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Justice OR Vice.  作者: 風舞 空
season.1 【Justice Or Vice】
22/35

6th act. -Pluat occultare lacrimis-①

今回(6th)からちょいと過去編に突入します。クロウ・シュライク編からスタートです。多分4部構成くらいになると思われ…。

 

「ねえ、あなた名前は?」


 腹の上に跨ったまま俺を見下ろす女は、鼻に掛かる甘えた声で唇を重ねようと顔を寄せてきた。


「……知らなくてもいい。どうせもう会う事もねえんだ」


 それを拒む様に寸前で手を挟み女の顔を押し上げながら身体を起こす。膝の上に乗ったまま、魚の様に口を開けているその女は、俺の頬を撫でながら上目遣いでこちらを見つめてきた。


「分かってるわ。でも、せめて知っておきたいの……惚れた相手の名前くらい」


 ――よくもそんな言葉、易々と口にできるもんだ。ついさっき会ったばかりの身体だけの繋がりしかない様な相手に、「惚れた」だと? ……馬鹿馬鹿しい。そんな安売りされた感情、俺が本気で受け取るとでも思っているのか。


「退いてくれ」


 それだけ告げると、女はびくりと肩を震わせそそくさと俺から離れていった。


 少しカビ臭い部屋は枕元に置かれたランプの光でぼんやりと照らされ、側に立ちすくむ女の白い身体を浮かび上がらせている。床に投げ出された服を手に取り、女の方へ放ってから俺も肌蹴た衣類を元に戻す。


「服着たら、先に出て行け」


 背中を向けたまま独り言のようにそう呟いた。俺の言葉に女が返事をする事はなく、暫くしてから扉のしまる音と共に気配は消えていった。


 薄暗い部屋の中、女が出ていった扉をぼんやりと眺めながら溜息を洩らす。


「……ダリーな、ホント」


 ベッドサイドのテーブルに置かれた灰皿を掴み、壁に向かって思い切り投げつけた。安い金属製のそれはガツンと鈍い音を立てながら壁に衝突すると、中にあった吸い殻と灰をぶちまけながらそのまま真下へ落下していった。

 汚れた床に、何故だか少しだけ安心する。


 女が忘れて行った煙草を一つ摘みあげ、口元へ運んだ。火を点けると咥えた場所からなんだか甘い様な苦い様な変な味が広がって気持ちが悪い。

口を窄めて吸い上げると火のついた先端の赤が鮮やかに灯り、同時に体内が肺で満たされていく。

深く吸い込んで吐き出すと、狭い部屋の中白い煙が雲の様に空中を漂いやがて見えなくなった。


「……マズ」


 一口吸っただけのそれを床に落としてぐしゃりと踏みつけ、咥内に広がる後口の悪さに唾を吐き捨てる。

 壁に掛けられた小さな時計は、丁度長針と短針が真上で重なり合おうとしていた。


 あーあ、と声に出してベッドにうつ伏せで倒れ込む。シーツに女の匂いが染みついていて思わず吐き気がした。舌打ちしてごろりと仰向けになると今度は急に眠気が迫って来て、だんだんと瞼が重くなっていく。


 ――少し寝ていくか、なんて考えている間に、意識は遠のいていった。






『……ン、……イン』


 誰かの声がする。


『レイン――』


 ……レイン。ああ、あまり聞きたくない名だ。


『もう、何処に行っていたの?心配したわ』


 目の前に現われたのは、九年前に死んだ俺の母親、だ。多分。……記憶が曖昧な所為か、顔から上が歪んで表情が分からない。ただ煙が燻るようにゆらゆらと漂うだけで、必死に思い出そうとするのにそれさえ許さないとでも言う様に。

 それでも声だけはしっかりと耳に残っていて、俺の名を呼ぶその声が妙に安心できる。



 ――おいで、と差し出された手を掴もうと腕を伸ばしたその時だった。スッ、と突然映像が途切れる様に姿が見えなくなったかと思えば、場面が切り替わったのか、見覚えのある光景が目の前に広がった。

ここは親父の……あの男の書斎だ。

 そしてふと目に入った光景が、忘れようとしていたあの日の出来事を、再び俺の記憶の中へと蘇らせる。


 拡がる赤い液体と、鼻につく臭い。床に倒れたまま動かなくなった母と、それを見下ろす女。

絨毯にじわりと染み込み、血溜まりはゆっくりと大きくなっていく。


 ああ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ……!やめてくれ――……


『母ちゃん!』


 確かにそう叫んだ筈だったのに。

どれだけ声を張り上げたつもりでも、自分の声すら分からない。ただ声と一緒に吐き出されたのであろう息の音がひゅう、と虚しく響くだけ。


 ふと、側に立ったまま動かずにいた女がこちらを見た。そうだ。この女が……こいつが――。

まるで嘲笑うような、勝ち誇ったような笑みを浮かべる口元と対照的に、その眼差しは酷く冷たい。


『アンタなんか』


 表情を一つも変えないまま、女は叫ぶ様に口を開いた。


『……アンタなんか、生まれてこなければよかったのに』


 ――悲鳴に似たその声と共に乾いた銃声が耳を劈き心臓に達した瞬間、まるで舞台の幕が下ろされた様に視界が再び闇に包まれた。





 自分の息を呑む音で目が覚めた。見渡すとそこには、先程となんら変わりない薄汚れた天井と、小さな明かりにぼんやりと照らされた質素な部屋があるだけ。時計を見ると、丁度六時を迎えた頃だった。……そんなに疲れていたんだろうか。こんなに長い時間一度も目が覚めなかったなんて。

 しかし気分の悪い夢の所為で折角の睡眠が台無しになった。ただでさえ貴重な時間だってのに、こうして少しでも長く眠る余裕がある日に限って、悪夢に魘される。


(まぁ、いいか)


 どうせまたすぐここへ来る事になるだろうから、その時まで我慢しよう。

のろのろと起き上がり、まだ完全には醒めきらない頭を左右に振って頬を叩く。


「……タリ」


 床に散らばったままの吸い殻を粉々に踏みつけ、俺は部屋を後にした。




 宿には窓が無いから、外の様子なんて出るまで分からない。番台に金を払って錠を開放してもらい一歩外へ出ると、酷い雨模様だった。

 地面を叩きつける雨の音が随分と喧しく感じる。通りにはここから確認できる限り人の姿は見当たらない。……それもそうか。こんな天気の中、街に出ようなんて考える奴はそういない。おまけに今は早朝という事もあってか、普段はこの時間から開いている筈の飯屋や物売りも、看板が仕舞われたままだ。

やっぱりもう少し寝ておけば良かったかもしれないな、と改めて後悔した。


「アンタ、これ持っていきな! 今日は暫くこの調子だろうよ。どうせまた戻ってくるんだろ?」


 店先の小窓からひょこりと顔を出した番台の若い女が、その雨音にも劣らない声でこちらへ話し掛けてきた。若い、と言ってもおそらく俺よりは十歳くらい上だと思うが。

 ここはもう数え切れない程訪れているので、すっかり顔馴染みになってしまったらしい。女は小窓から傘を差し出すと、ニコリと笑みを向けてきた。


「客の忘れ物だから、返さなくてもいいよ。……しかし今日は女なんて捕まらないかもね。この空模様じゃ」


「なんだったら、アンタでも良いけど?」


 そう冗談を言ってみせると、「ガキに興味はないよ」と鼻で笑われた。


「ありがとう」


 傘を受け取って礼を言うと女はまたね、と手を振った。




 目的もないまま雨に濡れるのは気が引けるけど、それでもあの家にいるよりよっぽどマシだ。

パン、と勢いよく開かれたそれは所々に小さな穴が開いていて、この土砂降りの中じゃ、差したところであまり変わらない様な気もする。


「まぁ、いいか」


 穴の開いたボロ傘を差しながら、俺は激しい雨の中をゆっくりと歩き出した。





「よぉ、誰かと思えばレインじゃねえか」


 背後から突然声を掛けられた。聞き覚えのあるしゃがれた低音が癪に障る。

今日は一人なのか、いつもの様に人を小馬鹿にしたような態度とは違ってやけに友好的な口ぶりだ。



 バリーはこの辺で幅をきかせている不良集団の中心核、みたいなモンか。俺より二,三個上だった様な気がする。仲間に囲まれている時は偉そうに踏ん反り返っている癖に、どうやらこいつ一人では何の力も持っていないらしい。


 ……所詮群がる事しか出来ない低能の集まりだ。どっちにしたって俺は興味がない。

 何処の集団にも属さないままの俺を疎ましく思っているらしく、これまでに幾度となく下の奴らを俺の元へ送り込んできたが、はっきり言って相手にするのも時間の無駄だと言わざるを得ないくらい、手ごたえを感じない奴らばかりだった。


 そんなに潰したいなら直接掛かってこい、と何度も伝えてあるのに関わらず、俺の前に出てきた事などこれまで一度だってないと言うのに。


「何か用か、バリー」


 背を向けたままそう訊ねるとバリーは一瞬息を呑んだようにも感じたが、やがて宥める様な口調で話しかける。


「別に今日は喧嘩を売りに来たわけじゃない。アンタ、今暇なんだろ?」


 だから何だと言い返そうと思ったが、バリーがえらく愉しげに言葉を続けるので、何も言わずじっと耳を傾けた。


「裏でちょっと面白い奴を見つけてな。男か女か良く判らねえんだが……初めて見る顔だ。まあとりあえず来てみろよ。もし女だったらありゃあ相当アンタ好みかもしれねえぜ」


 『裏』というのは言ってみれば俺や他の遊びを目的にした男女なんかが出会いの場として集う、路地裏の一角を表す通称だ。そこにどんな目的で集まるのか、という事はこの街の人間なら知らない者はおそらくいないだろう。それ故に、普通の人間は寄り付かない場所でもある。

 こんな朝っぱらから、しかもよりによってこんな天気の日だというのにも関わらず、どうやら物好きが舞い込んだ様だ。


「女だったら俺によこせよ」


「もちろん。野郎なら適当に脅して金でも巻き上げておくさ」


「ああ」


 お前一人でそんなことできるのか? と、もはや同情にも似た感情が沸き上がってきたが、それは黙っておく事にした。





「……こいつ?」


 一体どんな奴が迷い込んできたのかと少し期待していたが、辿り着いた先で見たそれは俺が思っていたものとは随分とかけ離れていた。

 身体の倍以上はある、いや、見る限り身体が随分と華奢な所為でそう見えるだけかもしれないが。白いシャツを一枚着せられただけのそいつは、靴を履いていない所為で細い足には所々傷を作っている。

 ……この雨の中傘も差さずに壁に凭れて膝を抱え、蹲っていた。


「……生きてんのか死んでんのか分かんねえな」


 誰に言うでもなくそう呟くと、隣に立っていたバリーが少し興奮気味に声を上げた。


「脱がしてみるか?」


 彼の提案に少し考えを巡らせたが、俺は首を横に振った。


「いや、やめとけ」


 蹲ったままのそいつの肩に傘を掛けてしゃがみ込む。


 脚の間に埋められている所為で顔は分からないが、綺麗な白金色の髪。確かにそんな風貌の奴を見た事は今までない様な気がする。

 濡れてしっとりとしてしまった髪に触れると一瞬ぴくりと動いた気がしたが、どうやらすぐ側で眺めているバリーにさえ分からない程微かな動きだった様だ。……それとも、俺の勘違いだったのか。

 首筋に手を当てると、すっかり冷え切ってはいるがほんのりと体温を感じる。


 しかし、肩を軽く揺さぶって声を掛けてみるものの、反応はない。どうする?と急かす様に訊ねてくるバリーへ半ば呆れを感じながら、俺は小さく息を吐いた。


「とりあえず俺が引き取っておく。気に入らなかったら返すよ、お前に」


「そ、そうか。はは……うん、そうだな!」


 どうせ最初から何も考えていなかったのだろう。彼は慌てて返事をすると


「じゃあ、俺は先に失礼するわ! よろしく頼むぜ。レイン」


 そう言い残し、バシャバシャと水音を立てながら走り去って行った。


「腰抜けが」


 くくっ、と喉の奥が笑う。今度会った時は、今日の事をアイツの手下にでも話してやろう。




 腕を掴んで無理矢理引き上げると、驚くくらい軽い。何の抵抗もせずに立ちあがったそいつはやっぱり細くて、力を入れれば簡単に折れてしまうんじゃないかと思う程に。

 顔を隠す様に俯いたまま、辛うじて立っているだけにも見えるそいつに訊いたところで無駄だとは思ったが


「歩けるか」


 俺のその問いにもやはり答える筈はなかった。

何の反応も示さないのが一番の抵抗という事だろう。口を開こうとも首を振ろうともせず、ただ棒の様に立ち尽くしているだけ。

 しょうがねえ、と地面に落ちた傘を拾い上げ、そいつの身体も一緒に抱え上げてから肩に担ぐ。


「大人しくしてろよ、悪い様にはしねえから」


 言い聞かせる様に小さく背中を叩きながら、俺は来た道を引き返した。





「あら、おかえり。随分と早かったね……って」


 小窓から暇そうに顔を出し、外を眺めていた女がこちらを見て目を丸くした。彼女の視線は、俺の肩に担がれだらりと伸びた人間へ一心に向けられている。


「なぁ、なんか着るモンねえか? コイツに合うくらいの」


 肩の上のそれを指差しながら訊ねた。


「男物でよかったらいくらかはあるけど……」


 この際だから、客の忘れ物でも何でも構わない。何でも良いから頼む、と告げると女は探し物をする為に奥へと消えていった。


 暫くして、彼女は服を抱えて戻ってきた。手渡されたそれからは、長い間物置か何処かに仕舞われていたのか、湿気った様な臭いがする。広げてみると、薄く縦縞のはいった水色のシャツと、黄褐色のパンツ。俺くらいのガキが着るには大人び過ぎている様にも思えたが、特に虫が食っているわけでも汚れているわけでもない。きっと俺が着て丁度いいくらいだろうからこいつにはデカすぎるが、真っ裸にしておくよりはマシだろう。

 部屋はさっきと同じ場所を開けておいてくれたらしい。扉を開けて俺達を中へと招き入れると、女はふっとしゃがみ込んで項垂れたそいつの顔を覗き込んだ。


「ふうん……アンタにしては上玉だね」


 ひとしきり観察し終わったらしく、クスリと笑って俺を見る。


「ほっとけ」


 そう吐き捨ててから、さっさと通路の一番奥へと足を進めた。






 ――――いつからか、と訊かれれば、多分最初からだ。


「おーい」


 ベッドへ寝かせたそいつの頬を何度か軽く叩いてみせるが、やはり反応はない。今度こそ死んでしまったのではないかと思ったが、息を潜め耳を欹てると小さな寝息の様なものが聞こえてきたので、とりあえず生きてはいるらしい。少しだけほっとした。


 番台の女が貸してくれた穴だらけの傘はやはりあの雨の中では意味を成さなかった。路地裏とここを往復しただけで全身シャワーを浴びた様にびしょ濡れになってしまい、肌に張り付いたシャツがなんとも気持ち悪い。

 纏っていたものを全て脱ぎ捨て強く絞ると、水滴がボタボタと音を立てながら床へ滴り落ちて水溜りを作った。

 別に真っ裸でいても俺としては全く問題ないのだが、多分そこで寝ているヤツは嫌がるだろう。知らない間に自分をこんな場所に連れ去っておきながら、その上一糸纏わぬ姿で側にいられたら誰だって悲鳴の一つくらい上げるに違いない。


 シャワールームに置いてあったタオルを腰に巻き部屋に戻ると、今まで寝息を立て横たわっていたそいつはうっすらと目を開けていて、暫くぼんやりと天井を眺めた後、そのままごろごろと端の方に転がってきた。そして予想通りベッドの下へと鈍い音を立てて落下する。うっ、と小さく呻いた後また暫く動きが止まったが、やがて大の字に手足を広げ「あー」とか「うー」とか言いながらちらりと俺を見た。


「生きてんのかな、俺」


 声が掠れて聞きとりにくい。


「多分な」


 ――ああ、やっぱり。何となくそんな気はしていたが、顔つきにそぐわないその低い声が俺を現実へと引き戻していった。


 バリーがあの時『女なら相当アンタ好みかも』なんて言ったのは、俺がたまたま金髪に近い髪の色をした女を連れている時に街中で出くわした時の事を覚えていたからだろう。頭は悪い癖に、そんなくだらない事は記憶に残していた様だ。……言っておくが俺は金髪が特別好きなワケでも何でもない。その時はたまたま、女の身体が俺好みだっただけだ。


 そもそもこんなの、ただの憂さ晴らしでしかない。あの家に戻りたくなくて、こうして暇つぶしの相手を探しているだけ。



 コイツを運んでくる前ここにいた女が忘れていった煙草が、テーブルの隅に置かれたままになっている。俺が投げつけた灰皿や吸い殻だけは綺麗に片付けてあったので、番台の女は多分俺が置いて行ったものだと思ったのだろう。

 男に背を向けてベッドの角に腰掛け、煙草に火をつける。


「ここ、何処なんだ」


 掠れた声で独り言の様にぽつりとそう呟いたので


「……宿?」


 背中を向けたままそう答えた。へぇ、と興味なさそうに男は相槌を打つと、やがて小さく軋む音と共に腰掛けていたベッドが少し揺れる。


「俺にも頂戴、それ」


 振り向くと同時にすっ、と伸びてきた指は俺が咥えていた煙草を取り上げると、それを自分の口へ運び美味そうに煙を燻らせた。


「質問していいか」


「何?」


「お前、あんな所で何してた?」


「さあ」


「大体、なんでそんな格好で……」


 そう言いかけたところで、思わず口を噤んだ。



 「泣いている」と言うよりは「涙を零している」と言った方が正しいだろうか。無表情のまま特に気にもせず、一言も声を上げないままただぽろぽろと涙を流した。


(訊かない方がよさそう、か……)


 女に泣かれた事なら少なからず経験がある。が、さすがにそれと同じ慰め方を男にすると言うのも何か間違っている様な気がする。やはり、こういう時はそっとしておくべきなのか……?

背中を向けてしまうのも少し気がひけたので、視界の中に入る程度に顔を背け、箱の中に残っていた煙草の最後の一本に手を伸ばした。




「俺、行くとこなくて」


 ――どれくらい経った頃だろうか。声を殺し、しくしくと涙を流していたその男はようやく落ち着いたのか、自分からぽつりと喋り始めた。

 ちらりと顔を見ると、鼻声ではあったが涙は既に乾いていた。そしてこちらの視線に気付いたのか、彼もふと俺を見た。


「家出でもしてきたのか?」


 なんて、俺も人の事を言えるような立場じゃないけど。

 彼は弱々しく首を横に振ると、身体を縮めるように膝を抱いて顔を埋めた。


「……逃げたんだ」


「逃げた?」


 うん、と呟く彼の声が、心なしかまた少し濁っている様にも聞こえる。


「俺、このまま……」


 そう言いかけたところで、ふと言葉が止まる。このまま……何だ?

 何を言おうとしたのかは分からないが、とりあえず、何かから逃げて来て命からがら辿り着いたのがあの場所だった、という事なのかもしれない。

 見ると、蹲る彼の肩が震えていた。両手で肩を抱いて顔を埋めたまま、ただ怯える様に小刻みに。


 ……こういう時は、どう声を掛ければいいんだろう。この際男だとか女だとか、そういうのは関係ないと考えて良いだろうか?


「無理に言わなくてもいい」


 彼の背中を擦りながら、できるだけ優しい口調で言ってみる。泣いている男を慰めた事なんてなかったから、それが今俺に言える精一杯の言葉だった。


「優しいんだな」


 ありがとう、と彼は顔を上げた。その表情はやっぱり悲しそうで、妙に痛々しく思えた。胸の奥を突かれたような鈍い痛みの様なものが走る。人の泣き顔を見るのは、やっぱり辛い。



「名前、訊いてもいい?」


「うん」


「俺は、ダン」


 さっきよりも少しだけ、声色が明るくなったような気がする。


「レインだ。よろしくな」


 手を差し出すと一瞬驚いたように目を瞬かせたが


「よろしく」


 ひんやりとした彼の左手が、俺の手を強く握り返した。そして暫くお互いの目を見つめたまま、時間が止まってしまった様に動かなくなった。




 ――その時初めて気がついた事なんだが、彼の両目は左右で色が違っていた。右は深い青緑色をしているが、左は綺麗な、と言うよりは血の様な、少し黒みがかった赤い色をしている。

 ただの青い目なら大して珍しい事でもないが、彼のそれはどこか違うものの様な気がした。もしかしたら、何か病気にでも罹っているのかもしれない。

 彼自身も気にしているのか、前髪がその左目を隠す様に頬骨の辺りまで伸ばされている。


「ああ、これ……驚いた?」


 すると俺の視線がそこを捉えている事に気付いたのか、ダンは左目に掛かる前髪を横に除け気持ち悪いだろ、と自嘲するように笑った。

 俺は、そんな事はないと必死に首を横に振る。


「綺麗、だと思う」


 男に向かって言うセリフじゃないだろうけど、本当にそう思った。彼はそうか、と少し照れたように一旦目を伏せ、すぐにまた俺を見る。


「ありがとう」


 ダンはそう言うと、嬉しそうに目を細めて笑った。……笑った顔は女みたいで、少し可愛い。



 その時、俺は心のどこかで、“この先ずっと彼の側にいるべきだ”という妙な使命感みたいなモノに駆られていた。ガキが一端に『護ってやらなければ』なんて生意気かもしれないが、そうする事で、自分の生きる理由が少しだけ解る様な気がした。



 

 ――そう、これが俺とクロウの出会いの始まりで、もう八年も前の事になる。



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