラキアから戻ったばかりで。明後日にはまた現地に出向かなきゃならないんだけど、それまで束の間の休日」
「貴方達も一緒に旅をして回るの?」
「毎回じゃないけどね。月に数回くらい。実際に行って、現地の空気に触れてみるんだ。その土地の良さを、自分で目で見て、感じる為にね」
「そう……素敵な仕事ね。今度、そちらの会社のツアーに参加してみようかしら」
「もちろん、喜んで。その時は是非お供させてもらうよ」
なあ、とジェードが俺に話を振ってきた。
「今の時期に行くなら、アルデオがお薦めかな。国内じゃ、あそこが俺の一番のお気に入り」
「ああ、あそこは良かったなあ! 俺ももう一度行きたいと思ってた」
彼はわざとらしく頷いてみせる。
――今のは、さっき更衣室でジェードと思いついた作り話だ。
俺は女が好みそうな流行りの音楽や服の話題なんて興味はないし、喜びそうな洒落た店も知らない。二十年以上もこの街で暮らしておきながら、知っているのは大通りから一本外れた通りにある小さな宿だけだ。
せめて話題だけは事欠かないようにと、架空の会社に勤める同僚、という設定で話をでっち上げた。……まさか、ここまで会話が弾むなんて思ってもみなかったけど。
彼曰くこれまで出会ってきた女は必ず、仕事の事を訊ねてきたらしい。おそらくエミーも例に漏れず訊いてくるであろうと予想して、今回は敢えてこちらから先に情報を与えておくのだという。
もし俺一人だったら、きっとここまで話は膨らまなかった。彼に思わぬ借りができたのはほんの少し癪だったが、今回は素直に感謝しよう。
話に一区切りつけるように、彼は「さて……」とひとつ咳払いをした。
「せっかくの週末だってのに予定もないし、また今夜も寂しい夜を過ごす事になりそう。まあ、今日は俺一人だけみたいだけど」
「残念だわ、スコットさん。今度は三人で食事でもどうかしら」
「お気遣いありがとう。でも遠慮しておきます」
俺は邪魔だろ? と笑いながら肩をすくめると、彼は俺の背中を叩いた。
「それじゃ、邪魔者はこの辺で。良い夜になる事を願ってるよ」
ジェードは俺に向かって小さく親指を立てると、「会えて良かった」とエミーに笑いかけ、こちらに手を振りながら俺達の元を去って行った。
「水着姿もよかったけど、こっちはもっと素敵だ」
……少し唐突過ぎただろうか。もっと具体的に褒めた方がいいのだろうが、上手い表現が思いつかなかった。
「貴方もそのシャツ、とっても似合ってるわ」
ふふ、とはにかんだ笑みを見せるエミーに、俺もつられて口元が緩む。
「早く行きましょ。お腹すいちゃった」
彼女の細い腕が、絡むように俺の腕を掴んだ。
高めのヒールが、コツコツと地面を鳴らす。一定のリズムで、時には少し早足になりながら、エミーはぴたりと寄り添うように俺の隣を歩いた。
「お気に入りの店があるの。人を連れていくのは初めてよ」
彼女に連れられ訪れたその場所は、 メインストリートの西側、三階建ての小さな雑居ビルの最上階にあった。
店へと続く外付けの螺旋階段を上って狭い扉を潜ると、店主らしき若い男が、ぼんやりと煙草をふかしていた。
四席ほどあるテーブルの一番奥に男女の連れが一組と、カウンターの手前に男が一人。控えめに流れるゆったりと紡がれていたピアノの音色が、ひそひそと談笑する彼らの話し声に混じって溶けるように終わりを迎えたところだった。
店主の男はこちらに目を向けると、 小さく手をあげてにこりと微笑む。
「やあ、いらっしゃい。今日は男連れ?」
どうぞ、と勧められ俺とエミーがカウンター中央の席へ腰を下ろすと、身を乗り出し、目を細めながらまじまじと俺の顔を見つめてきた。
「彼、ハンサムでしょ」
嬉しそうに声を弾ませる彼女に、眉を顰めうーんと低く唸ると
「まあ、俺には敵わないけどな」
ふざけたようにケラケラと笑った後、「冗談だよ」こちらに手を差し伸べてきた。
「ノアだ。よろしく」
「……どうも」
ノアは 「すぐに用意するよ」と注文も訊かずに奥の調理台を行き来しながら包丁を握った。
「彼、私の学生時代からの知り合いなの」
「随分親しいみたいだね。昔の恋人とか?」
「まさか。ただの腐れ縁。彼は素敵な人だけど、そういう仲じゃないわ」
知らぬ間に用意されていたグラスには、緑色の果実が添えられていた。一口含むと舌先が少し痺れるような感覚の後、じんわりと苦みが広がる。
「三年くらい前だったかしら。彼、以前は有名なホテルの料理人だったのよ。でもある日、上司と大喧嘩して店を辞めちゃって」
グラスの縁を指で撫でながら、エミーは俺に彼について色々と教えてくれた。
病気がちな母親と二人暮らしをしている事、昼間は街中の小さな喫茶店に勤めている事。趣味で始めたこの店は、彼の唯一息抜きが出来る場所だという事。
腐れ縁だなんて言ってはいたが、ノアのことを語る彼女の口ぶりは、まるで恋人の惚気話でもしているかの様だった。
「彼、おしゃべりなの。訊きもしないのに勝手に喋り始めるから、いつも飽きるくらい聞かされてる」
そう、困ったように眉尻を下げてエミーは笑う。
「好きなんだね。彼のこと」
すると彼女は、不意を突かれた様にきょとんとした表情で俺を見た。
「どうして?」
「だって、ノアの事を話してる時の君の目。愛しくてたまらないって感じだ」
「もちろん、嫌いじゃないわ。大好きよ。良い友達としてはね」
でも、と彼女は上目遣いにちらりと俺の顔を覗く。
「今一番知りたいのは、アナタの事なの」
俺の肩にそっと手を触れると、エミーは真っ直ぐにこちらを見つめたまま静かにそう囁いた。 やけに熱っぽいその視線に、息を呑む。
流し込むように酒を煽り、どうしようもない胸のざわつきに、俺は思わず彼女から目を逸らした。
「おっと、良い雰囲気を邪魔してごめんな」
――と、含み笑いを浮かべながら、ノアが料理の乗った皿を運んできた。
「これはオレからの奢り。ハンサム君に」
「レニーでいい」
「そうか。レニーね、覚えとくよ。……エミーにはいつものね。今日は違う味付けにしてみたよ。口に合えばいいけど」
「ありがとう。美味しそうね。後でまたレシピを訊いてもいい?」
「もちろん。じゃあ、いい時間を」
にこりと笑いかけ、「楽しんで」とノアはまたこちらに背を向けた。
「アナタの話を聞かせて。レニー」
彼女がその名前を呼ぶたび、口に出してしまいそうになるのを必死に飲み込んだ。
あの時咄嗟に口走ってしまった嘘を、今更になって後悔する。
たった一度関係を持つだけの相手だ。名前なんて別に重要な事じゃなかった。今までは。
「何が知りたい?」
本当の俺を知って欲しい。彼女には自分を偽りたくない。いや、偽る必要などないのかもしれない。
俺は他人に胸を張れるほど真っ当な生き方なんてしてこなかった自分の事を、心のどこかで恥じている。
でも不思議と、エミーにはすべてを打ち明けられるような気がした。彼女なら、俺を受け入れてくれるかもしれない、と。根拠はないが、そんな確信はあった。
「アナタの事なら、なんでも知りたいわ。些細な事でも、全て」
エミーの細い指が、俺の唇をゆっくりとなぞった。