5th act. "Priorem suam quod nemo novit"①
どこまでも続く雪景色を眺めながら車に揺られること約三時間。
ペインズから南へ二百キロ程の場所に位置する『インベル』は、国内では一番の小都市だ。小都市、と言っても人口は約百五十万人程ではあるが、俺達の住むペインズや他の都市に比べれば、比較的安全な地域ではある。
時間に追われ忙しなく行き交う人々も、路上で生活する浮浪者の姿も、ここでは滅多に見かけない。少なくとも俺が知る限りではこれといって大きな事件や事故が起きたという話も聞いた事がない。ここに来るのはもう数え切れない程になるけれど、何度訪れても良い所だと俺は思う。身に突き刺さる様な寒さも、鼻の頭を赤く染める冷たい風もここにはない。今が冬だという事に変わりはないのだが、街の匂いも空気もまるで違うのだ。時が流れている事でさえ忘れてしまいそうなほど、何もかもが穏やかで。
レイスが運転する俺達七人を乗せたキャラバンは長閑な田舎の一本道をさらに山奥へと進んで行き、森の中へと続くなだらかな坂を登るとやがて前方に小さな建物が見えてくる。
アンゲルネムス教会は、何らかの理由で親元に居る事が出来なくなったり捨てられてしまったりした子ども達を引き取り、面倒を見ている。所謂孤児院、と呼ばれる施設だ。現時点で国内に百カ所以上あるそうだが、その中でもこの教会が一番の古い歴史を持つらしい。現神父であるレイモン・ローレンス氏もかつてはここアンゲルネムス教会で少年期を過ごした人物であり、二十三歳の頃司祭職に就いてからかれこれ十年間、この教会で神父として神職に勤しんでいるのだという。
――そして俺達はある“用”で年に一度、この教会へと足を運んでいる訳だが。
「お久しぶりです、皆様。お変わりありませんか?」
「……おかげさまで。レイモンさんもお元気そうで何よりです」
笑顔で俺達を出迎えてくれた神父と握手を交わすと、早速クロウは「こちらへ」と聖堂奥へ通される。向かう途中、ふとこちらを見た彼が小さく手招きしてお前も来い、と俺を呼んだ。
「は、はいっ」
下車の際彼から持つよう頼まれていたアタッシュケースを胸に抱え、俺は先を歩く彼らの後ろを早足で追いかけた。
通されたのは応接室の様な狭い部屋。真っ白な部屋の真ん中に、テーブルを挟んで向かい合わせにソファが置かれている以外は何もない。この施設を訪れたのは今回で四度目だが、ここに入ったのは今日が初めてだ。
どうぞ、と勧められるままそこに腰掛けると向かい側へ神父も腰を下ろす。
「早速だが」
それをこちらへ、とクロウに言われるままケースをテーブルへ下ろすと、神父は胸の前で両手を合わせ深く頭を下げた。
ケースの中身は綺麗に束ねられた紙幣。ざっと見て数百……いやもっとだろう。
「いつもすまないね。助かるよ」
「こんな形でしか力になれなくて申し訳ない」
「とんでもないよ、君達には大いに助けられている」
そう穏やかに微笑むと、彼は再び両手を合わせ深々と礼をした。
百以上存在する孤児院の運営にかかる費用は全て国が負担しているものの、保障されているのは最低限の生活をする上で必要とされる資金だけで、その生活は極めて質素である。元よりここは神職者が創設した院である為、贅沢な暮しなど以ての外だ。
この教会が街から外れ閉鎖的な森の中にあるのは、きっと子どもたちに余計な邪念を抱かせない為だろうが、かといってここで暮らす者達が皆外の世界を知らないわけではない。 目も見えない赤ん坊の頃からここで育った者もいれば、物心ついた頃にある事情でやってきた者。それぞれの境遇を抱えここで身を寄せ合い暮らしている彼らの中にも、以前は普通の家庭で育ってきた子ども達が多くいる。孤児院での生活が如何に貧しいかという事くらい、幼いながらにも感じている事だろう。
そこで、そんな子ども達の為にと会社設立当初から今回で四度目。「表向き」は慈善団体として活動する我がメタノイアが、表の任務で得た報酬を義捐金としてここアンゲルネムスへと寄付しているのだ。
こういった施設を支援するスポンサー的な企業はうちの他にもいくつかあるそうだが、その多くが医療や福祉に関係する会社らしい。しかし噂では、援助する見返りに引き取られた年頃の子ども達が臓器売買の為の餌食になっている、なんて話も耳にした事がある。院側としては援助の手前、拒否する事などできないのだろう。……事情も知らされないまま引き取られて行く子ども達の事を思うと胸が痛む。
身寄りがなければ所在が分からなくなったところで騒ぎになる事もない。連中はそれをいい事に利用している、という事だろう。
それならば、何故我々の組織がその資金援助に名乗りを上げたのか、と言うと――……
「ああ、そうだ。君にも早く知らせなければ、と思っていたんだが、今度ノーラが結婚する事になったんだよ」
その時、神父が思い出した様にぽつりと口を開いた。
「……ノーラ?」
名前の主を思い出そうとしているのか、クロウは黙り込んで眉間に深く皺を寄せながら目を閉じ、俯き加減に腕を組んでううん、と小さく唸った。
その様子を眺めながら無理もない、と苦笑いを浮かべると、神父は側の戸棚から一枚写真を取り出し彼に手渡す。
横からそっと覗き見ると、そこに写っていたのはまだ年端もいかないくらいの幼い少女……と、少女と同じか少し歳がいったくらいの少年。白黒のそれから色を窺い知る事はできないが、それは間違いなく今俺の隣で難しい顔をして写真と睨み合っているこの男だろう。
「この子は……もしかしてボスですか?」
「ああ」
風貌は現在の彼をそのまま縮めただけ、と言えば分かるだろうか。満面の笑みを浮かべる少女の横で、棒の様に立ちすくんで少しふてぶてしくも見える表情をしている。
「……あ!」
――と、クロウが何かを思い出した様に突然声を上げた。
「ノーラ……ノーラ・フレイン、だったか? 確か……憶えがある。そういえばよく遊んだな、一緒に」
「そうか良かった、思い出せたようだね。ノーラは君より二つ程歳が下だったと思うが……ちなみに君はお幾つになられたかな」
「俺は二十六になった。それなら彼女は今二十四くらい、か」
「相手の男性も君と同じ年頃らしい。……彼女、実は幼い頃からずっと君の事を慕っていたそうだよ。この結婚も、もしかすれば長年あった君への想いを断ち切る為なのかもしれないね」
からかう様な神父の言葉に、クロウは戸惑い気味にえっ、と言葉を詰まらせた。その反応を楽しむ様に彼は言葉を続ける。
「今日、君がこちらへ来るという事を彼女に伝えていてね。じきに訪ねてくると思うが……一目会ってやってくれるかい?」
「あ、ああ。それは構わないが……」
「君がノリス夫人の養子になったのは、確か十歳頃だったか。それ以来、となるともう十五年以上は経つね。ノーラは今でもたまに顔を見せに来てくれるんだが、その度に君の話が必ず一度は出るくらいだ。余程忘れられないのだろう」
「……あまりからかわないでくれ、レイモンさん。慕っていたといってもそれは子どもだった頃の俺に、であって今じゃない。ここを出てから俺がどんな生活を強いられていたのか……知ればきっと幻滅するはずさ。それに――」
彼が言いかけたその時だ。ココン、と急いたノックの音が部屋に響き、その後すぐに弾む様な女性の声が聞こえてきた。
「レイモンさん、ノーラよ。入ってもいい?」
噂をすれば、と口元に笑みを浮かべながら神父は、「どうぞ」とドアの向こうの彼女へ返事をした。
恐る恐る開けられたドアの隙間からひょこりと顔だけ覗かせたその女性は、部屋の中をぐるりと見渡した後こちらへ目を向ける。
「あ……」
彼女の視線はすぐに一人の男を捉えた様で、やがてドアの隙間から顔を覗かせた状態のまま、動かなくなってしまった。
沈黙が続いたのは、きっとほんの数十秒程だろう。しかしやがて痺れを切らしたように立ち上がったクロウは、彼女の方を向いてはにかみながら頭を下げた。
「……久しぶり、だな。ノーラ」
「ダン、本当に……ダンなの?」
――ダン。どうやらそれが、クロウの本当の名前らしい。彼の言葉をきっかけにやっとドアの向こうから姿を現したノーラは、栗色で腰の辺りまで伸ばされた柔らかそうな髪をふわりと揺らしながら、足早に彼の元へ歩み寄って来た。
向かい合った彼の肩の高さ程しかない彼女はとても華奢な身体をしていて、顔は先程見た写真の中の少女そのもので酷く幼く見える。
「ずっと……ずっと会いたかったの、ダン。ああ、夢じゃないのね」
愛おしそうに暫く互いの顔を見つめ合うとノーラは彼の胸にそっと顔を埋め、しがみ付く様にその身体を抱きしめた。
「ノーラ……」
突然の抱擁に驚いたのか彼の手は暫く宙を彷徨っていたが、やがてぎこちない手つきで彼女の頭を撫でた。
その様子は、男女の仲と言うよりも「兄」と「妹」と言った感じか。しかしこちらから見えるクロウの耳がほんのり赤くなっている様にも見えて、思わず小さく笑ってしまった。
こういう言い方は失礼かもしれないけれど、彼はこういう事には慣れているのだと思っていたから正直意外だった。そう思っていた事に根拠があるわけではないのだけれど、ただなんとなく。
「そうだ、二人で積もる話もあるだろうから私達は暫く席を外すとしようか。……なあ、ラーク君」
気を利かせたのか、神父はそそくさと立ち上がると散歩にでも行こうかと俺を誘ったので、彼の提案に賛成し俺達は二人を残して席を外す事にした。
部屋を出る前にちらりと目をやると、困った様に苦笑するクロウがこちらを見ていたので
「ごゆっくり!」
と小声で冷やかしてからそっとドアを閉めた。