引き取った
高速道路をおりて、県道に入り、そこからだいぶ走った。
景色はいつしか田畑だけになっていた。
田舎に住んでいたころ、思ったことがある。
四方を山に囲まれている。
もしかするとその先に、世界は存在しないのではないか。
もちろんそんなことないと、知識では分かっている。
地球が丸いということも。
だけど、子供の身長で、四方を見回したときに、なんだか窮屈な場所に押し込められているような感覚になった。
狭い世界。見るのは毎日同じ顔。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。
だが親が死に、田舎を出てからも、あまり感覚は変わらなかった。
俺の背では、地球の縁は見えない。田舎にいたときは山のせいで、都会に来たら建物のせいで。地平線など、まともに見たことがなかった。
*
車は、山のふもとの集落に入った。
土地はいっぱいあるはずなのに、道が異様に狭い。家も、広い庭があるように見えて、あくまで野良作業のスペースを確保しているだけ。人は日当たりの悪い隅っこに住んでいる。そうまでして居住スペースを切り詰めて、ほかはすべて田畑にしている。徹底して「食う」ことを優先しているのだ。それが日本の田舎の景色。
ともあれ、車が停車した。
到着したのは、なんの変哲もない農家。
犬が吠えている。
「たろ、うるさいよ。静かにしな」
偏屈そうな老婆が家から出てきた。会話する前から分かる。この人は、他人が嫌いだ。
「ご依頼をいただきました、間宮と申します」
「大友です」
俺たちが頭をさげると、老婆はしわだらけの顔をさらにしかめた。
「あたしが小間森だよ。檻は持ってきたかい?」
「はい」
キツネを閉じ込める小さな檻だ。
車に積んである。
老婆は溜め息をついた。
「冬! 冬! いつまで支度してんだ! 早く来な!」
「いま行くからー!」
家から若い女の声がした。
老婆は大儀そうにこちらを見た。
「いま孫が来るからね。それに案内させるよ。あたしは足が悪くてムリだ」
「分かりました」
コマは山の中にいるらしい。
自動車で入るのは不可能だろう。
しばらくすると、学校のジャージを着た少女がドタドタ走ってきた。
「準備できたよ。お婆ちゃん、この人たちを案内すればいいの?」
中学生くらいだろうか。
あどけない顔をしているが、錆びついたナタを手にしている。
ナタというのは、出刃包丁みたいなものだ。俺は田舎で育ったから見たことがあるが、山で暮らした経験のない人にとってはホラーゲームでしかなじみがないかもしれない。もちろん人を襲うためのものではなく、山に入るとき、邪魔な枝を切るためのものだ。
少女は不審そうにこちらを見ている。
「あの、警察の人ですか? コマちゃんをどうするつもりですか?」
「警察ではありません。政府から派遣されてきました。コマさんを保護するよう、依頼を受けました」
間宮氏がそう答えると、少女の表情が変わった。信じられないといった顔で、老婆に向き直る。
「お婆ちゃん、どういうこと? 保護ってなに? 連れてっちゃうの?」
「うるさいね。もう決めたことなんだ。あんたは口を挟むんじゃないよ」
「待ってよ! あたし、コマちゃんのお世話するって言ったのに!」
「黙りな。ペットを飼うのとはワケが違うんだよ。コマの世話をするってことはね、ずっとこの村に住むことになるんだ」
「私はそれでもいいって言った!」
「ふん。あたしがよくないんだよ。いいから案内しな。それが済むまで戻ってくるんじゃないよ。いいね?」
老婆はこちらへ背を向けて、家の中に入ってしまった。
どうやら話がついていないように見えるが。
少女は泣き出しそうな呼吸をしている。いや、怒っているのか。
だが、ここで外面だけいいのが間宮氏だ。
「あの、私たちは急がないので、ゆっくりで大丈夫ですよ。私、間宮京って言います」
「小間森さくらです」
「あなたがいままでコマちゃんのお世話をしていたのですか?」
「はい……。お婆ちゃん、足がよくないので」
「お母さまは?」
間宮氏がそう尋ねた瞬間、少女は目をそらした。
「お母さ……母は、家を出て行っちゃって……」
「ごめんなさい」
「いえ……。その……小間森に生まれた女は、コマちゃんのお世話があるから、村にいなくちゃいけなくて。それでいろいろあって……」
なるほど。
この子は、コマのために村に残るのは苦痛ではない。だが、母親はそうではなかったというわけだ。そして祖母は……もう二度とそんなことが起こらないよう、自分が生きているうちに終わらせたかったのだろう。
俺は地雷を踏むかもしれないとは思いつつ、こう尋ねた。
「けど、世話とは? あいつは勝手に人の命を喰って生きているのでは?」
実際、地雷だった。
少女は怒ったような目でこちらを見た。
「なんでそんなこと言うんですか……」
余計な火種を投下してしまった。
まあいい。
少し卑怯だが、この手を使うしかない。
「俺の両親は、コマの呪いで殺されたんだ」
「えっ……」
「まあ、だからといって個人的な恨みをどうこうするつもりはないが。あいつは、自分の餌は自分で調達するタイプだろう。だから、あんたらの言う『世話』ってのがなんなのか気になってな」
間宮氏が溜め息をついた。
「あなたには人の心というものがないんですか? いまその話する必要あります?」
「聞けるときに聞いておかないと、後悔するかもしれない」
後悔といっても、俺は感情論の話をしているわけじゃない。
情報を知っている状態と知らない状態では、このあとの選択が変わる可能性がある。
少女はこちらを睨むような顔になった。
「コマちゃんを捕まえて、どうするつもりなんですか?」
「知らない。俺は自分の趣味で回収しに来たわけじゃないからな」
もちろん危害を加えるつもりはない。
大人なんだから、もう少し余裕をもって応対してもよかったかもしれないが。
その点、間宮氏は一枚上手だ。
「大丈夫ですよ。大切に扱いますから。私たちは、あくまで依頼を受けてお預かりする立場ですので。安心してくださいね」
「絶対に傷つけたりしないって、約束してください」
「はい。約束します」
営業スマイル。
演技としては合格点。
だが、絶対にか?
そんな約束して大丈夫なのか?
大人というのは、子供を絶望させるウソをつく。子供のころは、絶対にそんな大人になるまいと誓うのに。大人になると、なにか理由をつけて誓いを破る。あるいは体よく忘れたフリをする。
*
山に入った。
少女が意地悪しているのでなければ、これが正式なルートなのだろう。ただし俺も間宮氏も、何度も斜面ですっこけた。
先頭を行く少女は、転倒する俺たちを冷たい目で見ていた。彼女の中では、俺たちは大事なコマちゃんを奪っていく悪人なのだ。仕方がない。
枯れているのか枯れていないのか分からない木々が乱立していた。枝は木々の間に絡まって、どの木から生えたものやら分からない。あるいは無関係な雑草のツタが絡まっているだけかもしれない。カオスもいいところだ。
少女はそれをナタで切り開いて進む。
個人所有の山なんだろう。
誰も手入れしていない。
かつてはしていたが、いまはもう人手がなくてそれどころではない、といったところか。
力仕事が必要なのに、若者は減る一方だ。
この国の山村は、遠からず消滅するんだろう……。
*
日がやや傾きかけたころ、朽ちかけたお堂に行きついた。
お堂というか、屋根があるだけの廃屋だ。人が生活するための機能はない。
「ここです……。コマちゃんは奥に……」
少女は気の進まない表情。
案内などしたくなかっただろう。
俺と間宮氏は構わずお堂に入った。
引き戸はもはや滑らず、ガタガタであったが、力任せに開くことができた。
床板の上に、キツネが一匹うずくまっていた。
ガリガリに痩せて、苦しそうに目を細めて呼吸を繰り返している。
素人でも分かる。きっと死期が近い。
夢の中ではのほほんと茶など出してきたのに。
実際のコマは、こんなに弱々しかったのだ。
思えば、夢の中では異様な強さを誇るA子も、実際の世界ではほとんど寝たきりだった。まあA子とコマでは事情が違うにせよ。夢の中の存在と、実態は、必ずしも一致しないのだ。
「コマちゃん。俺だ。分かるか?」
「きゅう……」
キツネは小さく鳴いた。
返事をするのも大変そうに。
「これから連れて帰るけど、いいよな?」
「……」
返事はなかったが、抵抗する気はなさそうだった。
俺はコマをそっと抱えて、檻の中に寝かせた。
持ち上げたコマは驚くほど軽くて、体毛もボソボソだった。こいつは、こんなになるほど自分を責めていたのか……。
お堂を出ると、少女がこちらを見た。
「本当に連れていくんですか?」
ナタを手に、立ちはだかるように。
俺が反論してもよかったが、こじれる可能性が高いので、ここは間宮氏に譲ることにしよう。
「よかったら、お別れの挨拶を」
「嫌です……」
まあそうだろう。
間宮氏も、もう少し言葉を選んだほうがいい。
普通なら会話が途切れても気にならないのだが、昼を過ぎた山の中では、どうしても薄気味悪い雰囲気になってしまう。
山とか川とか池とかは、住民にとっては身近にあるものなのに、容易に命を奪う装置でもある。だから大人たちは口うるさく「入るな」という。子供はそれを守らないが……。たいていは運のよさに守られて生き延びる。他人と同じ行動をしていても死ぬ子供がいる。自然は安全ではない。
俺はわざと肩をすくめた。
「どうやって世話すればいいのか教えてくれ」
「世話って……。ただ、話しかけたり、なでたりとか……するだけですけど……」
普通すぎる。
そんなことを、小間森家はわざわざ何代にもわたって続けてきたのか?
少女は溜め息とともに背を向けた。
「もう行きましょう。日が暮れちゃう」
*
帰りは転倒しないよう、慎重に移動した。
少女も待ってくれた。
コマを傷つけるわけにはいかない。
家につくと、少女は「じゃあ私はこれで」と言い残し、さっさと家に入ってしまった。
代わりに老婆が出てきた。
「ふん。こんなキツネ一匹のために、あたしらは……」
その言葉がウソであることは、俺にも分かった。
顔は険しいままだったが、コマをじっと見つめる目が、とても寂しそうだった。
老婆は、ちらとこちらを見た。
「孫は、余計なことは言わなかったろうね?」
「余計なこと、とは?」
「母親のことだよ。あの子には行方不明って言ってあるが。死んだんだよ。夢に取りつかれてね。まったく。災難ったらありゃしないよ」
「でも、コマちゃんもこんなに痩せて……」
本当なら、俺はコマを憎むべき立場の人間だ。
だけど、こんな姿を見てしまったら、もう、責める気もなくなってしまった。
老婆も複雑そうな表情だ。
「悔しいけどね、あたしらにも救えなかったんだ……。娘が命まで賭けたのにね。あとのことは、あんたらに任せるよ。もう、うちの一族の手に負える状況じゃなくなっちまった」
おそらくはコマ本人とも話が済んでいるのだろう。
その上では、この人は状況を把握し、重い腰を上げて政府を頼ったのだ。
裏切るわけにはいかない。
「あまり都合のいいことは言えそうにありませんが……。それでも、最善を尽くします」
ウソは言いたくない。
だから、言えることだけ。
老婆は気落ちしたように目をつむった。
「コマは、あんたのことも教えてくれたよ。自分の命を犠牲にしてまで、自分を救おうとしてる人間がいるってね。コマは哀しんでたよ。そんなことして欲しくないって。ま、あたしからはなんとも言えないけどね。ほどほどにしときなよ。自分がどうにかなっちまったら、その時点でおしまいなんだからね」
「はい……」
反論はできなかった。
だが、方針を変えるつもりもなかった。
コマは人の命を奪った。それは事実だ。俺の親だけでなく、相手の運転手の命まで。
コマがなぜそうしたのかも分かっている。腹が減っていたのだ。
もし俺がコマだったらどうしていただろう、と、考えたことがある。
空腹に耐えられるだろうか?
人の命を少しもらえるなら、そうするかもしれない。いきなり殺してしまうわけではないのだ。少しずつ。少しずつ。空腹が満ちる程度にもらうだろう。その結果どうなるかは、未来になってみなければ分からない。
だからこれは、構造の問題なのだ。
悪意があろうがなかろうが、今後も起きうる問題だ。
いろんな事情を考えなくていいならば、コマやバクを殺せばこの問題は解決する。まあその場合、人間が機械でエネルギーを吸い出すターンに入るが。その問題はいま解決に向けて動いている最中なので、いったん置こう。
バクには交渉の余地がない。
コマにはある。
俺はその違いを軽視しない。
やっていることは同じだとしても。いや、同じだからこそ、だ。
命を喰い散らかして当然と思うのか。
その重みを理解した上で喰らうのか。
人間だってそう違いはあるまい。
なにも考えない、というのもひとつの知恵だとは思うが。
(続く)




