1st act. “Scorpii, et aranea mulier”①
俺が世界で一番嫌いなもの
胸の小さい女
肥満体のネコ
それと、気の弱い男。
7th act
「おい」
終業時刻を迎え、少し慌てた様子でオフィスを出ていこうとするラークを呼び止めた。
普段話しかける事も向こうから話しかけられる事も滅多にないからか、振り向いたヤツの顔に驚きと、ほんの少し困惑の色が見てとれる。
「なんですか」と明らかに迷惑そうな顔を向けられて、思わず苦笑する。
「お前、なんか変わったな?」
――――こいつの様子がおかしくなったと感じ始めたのは、一週間ほど前の事だった。
終業一時間前になると、ラークはしきりに腕時計を気にし始める。三分に一度デスクを指でコツコツと鳴らしてみたり、頬杖をついて悩ましげな溜め息をついたりと、とにかく落ち着きがない。
他のヤツらはどうして何も言わない? いや……気付いてはいるが、わざと知らないフリでもしてるってのか。
「匂いが違う」
少々キツすぎるムスクの香りに、思わず眩暈を起こしてしまいそうだ。こいつはどうやら、正しい付け方も知らないらしい。
「あと、その腕時計も」
彼が時計を嵌めているところも、今まで見た事がなかった。おそらく数十万クォルはくだらないだろうというそれは、黒い文字盤のちょうど真ん中にロゴが小さく刻まれている。世界的に有名な数ある高級ブランドのひとつで、昔親父が同じメーカーの時計をしていたのをふと思い出した。
そういう類のモンは身に着けた事もないし、別に興味もない。もっと歳をとってそれなりの貫録ってのが出てくれば似合うんだろうが、俺にも、ましてやこいつにはもっと、まだそんな品や風格なんてない。外見だけ取り繕ったって、中身がない事はすぐにバレる。
左腕に嵌められたあまりにも不釣り合いなそれを背中に隠すようにしながら、ラークは動揺しているのか、さっきからきょろきょろと忙しなく目を泳がせている。
「誰も気がつかないと思ってた。見られてたんですね、意外に」
「まあな」
……人間観察は、俺の得意分野だ。
昔から記憶力の良さだけは、人より自信があった。一度寝た女の顔は何年経とうがはっきりと思い出せるし、スリーサイズも一目見ればおおよその見当はつく。
二日前、メイが前髪を切っていた事も、ヴェッチが口紅の色を変えた事も。周りのそんな些細な変化でさえ、口にこそしないが俺は見逃さない。
「女に会いに行くのか」
「ちっ、違いますよ別に」
「隠さなくたっていいだろ、俺には分かる」
心なしか、ヤツの顔が赤い。照れてやがるのか?
「あ、あんまり……詮索しないでください」
「まあそう言うなって。女のオトし方なら、俺がよーく知ってる」
不機嫌そうに顔を顰めるヤツの態度に、思わず笑いが込み上げてきた。
見たところ、ヤツはまだ何のアクションも起こしていない筈だ。精々女に見繕ってもらった服や時計でそれなりに着飾ったところで、少し値の張るレストランで食事をしたくらい。そしてその後雰囲気の良いバーに行ったはいいが、女が出すサインに気付く事なくそのままお開きってトコだろう。
もしくはいくとこまでいって、肝心な場面で勃たなかったとか。……まだ一線は越えていないと見た。
あの、と怪訝そうな表情でラークは
「じゃあひとつだけ……訊いてもいいですか」
「どうぞ。何でも」
そう言うと、ヤツは少しだけ躊躇う様に視線を泳がせた後、パクパクと何度か口を動かしてから、再び顔を赤くした。
「す、すぐにイかない為……には、どうしたらいいのかな、って」
メインストリートを東に二ブロック行った先。一か月前に新しくオープンした二十四時間営業のフィットネスクラブは、オープンしたてという事もあってか、どの時間帯に足を運んでも人が多い。
一度に百人は収容可能であろう広々としたトレーニングルームには最新のマシンがずらりと並べられていて、一人黙々と走り込む奴もいれば、気の合う仲間と会話を楽しみながら身体を動かす奴も。それぞれが思い思いの方法で汗を流している。
「いらっしゃい、レイン。毎日精が出るわね」
IDを手渡すと、フロントの女が俺に声を掛けてきた。
「この前はありがとな。おかげでよく眠れた」
「そう、それは良かった。今度はいつ空いているの?」
「そうだな……暇ができたらまた連絡する」
「分かった。待ってるわ」
小声でそうやりとりを交わした後、何事もなかったかのように俺の隣に並んでいたジェードのそれを機械へ潜らせると、女は「良い時間を」と商売用の笑みを浮かべた。
「まさか、手出したのか。あの娘に」
「誘ってきたのは向こうだよ」
着替えを済ませ、軽く身体を解してからいつものマシンに乗る。隣り合ったそれで既に走り始めていたジェードは、何か言いたげな顔でこちらを見つめていた。
一度抱いた女とは二度と寝ない。それが俺の中での決まり事だ。
名前も訊かない教えない、一夜限りの関係。そこに余計な感情なんて必要ない。ただ、気の赴くままに欲望をぶつけて、目が覚めたらまたいつもの日常へと戻るだけ。
よく見えるのはせいぜい出会って数分と最中くらいで、朝が来ればどんなに燃えあがった炎も威力を失い、やがて消えていく。
さっきの女もそうだ。ああは言ったが、別にもう会う気なんてない。
「なんでいつも、お前ばっかり、イイ女モノにするんだろうな」
「そりゃあお前」
「……もういい、それ以上言うな。惨めな気分になる」
一時間程走り続けたところで、ノルマに達した事を知らせるランプが赤く点滅を始めた。徐々にペースを落としながら、上がった呼吸を整える。今日は昨晩よりも調子が良い。
もうすぐそばまで近付いている大好きな季節を前に、俺の心は密かに踊っていた。
――夏と言えば海。海と言えば、水着の美女。
ここから車で四時間程。ペインズ南部、アルデオの端にある“シレーニ・カウダ”は、ペインズの中でも人気のあるビーチのひとつだ。
一番の魅力は、何と言ってもビーチから沖へ向かうにつれ、エメラルドグリーンからコバルトブルーへと変化していく海の色。初めてそこを訪れた時、思わず目を奪われた。
海沿いにはいくつかリゾートホテルなんかも建ち並んでいて、観光地としても結構有名だったりする。毎年夏になると、何万人もの観光客があの地をを訪れるらしい。
魅力と言えば、もうひとつ。
俺が毎年シレーニ・カウダを訪れる最大の理由は、現地で出会う女との一夜を楽しむ為。アルデオには綺麗な女が多いと聞くが、その中でもとびきり良い女を捕まえるには、それなりの準備ってのが必要だ。ただでさえ、多くの人の目に晒されるんだ。ダセェ身体のままじゃ、カッコがつかねえ。
日頃から肉体作りには人一倍力を注いでいるつもりだが、この時期は特にやる気が出る。
一足先に目標距離を走り終えていたジェードは、こちらに背を向けてベンチの真ん中を陣取り、ガラス越しに見える隣のルームを眺めていた。
どうした、と声を掛けると
「ほら見ろよ、あそこにいる娘。さっき俺に向かって手ェ振ってきたぜ!」
そう言って彼が指差す先にいたのは、ブロンドで短い髪の小柄な女。仲間同士連れ立ってやってきたのか、周りには他に四、五人の姿があった。彼女はその中で一人、孤立した様に他の仲間から離れ、黙々と身体を動かしていた。
見た感じじゃ、二十二か三、ってトコだろうか。袖なしの、肩ひものついた下着の様なそれからちらりと見えた胸元には、尾を逆立てた蠍の姿をモチーフにしたタトゥが入れられている。
俺の経験上じゃタトゥを入れてる女ってのは、恋人や旦那がマフィアの人間って場合がほとんどだ。現に俺の義母ジェシカも、右の手首に入れていた。どういう意味合いがあってなのかは分からないが、そういう女に近付くと後々面倒な事になるのは目に見えている。
ふと、こちらに視線を上げた彼女の灰色の瞳が、まっすぐにこちらを捉えた。
下から上へ、まるで蛇に身体の上を這われている様な感覚。俺は立ちすくんだまま、何故だか彼女から目が離せなかった。
口元に薄く笑みを浮かべて小さく目配せをすると、女はマシンを離れ、やがて他の仲間たちと共に部屋を出ていった。
「もしかしてあのコ、お前の事見てた?」
「……うん」
「お前ってホント、顔だけは良いよな」
「褒めてんのか? それとも貶してる?」
「どっちも。ある意味才能だな。憎いぜ、本当」
はぁ、と羨望と落胆の色を混ぜ合わせた様な溜め息を吐きながら、ジェードは腰を上げ
「まあいいさ。女なんて、他にいくらでもいるから」
小さくそう呟いた。