4th act. "Quid est iustitia"④
――翌日。任務を終えクロウから報酬である二百万クォルの小切手を受け取った俺は、勤務時間終了後にそれの換金の為支局へと足を運んだ。
「こちらです。ご確認ください」
「はい」
封筒の中にさっと目を通してから、内ポケットにそれを仕舞いこむ。
じゃあまた、と小さく手を振ろうとしたのと同時に、彼女は自分の目元を指差し俺に視線を向けた。
「クマ、酷いですよ?」
「え、あ」
受付の窓に映る自分の顔を見て、思わずうわあ、と呟いてしまった。
任務にあたっていたここ1週間、そういえばろくに眠れていなかった。眼の下にくっきりと浮かび上がったクマを指で撫でながら、はあ、と溜息を洩らす。
「教えてくれありがとう。じゃ、また……」
俺は彼女に礼を言って少し頭を下げると、踵を返して出口へと向かった。
支局を出た後真っ直ぐオフィスには向かわず、俺はそのままイーヴルストリートへと車を走らせた。
夜の賑わいとは裏腹に、昼間のこの通りはひっそりと静まり返っている。何軒か開いている店はあるものの、客の入りがある様には見えないし人通りもほとんどない。まあ、ここは夜遊びをする人間しか近寄らない場所だから仕方のない事だろうけれど。
目に優しくない蛍光色を灯した看板や、子供や年寄りには少しばかり刺激が強すぎる格好で出歩いている女性もこの時間には目にする事もない。
通りを抜けて暫く進み、ふと車を止め俺は一軒の店へと足を運ぶ。
……そう、生前ジェイクが母親の見舞いの前に立ち寄っていた小さな花屋。
店の奥を覗くと、人の気配は感じるが俺に気付いていないのだろう。とりあえずどれにしようか、と店先へ並ぶ花を物色していると、やがてすぐに奥から誰かが顔を覗かせる。
彼はあの時、ジェイクと親しそうに会話していた少年だ。暗がりの中で見たあの日の印象とは違い、随分と大人びている様にも見える。
「いらっしゃいませ!」
嬉しそうに微笑みながら、彼は俺を出迎えてくれた。その威勢のよさに思わずどうも、なんて頭を下げる。
「どんな花をお探しですか?」
「あぁ、知り合いの見舞いで……」
どもるようにそう口にすると、「それなら」と彼はくるりと後ろに向きを変え、縦長のバケツを引っ張り出すように取り出し、俺の前へ置いた。
「ガーベラって言うんですけど。可愛いでしょ? これ結構喜ばれるみたいで。よくウチに来てくれるお客さんも、いつもこの花買っていくんです。お母さんのお見舞いにって」
ジェイクの事を言っているのだろうか、と、ふとそんな考えが頭を過る。彼の事を何か知っているなら教えてもらおうかとも思ったけれど。
(今更訊いたところで意味はない、か。)
口から出かけた言葉をきゅっと呑み込んだ。
「じゃあこれ、ここにある分全部」
そう言うと、彼はまた嬉しそうに微笑み「ちょっと待ってて下さいね」とバケツを抱え店の奥へと消えていった。――数分後、戻ってきた彼は綺麗に包まれた花束をはい、と俺へ手渡してくる。取り出したコインを彼の空いた片手に乗せ「どうも」と挨拶を交わした後、俺はそのまま店から目と鼻の先にある病院へと向かった。
『407号室』。二,三回ノックをしてみたが反応はなく、ゆっくりドアを開け中を見渡してみると、そこに部屋主の姿はなかった。開けっ放しの窓からは日差しと共に冷たい風が入り込み、室内だというのに吐いた息が白く舞い上がる。
「寒っ……」
建物内に入って少しは暖められた筈の体が、ここへ来てまた冷え始める。俺は擦り合わせた両手にハァ……と息を吹きかけながら、どうしても一目会っておきたかったのでとりあえず主の帰りを待たせてもらう事にした。
なんだか落ち着かず部屋の中を徘徊している時――、ふと枕元に置いてあったそれが目に入った。
手に取ってみると……そこに映っていたのはおそらく昔に撮られたのであろう、俺が知るジェイクよりは遥かに幼い顔をした彼と、隣に佇むこの部屋の主である母親らしき女性の姿。並んで映る彼らの表情はとても穏やかで、きっと旅行か何かに行った時のものなのだろう。
顔立ちの端正さは、どうやら母親譲りらしい。綺麗な人……そんな印象を受ける。
(一人息子なの、かな……)
なんて、俺の勝手な憶測に過ぎないのだけれど。
――それと同時に、自己嫌悪に似たどす黒い雲みたいなものが渦を巻く様に立ち込めてくる。
確かに彼は、決して犯してはいけない過ちを犯し、その結果こうして誰かの怒りや悲しみを買い、それを償う為同等の“代償”を払う事となった。
しかし、それもまた結果として誰かに悲しみを与えてしまう。連鎖する負の感情が、また新たな犠牲を生んでゆく。
果たして俺のしている事は、その『負の連鎖』を断ち切る術となっているのか。それが本当に、正しい事なのか。
そこに疑いを持ってしまえば、それこそ組織の存在自体、否定しかねる事なのだけれど。
誰かの犠牲の上に成り立つ幸福、なんてものが正義面して憚っている事自体、良いか悪いかも分からない。
そもそも……俺がその真偽を問う事自体、間違っているのだろうが。
ふと我に返り、俺は「はは」と自嘲気味な笑い声を洩らす。……これ以上ここに居ても、きっとこの煩わしい嫌悪感に囚われるだけかもしれない。
主が戻ってくるまで待とうと思っていたが、一向に戻ってくる気配はない。仕方ないので内ポケットから取り出した封筒と花をベッドサイドに置かれた小さなテーブルの上に置き、俺は病室を後にした。
「はぁ!?」
なんとなく予想していたけれど、やはり想像通りの反応が返ってきた。
本来ならば担当者で山分けするはずだった報酬の二百万クォルを、治療費にあててもらおうと全額置いてきた事を彼女に話したのだが。
オフィス内に響き渡らんばかりの怒号に似た声に、思わず首を竦めた。
「ね、アンタ何考えてるのホント。二百万よ!? もう……信じらんない」
「ごめん……」
「ごめんで済む問題!? 私言ったわよね、ターゲット深追いするの止めろって。それが今度は何? ターゲットの家族? 冗談じゃない。そもそも……」
彼女がすごい剣幕でそう言いかけたその時。
「メイ」
現われたのはクロウだった。俺達のやり取りを聞いていたのか、困った様な苦笑いを浮かべやってきた彼は宥める様に、彼女の頭を数回優しく叩いてみせる。
「ボス! 聞いていたなら分かりますよね? だってコイツ……」
「ああ、お前の言い分はよく分かる。良い金額だったもんな。怒るのも無理はねえ」
何とか言ってやって下さいよ、とメイは次々に非難の言葉を口にする。やれやれと溜息を吐きながら、クロウは俺の顔を見た。
「そうだな……ラーク。ちょっといいか」
「は……はい」
「ついて来い」と難しそうな顔をして徐に部屋を出ていくクロウを追って、俺もその場を後にした。
ドアを潜り、ビルの出入り口前にある階段の前で足を止めた。そこへゆっくり腰掛けると、立ち尽くしていた俺に「座れば?」と微笑むと自分の隣を指差した。
「まったく……あそこまで責める事もないだろうにな、メイも。そりゃあ、気持ちも分からなくはないけど」
てっきり何か言われるのかと思って覚悟していたのだが。
「お前はそれでよかったのか? 本当に」
自分の吐いた息が舞い上がっていくのをぼんやりと見つめながら、その質問の答えを探していた。
「分からないんです、良かったのかどうかなんて」
「うん?」
「ただ俺は……俺自身の罪を償いたかったのかもしれないです。彼が死ぬ事で報われる思いがあるのだとしたら、俺がこうする事で彼の思いは報われるんじゃないか、って。俺の勝手な思い込みですけど……。自分のしている事が正しくないって事は、きっと彼も分かっていた筈ですから」
そうか、と一言だけ呟くと何を言うでもなく遠くを見つめながら、取り出した煙草に火を付けた。
「俺、正直まだ分からない事だらけで。俺達のやってる事って、本当に正しいのか……誰かの命を奪って、それが正義だなんて思えなくて。それで悲しむ人間が、何処かに居る筈なのに」
今、俺はどんな顔をしているだろう。悲しいのか、悔しいのか、泣きたいのか。言葉を口にする度、確かにそこにあった筈の志が不安定にぐらつき始める。
こんなことをボスである彼に話すのは失礼かもしれない。彼の意志のもと立ち上げられた組織に身を置く立場であるというのに、もはや俺は、彼のその思いすら否定してしまっているのではないか。
(……やっぱり、言わなきゃ良かったな)
――と、沈黙を先に破ったのはクロウだった。その顔は怒るわけでも悲しむわけでもなく、むしろ穏やかに笑みさえ浮かべていた。
「やっぱり優しいな、お前は」
「え……」
「確かに俺達の仕事は常識はずれな事だろうな、他の奴らからすりゃあ。ま、やってる事自体どっかのマフィア連中と大して変わらねえしな。依頼されて、殺して、金を受け取るっつうシステムに関しちゃあ」
ふうっと煙を吐き出した後、短くなった煙草を足元に落とすとそれを揉み消すように靴で踏みつけた。
「でも、俺達は自分の欲の為に動いてる訳じゃない。『誰か一人の為の正義』を貫く為だって、前にも言ったよな。それに悲しむ人間がいたとしても、喜ぶ人間はいねえんだ。一度ついた傷はどうしたって消えるモンじゃない。痛みを取り除く事はできてもな。……俺達は神でも仏でもねえ。だから、全ての人間の悲しみを無くす事なんてできない。しかし誰か一人の為になら、やれる事があるかもしれない。それでいいんじゃねえかな、と俺は思うよ」
誰か一人の為の正義、か……。
「お前はそれが正しいと思ったからやった事なんだろ?じゃあいいんじゃねえ、それで」
そう言ってすっ、と立ち上がったかと思うと一つ大きなくしゃみをした。そして寒っ、と身震いをしてから「戻るか」とビルの方へと歩き出す。
……と、彼の後について歩き出したその時。ふいにヒヤリとしたものが瞼の上に落ちる。空を見上げながら暫くすると、ちらちらと白いものが舞い落ちてきた。
「あ、雪だ」
俺の言葉に、ん? と振り返ったクロウも空を見ると、あーあ、と溜息を吐き腕を組む様に両脇へ手を挟みながら「早く戻ろう」と催促する。
「どーりでクソ寒いワケだ……明日には積ってるかもな」
「雪掻き、ですね。大変……」
「俺、パスな。さみぃから……じゃ、お先!」
「あっ、ちょっ……!」
ふざけたように笑いながらそそくさと入口まで走って向かうと、そのままドアの向こうに消えていった。
ふう、と息を吐き、俺はまた暫く空を見上げる。雪の所為なのか、ただでさえ肌に突き刺さる様な寒さは一段と増していて、だんだんと指先の感覚がなくなってきた。
風はなく、雪はフワリと舞う様にゆっくりと地面へ辿り着きすうっと消えていく。
(……ジェイク。俺、あんな事ぐらいしかできなかったけど、お前に代わって祈ってるから。それくらい、許してくれよ?)
空に向かい、心の中で彼にそう語りかけた。
そしていつの間にか、雪は視界を真っ白に染め上げる様に本格的に降り始めた。脇に停めている車の屋根にも少しずつ積もりだしている。
(正しい事、だったんだよな。俺にとって)
自分にもそう問うてみる。
彼を殺した事に罪の意識を感じ、それから逃れようとああすることで自己満足に浸っていたのだ。でも、残された彼女にとって、それが俺に出来るせめてもの償いだった。そうすることで、かつてジェイクが望んでいた様に、彼女が元気でいてくれるのならば。救われる命があるのなら、決して無駄な事ではない。
俺達はそう、神様じゃない――。ちっぽけな俺達に出来る事なんて、そう多くはないのだ。
誰かたった一人の傷や悲しみを癒す事ぐらいしか出来ないのかもしれないけれど、それが俺達にとっての『正義』であるのならそれでいい。
(欲張りだな、俺)
呆れた様に自分を笑った。でもなんだか、それまで喉につっかえていた何かが綺麗に無くなった様な気がする。
「……コラ! お前いつまでそこに突っ立ってんだ。風邪ひくぞ」
その時だ。頭上から叫ぶような声が聞こえ、見上げてみると2階の窓から身を乗り出したクロウが苦笑しながら「早く来い」と手招きしていた。
すっかり辺り一面を覆い尽くした雪が、肩や頭までも白く染めようとしている。
俺は犬が体を震わせる様に頭を左右に振って積った雪を振り払い、すっかり冷えてしまった両手をポケットへ突っ込み、早足で戻る。
(雪、たくさん積もればいいな)
――なんて、子供じみた事を考えながら。