5th act. "Priorem suam quod nemo novit"②
中庭へ出ると、少し離れた場所で子ども達のはしゃぐ声が聞こえてきた。声のする方を見ると、彼らと一緒になって遊ぶ他の者達の姿も見える。
俺は芝の上を埋め尽くす落ち葉を踏みながら、一,二歩先を行く神父の後ろをついて歩いた。
建物のある方へほんの数分歩けば、先程まで聞こえていた声がずいぶんと遠く感じる。近くには民家も人の姿もなく、聞こえるのは鳥の囀りと、風に吹かれ地面を掠めて移動する落ち葉の乾いた音くらいだ。
ここへ来る度に顔は合わせているものの、彼とは特に話した事があるわけではない。しかしこのまま何も喋らずにいるのもなんだか申し訳ない気がする。
「あの……」
声を掛けると、彼がちらりとこちらを向いた。
「さっき、お二人が話していた事なんですけれど……」
「ノーラの事かい?」
「いいえ、そうではなくて……彼がここを出てからの」
ああ、と少し遠くを見る様に目を細める。
「ノリス夫人の養子になったっていう話だね」
「はい……少し、気になったものですから」
「当時は私も彼と同じくここで生活を送る児童の一人だったから、その事を知ったのは、随分後の話なんだけどね……あぁ、ちなみにこれは私が神学校を出てここへ神職者として就いた頃、耳にした話だが――」
と、少し声を潜めて話始めた。
……彼の話を纏めるとこうだ。
クロウを養子として引き取ったケリー・ノリスという女性は、その頃ペインズで大手企業のひとつと言われる会社の社長夫人だったが、クロウを迎える五年程前に突然の病気で夫を亡くしてしまう。元々二人の間に子どもはおらず、夫の死後、彼の残した遺産で独り細々と暮らしていたらしい。
しかし時が経つにつれ独りでいる事に寂しさを感じたのか、彼女はある事を思いつく。
『孤児を引き取って養子に迎えてはどうか』と。
再婚して自分の子どもをもうけるという選択もあっただろうが、彼女はその頃既に四十歳を過ぎていた様で、その考えはなかったのかもしれない。
彼女は何十という数の孤児院を訪ねて回ったが、どこの施設へ足を運べど自分の気に入る子どもがおらず、最後の最後に辿り着いたのがこの教会だった様だ。
そして彼女と出会ったのをきっかけに、彼の人生は大きく変わる事になったのだ、と。
「私と彼は歳も離れていたから顔くらいなら知っていたけど、本当にそれだけで接点もなかった。ただでさえ私は、次の年に神学校へ行く準備で色々と忙しかったしね……私が彼女を見かけたのは3度くらいだったけど、それからすぐだったかな。彼が養子に行ったという事を知ったのは」
「……血の繋がらない人の元で家族として迎えられて、その子は幸せになれるものなんでしょうか」
「どうだろうね……良い養父母に恵まれれば、ここにいるよりずっと幸せに暮らしていけるのかもしれないけど」
でも、と神父は少し悲しげに目を伏せる。
「彼は、ダンは辛かっただろうね……夫人は“商売道具”として利用する為、幼い彼をここから引き取ったんだ」
神父は膝に置いた自分の手元を眺めながらそれだけ言うと、まるでその先を話す事を拒むかのように口を閉ざしてしまった。
彼のその言葉が一体どんな意味を持っているのか、俺には皆目見当もつかなかった。
だって、そんな幼い子どもを商売道具に、だなんて。
……とある貧困国では、その貧しさ故に、幼い子ども達も、大人に混じって過酷な労働を課せられているのだと聞いた事がある。
今日を生きていく為に食べる物すら、満足に得る事が出来ない様な生活を余儀なくされている人々も、世界には数え切れない程存在する中、かつては大企業の社長夫人であった彼女が、わざわざ「商売」の為に彼を自分の手元に置く理由が、一体何処にあると言うのか。贅沢な暮しをしなければ……いや、少しくらいの贅沢をしたところで、きっと亡くなった夫は彼女の為に膨大な遺産を遺していただろうから、死ぬまで金に困る事などないのかもしれない。
それとも、それだけでは賄いきれない程膨大な何かを背負わされでもしていたんだろうか?
「神父様、どういう意味ですか? ……俺にはよく分からない」
「ちなみに君は、どんな家庭で育てられてきたんだい? 親や兄弟は?」
「両親と、子どもは俺一人です。家はまあ、普通だと思います。普通に学校を出て、普通に暮らして」
「そうか……」
良い事じゃないか、と微笑む彼の顔が何だか酷く辛そうに見えた。
「そうだな……あぁ、君は売春宿に行った事はあるかな」
「売春宿!?」
突然の質問に俺はまさか、と大きく首を横に振って見せた。神父の口からそんな言葉が出てくるなんて、思いもしなかったからだ。
ペインズにそういう店が犇く通りがある事は知っているが、行った事は一度もない。だけど「売春宿」で何が行われているのかぐらいは、俺にだって理解できる。売春とはつまり――……女性が金と引き換えに、自分の身体を売る事、だろう。
「それが、どういう……」
「どうやら夫人は、そのうち年頃になった彼を売春宿へ高値を付けて売り飛ばそうと考えていたらしいんだ。簡単に言うとね」
「ちょ、ちょっと待って下さい神父様」
……ああ、駄目だ頭が混乱してきた。
「彼は男だ。売春って……」
「大人の女性が若い男を買う事や、中には少年が男性客を相手に、という事もあるからね。
売春に男も女も関係ないんだ。彼らは皆、買い手にとっては所詮、ただの商品でしかないと言う事だよ」
そんなの、いくらなんでもあんまりだ。
ただの『商品』。客は人を、物としか見ていない。所詮それは店頭に並ぶ売り物と、何ら変わりはないという事だ。
パン屋でパンを買う様に、服屋で服を選ぶように、売春宿では、金を払って身体を買うのだ。
「しかし、それだけの理由だったと断定する事もできない。最初は本当に、ただ子供が欲しいという純粋な感情だけで引き取っていったのかもしれないから」
そうは言っても真相はもう闇の中だけど、と神父は苦笑いを浮かべた。
「八年前にね、亡くなっているんだよ。正確には殺された、の方が正しいが」
「……彼に、ですか」
ふとその言葉が口を突き、神父は驚く様子もなくこちらを見ると小さく頷いた。
「私の元へ、一度だけ連絡を寄越してきてね。その時彼の口から詳しい話を聞く事はなかったけど――……それから随分後になって、君達と初めてここで会った時だったかな。そこでようやく、本人から事情を聞いたんだ。……とは言っても、私が知っているのは今話した事が全てで、詳しくはよく判らないままだがね」
――彼によれば、詳しい事情を知るのはレイモン神父の前任、つまりはクロウや彼が孤児としてここで生活を送っていた頃にこの教会にいた方らしいのだが、その彼はつい半年程前に亡くなられたそうだ。
今になってその事を根掘り葉掘り訊き出すのも、彼にとって思い出したくもない過去であるなら、ただ心を傷付けるだけだ。だからその事については、もう誰も触れない様にしている……と。
そうだ、と神父は木々の生い茂る少し薄暗い森の中を指差した。
「彼女の墓がこの先にあるが、見ていくかい?」
……それを見たところで、別に何の意味もないのではないかと思ったが、特に断る理由も浮かばなかったので、俺は黙って頷くと彼に導かれるまま森の奥へと足を進めた。