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Justice OR Vice.  作者: 風舞 空
season.1 【Justice Or Vice】
23/35

6th act. -Pluat occultare lacrimis-②

 

 それから日が暮れる少し前に宿を出て、俺はダンを連れてある場所へと向かった。


 街の中心を出てから三十分ぐらい歩いて行くと、民家が密集する地域から数百メートル程離れやけに閑散とした広い敷地に、人目を憚る様にぽつりと建てられた大きな一軒家が見えてくる。

 重い鉄の門を開くとすぐ、綺麗に刈り揃えられた芝生が生えた庭の中心を半分に割る様に家の入口へ向かって白い敷石が続く。


「ここ、レインの家なのか?」


 隣を歩く彼が、楽しそうにこちらを見上げた。


「まあ、な」


 家、と言っても心が安らぐような場所では決してない。俺が心から“家族”と呼べる人間は、ここには誰一人としていないから。


 ――それでも、ここに戻ってこなければいけない理由が、俺にはあるのだ。



 中に入ると、立ち込める熱気の様なものに混じって香水と、草が焼けた様な独特の臭いがする。今までずっと冷えた外気にあてられていた所為で、余計空気が篭っている様に感じるのかもしれないが。……何時間か前に宿で吸った、女が忘れていった煙草の甘ったるい匂いを思い出した。



 すると物音に気が付いたのか、奥の部屋から一人、女が姿を現す。


「あら、レインじゃない。帰って来てたの」


 女はとろん、と眠たそうに少し充血した目をしながら口元に笑みを湛え、煙草を片手に下着姿のままこちらに歩み寄ってくる。焼けた草の様な臭いの正体は、女が持っている煙草の先から漂う煙だろう。大麻(ガンジャ)だと思うが、もう何年も前から嗅がされている所為か、鼻が慣れてしまった。いる?と俺の口元へと差し出してきたが、今はいいと断った。


「その子は誰?」


 と、女は俺の後ろに隠れる様にして立っていたダンにちらりと目を向けた。


「友達だよ」


「そう……可愛い。じゃあ、その子も一緒に?」


「まさか。勘弁してくれ」


 そう苦笑すると、期待する様に目を輝かせていた女は残念だわ、と浅く息を吐く。後ろを振り向くと、少し困惑した表情のダンと目が合った。


「……先に行っててくれ。階段を上がって、突き当たりを左に曲がった一番奥の部屋だ」


 小声でそう告げると彼は黙って頷き、すぐ側の階段を上っていった。

 女は名残惜しそうに彼の後ろ姿を目で追いながら、やがて姿が見えなくなると再びこちらに顔を向けた。


「寂しかったのよ、レイン。最近はあの人も忙しいみたいでなかなか家に寄り付かないし……」


 女は俺の首へ腕を回しながら、脚の間へ割り込む様に腰を擦りつけてくる。鼻に掛かる甘い声は、いつ聞いても不快でしかない。


 彼女は俺の父デリックの妻で義母のジェシカ・ランバート。実母は九年前……俺が七歳の時、ある事情から二十八歳でこの世を去っている。


 ちなみにデリックの事を『父』と呼んではいるものの、彼と亡くなった俺の母は実質的な婚姻関係にあった訳ではない。当時別の女性と結婚していた彼と母は所謂『不倫関係』にあり、その時に出来た子どもが俺、と言う訳だ。遺伝子的な問題で言えば俺は彼の血を引いているのかもしれないが、それでもこれまで一度たりとも、彼の事を父親だと認めた覚えはない。


 俺が生まれてからも、母は誰とも婚約を交わす事はなく、デリックとの関係を続けたまま彼女と俺の二人暮らしが続いていた。そのため近くに頼れる親族もおらず、彼女が亡くなってから俺は幼い子どもを哀れに思う周りの大人達に促されるまま、当初は孤児院へと預けられる事になっていたのだが……ある日、突然現れた彼が俺を引き取ると名乗り出てきたのだ。


 俺の母とデリックがそういう関係にあったのは彼が一人目の妻ジャニスと暮らしていた頃で、母が亡くなってから俺がここへ来る前、ジャニスとは離婚という形で関係を解消したらしい。


 斯くして俺は、母の姓である“ハーマン”の名を捨て、新たにランバート家の一人息子として生活を送る事となった。


 ――ついでに言っておくと、ジェシカはデリックの二人目の結婚相手だ。彼はジャニスと離れ俺を引き取ってから、暫くころころと女を替えては家に住まわせたりしていたのだが、つい三年前どういうワケか、一回り以上も歳の離れた彼女と突然婚約を決め、彼らは晴れて夫婦となった。


 デリックはペインズ南部のアルデオに拠点を置いて活動するマフィアの幹部で、その筋の人間には広く名を知られているのだ、とジェシカから聞いた事がある。彼女が彼のどの部分に惚れこんで結婚に至ったのかは、俺が知る由もないし別に興味もないのだが。


 ただ一つ言えるとするなら、マフィアなんて所詮、ろくでもない連中の集まりだという事だ。

酒や薬に溺れ、女を誑かす様な低俗な人間。連中のしている事はきっと、街をうろつくギャング達とそう変わりはない。……とは言え、そんな男に(たぶら)かされた女が産み落としたのがこの俺なのだ。俺もまた、そのろくでもない人間の血を引いているんだと思うと、心底自分が嫌になる。


 

「ここでシたい……」


 ジェシカは俺の足元にぺたんと座り込み、服の上から太腿を撫でて猫の様に喉を鳴らす。下から辿る様に這ってくる指先が急かすように股間の辺りを弄りながら、こちらの反応を窺う様に目線を上げた。


「駄目」


 腕を掴んで立つ様に促すと、彼女はじゃあ……と少し拗ねる様に俺の手を引いて、奥の部屋へ進んでいく。


「そうやって焦らすところも、あの人に似てるわ」


「……そうかよ」


 開かれたドアの向こうに足を踏み入れると、ジェシカは少女の様に幼い笑みを浮かべ


「あたしは好きだけど」


 そう言って、後ろ手で静かにドアを閉めた。





 はい、と手渡された白い封筒を、脱ぎ捨てた服の上へ置いた。柔らかいクッションに顔を埋める様にして彼女に背を向けシーツの中へ潜ると、寝るの?とジェシカは後ろから俺の顔を覗き込み、髪を撫でた。 疲れている筈なのに、変に目が覚めてしまって眠れそうもない。だが今、ジェシカの言葉に答える気力はなかった。俺は何も言わないまま、ぼんやりと壁を見つめた。


「次は、いつ帰ってくるの」


 彼女は俺の背中にぴたりと身体を寄せ、腹の割れ目を指先でなぞりながら耳元でそう囁く。


「さあ……金がなくなったら、かな」


「少し痩せたみたいだけど、ちゃんと食事は摂っている?」


「食ってるよ、人並みには」


「あたし、こうみえても料理は得意なのよ。よければ何か御馳走するわ」


 ふん、と自慢げに鼻を鳴らした。


「そういう事なら旦那にしてやれ。アンタの男は俺じゃない」


 彼女に母親面をされるのは、なんだか気にくわなかった。



 戸籍上では母という扱いになるだろうが、俺とジェシカはたった九つしか離れていない。血縁関係にあるわけでもないし、赤の他人なのだ。そんな人間を母として見ろだなんて、いくらなんでも無理な話だ。


 身体を起こしシーツの中を出ると脱ぎ捨てた服を着て、置いていた封筒を尻のポケットに入れた。そしてレイン、と切なげな声で彼女は俺を呼ぶ。


「あたしじゃ、ダメなのかな。あたし、じゃ……ママの代わりにはなれないの?」


 一体何を言い出すのかと思えば……。予想もしていなかった言葉に、どう答えればいいのか分からなかった。


「一つ、訊いてもいいか」


 ポケットにねじ込んだ封筒を取り出し、掲げてみせる。


「母親ってのは、こんな風に息子と寝るのが当たり前なのか?」


「それは……」


「俺とお前は、最初からこれでしか繋がってない。それで充分だろ」


 待って、とシーツに身体を包み、ジェシカは引きとめる様に俺の腕を掴んだ。



 この女にとって、俺は所詮欲求不満の捌け口でしかない。俺との関係はデリックには秘密にしてある、と言うくらいだから、彼女なりに後ろめたさを感じているのだろう。……それもそうだ。夫とその子ども、どちらとも肉体関係を持っているだなんて世間からしてみれば非常識な話ではある。

 しかしこの女自体、元は娼館で身売りをして生計を立てていた様な人間だ。今更人の目を気にするのも、馬鹿げた話だと俺は思うのだが。


 そんな女が、この期に及んで母親の代わりにはなれないのか、だなんて。気でも狂っているのだろうか。


「あたしの事、嫌い?」


 涙ぐんだ様な濁声で、そう小さく呟いた。


「別に」


 俺は掴まれた腕をそっと解き、今にも零れ落ちそうに目に涙を溜めこちらを見上げる彼女の頬を親指で撫でる。


「また今度な」


「愛してるわ、レイン……本当よ。あたし、彼より――……」


 ああ、そういう言葉は聞きたくない。そんな言葉を吐かせる為に、俺は相手をしている訳じゃない。


 ……彼女が言い終えるその前に、黙って部屋を後にした。




 部屋を出て閉めたドアに凭れながら、何故か喉の奥から笑いが込み上げてくるのを抑えられずに、声を殺しながら肩を揺らした。


「馬鹿じゃねえの」


 女なんてどうせ、頭の悪い生き物だ。少し優しくしてやればすぐその気になる。男と繋がる事でしか愛を感じる事の出来ない、哀れな人種なのだ。……かつて、俺を産んだあの女がそうだった様に。


 偽りの親子関係なんか必要ない。あいつと俺の間には、金と身体の取引さえあればそれでいい。





 すっかり日も暮れ、外はもう明かりなしでは歩けない程に暗くなっていた。廊下の窓に映った自分の顔が、少しやつれた様に見える。目の下には薄らと隈が出来ていて、随分と酷い顔になっていた。


 ……大分時間が経ってしまったが、ダンは一人で大丈夫だろうか。そう言えば今日一日、俺達はまともに食事も出来ていない事に気が付いた。もしかすると、彼は今頃腹を空かせているかもしれない。十分な金も手に入った事だし、早くここを出て何か食べたい。




 ――――と、エントランスに差し掛かったところで突然正面のドアが開かれ、俺は咄嗟に入り組んだ壁の陰に隠れた。


 茶色のトレンチコートを纏い、同色のフェルトハットを目深に被った男は、俯き気味に家の中に入ってきたかと思えば、深い溜め息を一つ洩らした。何やらぶつぶつと独り言を呟いている様だが、何を言っているのかまでは分からない。


 そう、彼が俺の父(とは思っていないが)、デリック・ランバート。……顔を見るのは約一ヵ月ぶりくらいかもしれない。だが、今一番顔を合わせたくない相手だ。


 そうは言っても二階へ上がるにはここを通る以外に道はないので、俺は仕方なく彼の前へと出て行った。

 物音に気付いたのか彼は顔を上げると、帽子を取って大きく腕を広げながら満面の笑みを浮かべる。


「レイン! 久しぶりだな、元気だったか?」


「ああ、まぁ」


 それなりに、と答えると機嫌をよくしたらしい。彼は懐を探ると、数枚の札を取り出し俺に手渡してきた。


「今日は久しぶりに時間が出来たから、お前達の顔を見ようと思って帰ってきたんだ。……そうだレイン、ジェシカを呼んで来てくれ。美味い酒があるんだ。三人で飲もう」


 何がそんなに嬉しいのか。しかし、活き活きとしたその表情を見ていると、彼に対して抱いている感情がだんだんと薄れていってしまう。

 デリックが俺の背中を押しながらリビングの方へと進もうとするので、ああそうだ、と思いついたように話を逸らす。


「そんな事より、彼女の相手をしてやった方がいい。もう長い事、シてないんだろ?」


 からかう様に笑うと


「なんだ、子どもにそんな話までするのかあいつは。全く……」


 しょうがないなと肩を竦め、少し照れた様な苦笑いを浮かべる。


 先に寝るよ、と告げると彼は腕時計に目をやりながら「もうこんな時間か」と呟いた。残念そうな顔をしながら渋々頷く彼に別れを告げ、俺は階段を駆け上がった。




 部屋へ入ると、ダンはこちらに背を向け、ベッドの隅で小さく丸まったまま下を向いていた。……壁に掛けられた時計に目をやると、時刻は〇時を少し過ぎた辺りだった。


「起きてたのか?」


 そう声を掛けると、彼はハッと我に返った様に顔を上げ、こちらに振り向いた。


「遅かったな。心配したよ」


「話が長くてな、抜けられなかったんだ」


 そっか、と小さく頷く彼の脇に、ふと目がいく。


 どこから引っ張り出してきたのか、厚さの様々な本が五,六冊積み重ねられていて、今も読んでいる途中なのか、開いたままのそれが彼の手元に見える。積まれた本を一冊手に取ってみると、それは昔俺がここへ始めて来た頃に、デリックが買い与えてくれた遠い国の童話だった。昔はこんなものをよく読んでいたんだっけ、とまだ幼かった頃の自分を思い出す。


「レインは、面白い本をたくさん持ってるんだな! 気が付いたら一気に読んでたよ。……あ、その本は特に面白かったよ。気に入った」


 楽しそうに目を輝かせながら、彼は俺が先程手に取った本を指差した。


「そんなに好きなら、あげるよ。これ」


「えっ」


 そんな、悪いよとダンは首を横に振った。


「好きなんだろ? 俺はもう読まないから、遠慮しなくてもいい」


「……本当に? いいのか?」


 いいから、と彼の胸へそれを押し付けると、一瞬困った様な表情を浮かべたが


「ありがとう」


 そう言って目を細めながら、頬を赤らめて嬉しそうに笑った。……ダンの笑顔を見ていると、それまであった嫌な事も全部忘れられる。そんな気がした。



 本当はすぐにでもここを出発しようと思っていたのだが、もうすっかり夜も更けている。俺一人ならどうという事はないが、彼を連れて歩くには少し危ないだろう。それに、ここへ来てようやく眠気が訪れたらしく、頭と瞼が重たい。


 ベッドに身体を沈めると、さほど時間もかからずに俺は深い眠りに落ちていった。







『……ン、……イン』


 暗闇の中で、また誰かが俺を呼ぶ声が聞こえる。


『レイン――』


 ああ、でもこの声は……


(……ダン?)


 すぐそこに気配は感じるのに、暗くて何も見えない。

 暫くして目が慣れてきたのか、やがて声のする方へ、ぼんやりと人の形が浮き上がって見えてきた。そこに居たのはやはり彼で、膝を抱えて蹲り、脚の間に顔を埋めたまま動かずにいる。

 そう言えばこんな光景、前にもどこかで――……。


『たすけて』


 聞こえてきたのは、確かにその言葉だ。

そこに居る彼が言っているのか、それとも彼の心の声なのかは分からない。しかしダンは、俺に何か救いを求めているのだ。……それだけは理解できる。


 しかし彼の方へ手を伸ばした瞬間、それまでそこにいた筈のダンは煙の様に消えて行ってしまった。そして気がつくとまた映像が切り替わる様に、周りの景色が暗闇から、今度は鮮やかな色を帯びたものへと変わる。


 ――そこは今朝バリーと訪れ、ダンを見つけたあの路地裏だった。あの時と同じ様に雨が降っていて、壁に凭れる様にして膝を抱え、蹲る彼の姿があった。


『助けて』


 また、声が聞こえた。か細く震える様な、ダンの声。

 顔を上げて、と再び彼の方へ手を伸ばすと、今度は簡単に触れる事が出来た。そしてダンは、俺の声に反応してゆっくりと埋めていた顔を上げる。……こちらに向けられたその表情に、胸の奥がちくりと痛む。


 頬についた涙の筋を辿る様に、彼の目からは絶えることなく涙が溢れた。色の違う両眼は、真っ直ぐに俺を見ている。何が悲しいのか、辛いのか。……それを今彼に問うのは、間違っているだろうか。


「泣くなよ」


 小さくそう呟きながら、俺はいつまでも泣き止まない彼の頭をそっと抱きしめた。雨に打たれて身体はすっかり冷え切っている筈なのに、吐息だけはやけに温かい。


「俺まで、辛くなる……」


 その時ふと目頭が熱くなり、鼻の奥を突き刺す様に痛みが走って、やがて涙が頬を伝った。



 彼の頭を胸に抱えたまま、俺は声を上げて泣いた。

 きっと、「辛い」という言葉を口にした所為だ。そう感じる事は今まで何度だってあったかもしれないが、その度に俺はその言葉を噛み殺してきた。そんな弱音を吐いたところで、自分が弱くなってしまうだけだと思ったから。


 だから、反面羨ましく思っているのかもしれない。自分の感情を、そのまま素直に表現出来て、救いの手を求められるダンの事が。嬉しい時には心から笑えて、辛い時には涙を流せる事が。


 ――ダン、と名前を呼んだその時だった。急に周りが明るくなって、視界が開けてくると同時に俺は目を覚ました。


 なんだ、夢か……と小さく息を吐いた時、何やら妙に息苦しさを感じ、ずるずると鼻を啜ってみる。風邪でも引いたんだろうかと思ったが、何気もなく目元を触った時、本当に泣いていたんだと気付いた。


 俺は慌てて手の甲で目元を拭って見られていなかったかと辺りを見回したが、その時ふと背中に温もりを感じたので、身体を捻って後ろを振り向く。ダンは俺と背中合わせに、小さな寝息を立てながら眠っていた。昨日積み上げられていた本は棚の奥へと綺麗に並べられ、気に入ったと言っていた童話の本は、眠る彼の腕の中にしっかりと抱かれていた。



 外はすっかり陽が昇っていて、白いカーテンを透かす様に光が部屋の中を照らしていた。

ぐっすりと眠る人間を起こしてしまうのは気が引けたが、これ以上ここに居る理由もないし、出来る事なら今すぐにでも立ち去りたい。


「ダン、朝だ。起きろ」


 軽く肩を揺すると、ダンは小さく唸った後薄く目を開けた。


「あぁ、ごめん……俺、つい」


「いいよ。俺も今起きたばかりだから」


 彼が目を覚ましたのを確認してから俺はベッドを離れ、自分と彼の分の服を取り替える為に洋服棚を漁った。

 俺の服では彼には少し大きいかもしれないが、宿で借りたそれのままでは少し気の毒だ。新しい服へ着替える様に促し、俺も違うシャツへ腕を通した。



 1階へ降りていくと、エントランスでまさに今家を出ようとしていたデリックに出くわしてしまった。昨日の晩は俺の言う通り彼女と楽しんだ様で、あまり眠っていないのかやけに疲れた顔をしている。立てられたコートの襟の間から見える首筋には、キスマークの様なものが付いているのが見えた。

彼はやあ、と右手を掲げると


「何処か行くのか? レイン」


「ちょっとな、約束があるんだ」


 そうかと小さく頷きながら薄く笑ったかと思えば、彼はふいにダンの方へと視線を向けた。訝しげな表情を浮かべ、まるで見定める様に暫くじろじろと観察すると


「彼は、お前の友人か?」


「そうだよ」


「名前は、何と言うんだい?」


 突然、そう訊ねてきた。


「ダン……、ダン・ノリスです」


 ダンは目を伏せ、彼の顔を見ずに答えた。何処か怯えるように声が震えている。心なしか、顔色も悪くなっている様な気がするが……。名前を聞いて確信に変わったのか、デリックはやっぱりか、と口元を緩めた。


「ケリーは元気か? 君の話は聞いているよ、ダン。……成程、君の様な少年なら、彼女が気に入るのも無理はない」


 ケリー……、気に入る……? 一体、何の話をしているのだろうか。どうして彼は、ダンの家庭の事情らしきものを知っている様な口ぶりなんだ。


「今度訪ねようと思っていたところだ。是非、君の様子を――」


「ごめんなさい……ごめんなさい!」


叫ぶように突然声を上げると、彼はドアの前に立っていたデリックを押し退け、勢いよく外へと飛び出して行った。


「……ダン!」


 彼の後を追って外へ出ようとドアに手を伸ばした、その時だ。……進路を塞ぐ様に、俺の前へデリックが立ちはだかった。伸ばした腕を掴まれ、俺は身動きが取れなくなる。


「何だよ!」


「レイン、聞いてくれ。……彼とは、あまり関わらない方がいい」


「理由は? 理由は何なんだ。アンタはあいつの事、何か知ってるって事なんだろ? だったら、理由を言えよ!」


 焦りと怒りのあまり、つい声を荒げてしまう。……でも、早くダンを追いかけたいのだ。何か嫌な事を思い出したのかもしれない。今頃傷付いて泣いているかもしれない。……一秒でも早く、傍に行ってやりたい。


 しかし俺の思いとは裏腹に、デリックにもまた、違う思いがあったのかもしれない。

深く息を吐きだすと、彼は少し心苦しそうな顔を見せた。


「お前には、まだ分からない話だ。でも、一つだけ言えるとしたら……今後ダンと付き合いを続けても、お前の為にはならない。解ってくれ、レイン」


 そんな事を言われたって、すぐに「はいそうですか」と納得できるほど、俺は聞き分けが良い子どもじゃない。


 掴まれた腕を思い切り振り解いて、俺は力任せにデリックを壁へ突き飛ばした。


「今更父親気取りか? 馬鹿じゃねえの。アンタも、義母(あのおんな)もそうだ。お前らに指図される筋合いなんてねえんだよ!」


 俺は湧きあがる怒りを、そのまま言葉に変えてデリックにぶつけた。彼は黙って俺の顔を見ながら、やがてぽつりと


「そうか……」


 そう一言だけ呟いた。


「クソっ!」


 言い知れぬ彼への怒りが収まる事はなかったが、俺はドアを蹴破る様に外を飛び出し、ダンの後を追いかけた。


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