1st act. “Scorpii, et aranea mulier”②
フロアに足を踏み入れてすぐ目についたのは、出入口に大きく掲げられた”emenda vitam tuam(あなたの人生を変える)”の文字。
若い女性をメインターゲットに、オープン当初からわずか二ヶ月で、ここクラブ・コンストリクトゥの会員数はすでに二百を超えているらしい。
装飾もやけに煌びやかで、さながら高級ホテルを思わせる豪華な吹き抜けの螺旋階段と高い天井から吊り下げられた大きなシャンデリアは、ガキの頃母親に連れられて見に行った、大きな劇場のホールを彷彿とさせた。
フィットネスクラブといえば、筋骨隆々な男達がひたすらマシンで汗を流しているようなイメージだが、ここはそんな想像とは程遠い。女性客の比率が圧倒的に多い上に、ちらほら目につく男性客は皆、中肉中背か小太りの、それでいてどこか品の漂う中年ばかり。彼らはきっと、暇と金を持て余した有閑階級の人間だ。日々の贅沢三昧の産物であろう肥えてだらしなく垂れ下がった下腹を引き締めようと、一念発起してここへ通い始めたのだろうか。
俺達がマシンルームを後にする頃には、すでに日付が変わっていた。フロアには、トレーニングを終えて帰宅する客の姿があった。先程向こうで見かけたあの金髪の女も、ちょうど仲間と共にフロントの方へ向かっていくところだった。彼女がこちらに気付く事はなかったが、名残惜しそうに女の背中を目で追いながら
「また会えるかな」
ジェードは小さく呟いた。
「運がよければな」
昼間には光が差し込んで室内を明るく照らすドーム型の天井のガラス窓から、今は星空が覗いている。
三階にある屋内プールには、奥のコースで一人泳ぐ女と、白髪混じりの頭をした初老くらいの男が二人、ジャグジーに浸かりながら冷えた身体を暖めている他に客の姿はない。
「そういや最近、なんか変わったよな。アイツ」
身体を解しながら、ジェードがぽつりと口を開いた。
「ラーク?」
「急に色気づきやがって。怪しいぜ」
昼間、奴と交わしたあの話を思い出す。
「女でもできたんだろ」
「やっぱりな! 薄々そうだろうとは思ってたんだ。なあお前、なんか聞いてないの?」
「……いや、特に」
先越されたな、と冷やかすと
「うるせえな、お前もだろ」
「俺はいいんだよ。特定の相手、作らない主義だから」
「よく言うぜ。お前は優柔不断なだけだって」
理想が高すぎるんだよ、と苦笑いを浮かべながら肩を竦めた。そして飛び込み台へ爪先を引っかけ、ジェードはふう、と大きく息を吐く。
「妥協すんのが嫌なだけさ」
勢いよく飛び出した彼の体は弧線を描きながら、飛沫を上げて水面を大きく揺らし、水の中へと消えていった。
魚の尾鰭のようにしなる両脚が、ぐん、と水を叩いた。
五メートル程潜水した彼の身体はゆっくりと浮上すると、左右の腕で激しく叩きつけるように水面を掻きながら、徐々に加速していく。
あっという間に向こう岸までたどり着くと、ジェードはくるりと身体を回転させた。そして勢いよく壁を蹴り、沈んだ身体は再び姿を現すと、こちらへ向かってストロークを始めた。
壁に埋め込まれた大きな時計盤は、今か今かと急かすように静かに時を刻む。
トン、と片手が壁に触れたところで長針が差したのは、七の少し手前。肩で息をしながら頭を振って水気を払うと、彼はこちらに目を向けた。
そして
「……どう思う?」
彼が顎で指した先は、一番奥のコースで泳いでいた小柄な女。
彼女はプールサイドへ身体を引き上げると、濡れた前髪をかきあげながら天を仰いだ。
浅黒く焼けた肌に、すらりと伸びた手足。肉付きの良いバストから視線を下へなぞらせると、緩やかな曲線を描きながら括れた腰は、俺好みの細さだ。官能的なその身体を惜しげもなく見せ付ける様に纏われた黒いビキニの下を想像すると、つい口元が緩んでしまう。
ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる女にヒュー、と小さく口を鳴らすと、ジェードは「イイ女」と鼻の下を伸ばした。
「お前には無理だろ、あんな女。勝ち気な性格が顔に出てる」
「じゃあ何? お前ならイケるって?」
「当然」
「……すげえ自信」
「まあ見てな」
――なんて大口をたたいてはみたものの……実際、女に声をかけた事なんてほとんどなかった。
「一人?」
ジャグジーの前までやってきた女に近付いて、そっと肩へ触れた。振り向いた彼女は少しだけ口角を上げると、上目遣いに俺を見る。
「そうなの。約束してたんだけど、すっぽかされちゃって」
一瞬、戸惑うように目を伏せた。彫りの深い大きな翠色の瞳は艶やかに潤み、瞬きのたびに長い睫毛が影を落とす。
「本当? 君みたいな人、放っておくなんてどうかしてる」
「……あら、男だと思った? 約束してたのは女友達よ。相手がいるなら、週末に一人でこんなところくるはずない」
「ごめん、てっきり恋人がいるのかと」
魅力的だから、と付け加えると、彼女はくすりと笑って「エミーよ」と手を差し出してきた。
「レニーだ。今日は本当ツイてる、君に逢えて」
「私も逢えて良かったわ、レニー。……アナタこそ、ガールフレンドの一人や二人いそうな感じだけど」
ハンサムだから、とエミーは悪戯っぽく微笑む。
「一人に縛られるのって、好きじゃない」
「私も。息苦しくなっちゃう。そういう、恋とか、愛とか」
「同感。なあ、俺達すごく気が合いそうだ。よかったらこの後……」
「待って。ねぇ、アナタすっごくハンサムだしイケてるけど……そんな誘い方じゃ全然ダメ」
そう言葉を遮られ口を噤むと、エミーは矢継ぎ早に話を続ける。
「女性を口説いた事、ないんでしょう? そうね――いつもは女の方から誘ってくるのを、ぼーっと突っ立って待ってる。まあ顔はいいから、何もしなくたって相手は勝手に寄ってくるんでしょうけど。ちなみに知り合った女とは一夜限りで、二度目はない。……アナタ、たまに気に入った相手に出会ってもそんな調子なのね。それ以上の関係になるのが怖い?」
まるで心の中を見透かされているような彼女のその指摘に、心臓がバクバクと音を立て始めた。
「ちょっと待った。君一体何者? ……もしかして、俺と寝た事ある?」
「まさか。私、相手の心が読めるの。こうやって体に触れていると」
エミーは指先を絡めて俺の手を握ると、不敵な笑みを浮かべた。
「――なんてね? 今のは嘘。でも、当たってるでしょ」
「ああホント……困ったな、そこまで言い当てられるなんて」
「やっぱりね。アナタ、本当はすごくいい人そうなのに、どうしてわざと軽いオトコなんて演じてるの? 」
そっと手を離して、エミーはジャグジーの縁に腰を下ろす。
「残念だけど私、そんなに軽い女じゃないの。一晩だけの関係なんてごめんだわ」
甘える様な口ぶりと、揺れる翠の瞳。
五秒前まであったはずの自信が、ぐらりと揺らいだ瞬間だった。きっとすぐに落とせる。そう確信していたのに。返ってきた言葉は、俺の予想に反するものだった。
会って五分後にはベッドの上で腰を振っている様な、そんな女ばかりを相手にしてきた所為で、感覚が麻痺していたのかもしれない。どんなにお高くとまっていようが、女は所詮そういう生き物だと思い込んでいた。
甘い言葉も、感情すらも必要ない。素性も知らない女と、ただ貪る様に求め合って、お互いの欲望をぶつけるだけ。火がつくのは一瞬だが、激しく燃え続けるほどの情熱は持ち合わせていない。
「でもアナタ、気に入った。ねぇ、今日は奢らせて。いい店を知ってる」
エミーはまた悪戯っぽい笑みを浮かべると、タオルを肩に掛け、「下で待ってる」と告げてきた。
「待てよ。今、断ったんじゃないのか。一晩だけは嫌なんだろ?」
「もちろん、寝るつもりはないわ。……だけど一緒に食事して、雰囲気のいいお店でお酒でも飲みましょ。──もっと知りたくなったの、貴方のこと」
耳打ちしてきた彼女の身体から漂ってきた甘い香りは、嗅ぎ覚えのある女の匂いとよく似ていた。
「……俺も」
「じゃあ決まり」