妙な夢を見た(三)
健康診断は問題なく終わった。
大変だったのは、その後、事務所に戻ってからだ。C子と間宮氏はずっとチクチクやり合っていた。俺は盾にされた。無関係なのに、両者から弾丸を浴びせられた。
転職したい……。
*
法律によると、夫婦は同じ家に住むことになっている。だから原則、別居というのは法律違反なのだ。形骸化しているが。
俺とC子の自宅は同じマンションだったが、部屋は別。そこに不満はない。不満はなかった、数分前までは……。
「は? なんなの? 邪魔?」
「いや、いいけど……」
仕事が終わったあと、C子は酒瓶とつまみを持って乗り込んできた。スーツ姿のまま。
こいつの距離感はいったいどうなっているのか。
「でさ、あんたって人の心とかないの?」
「はい?」
まだ缶ビールは一本目なのに、かなりトばしている。
宅飲みは楽だ。外と違い、「家に帰る」という工程をまるまる省略できる。つぶれてもそのまま眠ればいい。だが、問題はここが俺の部屋だということだ。C子の部屋じゃない。
法律違反でもなんでもいいから、ぜひ別居を徹底して欲しい。この仕事が終わったら、秒で他人になるのだから。
「この部屋見てなんとも思わないの? チャチなテーブルとベッドしかないし。ほとんど牢屋じゃん」
「牢屋は言いすぎだろ」
「テレビもナシでどうやって生きてくの?」
「ネットがある」
「現代っ子かよ」
俺より年下の現代っ子だろこいつ……。
テレビは、あったらあったでいいとは思うが。大きな家具は、運ぶのが大変じゃないか。
彼女はチャチな丸テーブルに肘をついて、スルメをかじり出した。山賊みたいだ。
「あのさぁ。あんた、あたしのこと好き? 好きじゃないでしょ? べつにいいよ。仕方ないから。でもさ、好きになる努力くらいしなよ。あたしも努力してあんたを好きになるからさ」
「……」
返答不能。
頭がどうにかなりそうだ。
こいつは俺を好きじゃない。
俺もこいつを好きじゃない。
それは確かに間宮氏の思う壺だが。必要に応じて協力すればいいだけの話であって。好きになる必要はない。嫌いでもいい。本心なんかどうでもいい。誰だって好きでもないビジネスをしている。愛さなきゃなんてのは、ビジネスの宗教化だ。いびつな強迫観念でしかない。社員旅行に行って全員で社歌を合唱するのが理想か? 勘弁して欲しい。
「え、無視? 人の心なさすぎない?」
「C子さんよ、あんた飛ばし過ぎなんだよ。温度差考えてくれ、温度差を」
「地蔵の上に、冷笑野郎かよ」
「……」
こいつは本当に、俺を好きになる努力をしているのか?
努力してこれか?
むしろこいつのほうがサイコパスだろう。
久々に怖くなってきたぞ……。
C子はなれた手つきで二本目のビールを開けた。
「状況、分かってる? 政府だよ、政府。そんなの相手にしてさ、勝てるわけないじゃん」
「その事実はすでに確認済みだ」
「あーもー、最後まで聞きなよ、冷笑地蔵」
最低の地蔵菩薩が誕生してしまった。
なんでも安易に合体させるべきではなかろう。神仏および俺への冒涜もはなはだしい。
「最後まで聞く価値があるのか……?」
「これはねぇ、極めて根源的な問題なの。あんた、無人島でサバイバルしたことある?」
「ないが?」
「奇遇ね。あたしもないの。でも聞くところによると、一番つらいのは、人とのコミュニケーションがないことなんだってさ。ゆりちゃんが言ってたから間違いない。もう知ってるよね? ゆりちゃん。あいつのお姉さん。あたしの親友」
ああ、知っている。
名前だけ、だが。
急に出てきて、話をおかしくした謎の人物。
なぜ謎なのかというと……人物像を誰も説明してくれないからだ。教えてくれれば秒で理解するのに。
「どっちから聞いたほうがいいんだ? 無人島か? ゆりちゃんか?」
「なに? ゆりちゃんに興味あんの?」
「知っておくべきだと思うね」
するとC子は、これまでとは別人のようにおとなしくなった。
「それはさ……。でも、あたしもよく知らなくて……」
「はい? 親友という設定は?」
「設定いうな。ホントに親友だったの。でも最後にケンカして、仲直りする前に、死んじゃって……。家にも行ったことなかったから、妹の顔も知らなくて。妹いるのは知ってたんだけどね。なんかね、いい子だったんだ。すごく。でも、おかしいなって思うことが何回かあって。隠してたんだ、いろんなこと。なんか、分かんないけど」
俺にも分からない。
親友なのに、隠し事をしていたのか?
いや、いい。親友の形は様々だ。必要なら、隠し事くらいするだろう。だが、C子が納得していないということは、たぶん必要じゃなかったということだ。
「いつから親友だったんだ?」
「いつっていうか……。知り合ったのは小学生のころ。でもちゃんと話すようになったのは、高校に入ってから。たまたま同じ高校行って。科は違ったけどね。なんかすっごい勉強して、いい大学行っちゃった。あたしはちっこい会社に入ったんだけど、セクハラがキツくてやめて。そのあとキャバやったりして、今に至るって感じ?」
彼女の経歴についてはあえて触れまい。
人は誰しも最良の選択をして生きている。
「ゆりちゃんは、たとえばどんな隠し事を?」
「家のこと。ぜんぜん教えてくれなかった。こっちが聞いてもなんかはぐらかす感じだったし。でもあの妹見て納得したわ。なんかあったんでしょ、どうせ」
複雑な家庭環境、というわけか。
うちは借金の問題を抱えてはいたが、家族同士の仲は悪くなかった。むしろ協力的でさえあった。問題は、いつでも金の話だけ。だから、家族間の対立に直面したことがない。
間宮家の問題を想像するのは難しい。親友だったC子でさえ知らないのだから。
C子は缶を置き、血走った目でこちらを見た。
「ゆりちゃんの話はいいでしょ! それより無人島! 分かる? 大事なのは、コミュニケーションなの」
「はぁ……」
「つまりね、いまって隔絶された環境だと思うの。陸の孤島だよ。そしてその島には、あたしとあんたしかいないの。最後に生き残った人類なの。あたしだってねぇ、もっとカッコいい男と結婚したかったよ? でももうムリなんだからさ。あきらめなよ?」
「趣旨は分かる」
趣旨というか、世界観は分かる。
彼女は、この世界をそう捉えているということだ。
「つまりお互いを好きになったほうが、人生がマシになるってこと。あたしも努力してんだからさぁ。あんたもしろよなぁ」
「趣旨は分かるんだが……」
「だから、分かるならやりなよ」
強制か?
俺はこの件に関して、完全にノープランだった。絶対に自分からは出てこない発想というか。強い意見を持っていないから、イエスともノーとも即答できなかった。
「しかしひとつ疑問がある。『好きになる努力』とはなんなのか? 好きではないものを、好きになることが、果たして人類に可能なのか?」
「は? ナメてんの?」
すぐ怒る。
まあ俺も言葉を誤ったかもしれないが。
「いや、あくまで一般論として。感情ってのは、内発性に由来するものだろ? それをコントロールすると? たとえば痛いという感情を、我慢すれば痛くない、みたいなことだぜ? かなりキツめの精神論じゃないか?」
「ビールぶっかけてやろうか? そこまであたしを好きになれないワケ? この世界に二人だけの人類なのに? は? もしかして間宮妹とワンチャンあるとか思ってる?」
「そうじゃない。俺だって感情のコントロールは大事だと思うよ。だけど、限度ってものがあると思うぜ」
「そういえば健康診断のときも、看護師のことチラチラ見てたよね。あの子、かわいかったねぇ? でも勘違いすんなよ。あの子、あんたのこと好きでもなんでもないから」
「飲みすぎじゃないか?」
「真面目に聞いて。真面目に言ってるんだから」
なにが真面目だよ。
看護師をチラチラ見てたからってなんだっていうんだ。
営業スマイルとはいえ、あんなに親切に扱われたの久しぶりだったんだぞ。
*
その後も謎の持論を聞かされたが、日をまたぐ少し前に追い返した。
彼女は持ってきた六本のビールのうち、四本を飲んだ。だが特に酔っ払っている様子もなかった。まあ酒に弱くないのは知っている。それはいいが、今後もこれが続くのかと思うと、少しつらい。
*
朝?
気がつくと、白い空が広がっていた。
俺は自宅マンションで寝ていたはずだが……。
そう。
俺は眠りについて、そのあとまだ起きていない。
ここは夢の世界だ。
腕にパワーストーンのブレスレットがついている。コマの夢が始まったのだろうか?
薄明るい世界。
人の気配がない。
そこは森というにはかなり明るかった。木々はまばら。山の中のようにも見えるが、職人が手を入れているかのように整然としていた。自然に囲まれているのに、そうとは思えないほど人工的。
ふと、木が動いた。
いや、人だ。
髪の長い女――。違う。男だ。背が高く、ほっそりとしている。
そいつは枝にぶらさがったおおぶりの桃をそっと手にとり、こちらを見た。癖のない美しい顔立ち。どこか作り物みたいな……。
「客人よ、こんなところに呼び出してすまないね。私の名はトキ。敵ではないよ。さあ、この桃をどうぞ」
無表情だが、言葉は柔和だ。
細身の体に、薄い衣をまとっている。和服? いや、もっと原始的なデザインだ。長方形の布を体に巻き付けているだけ。
「その桃……食べても大丈夫なんですか? いえ、あの世の食べ物を口にすると、戻れないと聞いたことがあって」
せっかく親切に勧めてくれたのに、俺はつい皮肉で返してしまった。
相手がシンプルな善に見えたからだ。
俺はそんな人間を信じない。
人間……ではないかもしれないが。
ただ、ひとつだけ分かるのは、これがいつもの夢ではないということ。
この男は悪意に寄生されていない。
直感だが、そう思う。
「では私が食べよう」
男はみずみずしい桃をかじった。
白い歯が、桃の果肉をやさしく削り取る。
ツラのいいヤツはなにをやってもサマになる。しかし彼は、この絵面を見せつけるために俺を呼び出したわけではあるまい。
「ところで、呼び出した、とは? あんた、なにかの能力者なのか?」
柴田のような能力者か?
あるいはコマみたいな人外か?
どう見ても後者だが。
「私は……コマとは旧知の間柄でね。心配しているんだ。だから余計なお世話とは思いながらも……こうしてあなたをここへ招くことにした」
予想は的中。
人外だ。
余計なお世話、というからには、本当に余計なお世話なんだろう。それはいいが……。
「なぜ俺なんです? コマちゃんに直接言えばいいのでは?」
「ふむ。しかし残念ながら、彼女は私の話を聞いてくれなくてね。私が会いに行くと怒るんだ」
「怒られるようなことをしたのでは?」
「していないよ」
本当にしていない顔。
もっとも、本人がそう思い込んでいるだけの可能性もあるが。
「して、ご用は? できれば、前提から教えてくれると助かりますね。なにせこっちは、ロクな情報がなくて」
謎に謎を重ねるのはもう結構。
答えを知っているなら、先に教えて欲しい。
トキは静かにうなずいた。
「もちろん。まず、前提から。かつてコマは、人の命を喰らう妖怪でね。小さな人里を滅ぼして回っていた。それで人の怒りを買い、殺されそうになっていたんだ」
「えっ?」
急に真相が来た。
この男がウソをついていなければ、だが。
コマの野郎、さも人助けをしているふうだったが、じつは悪い妖怪だったのか……。
もしかして、あのままコマの言うことを聞いていたら、俺たちも食われていたとか?
「だけどコマに限らず、命とは、他の命を喰らうもの……。因果とはいえ、私にはそれがあわれに思えてね。命を直接喰らうのではなく、もっと間接的な方法を教えたんだ」
「教えた?」
「夢を喰らう邪法だよ。悪意の種を仕込んで、生命力を吸い出すんだ。ああ、でも私が直接教えたわけじゃない。教えたのはバクだ。私は両者を引き合わせただけ」
引き合わせた?
いや、そうなると……コマとバクは別人ということになる。別人ではあるが、やっていることは同じ……。
「コマは、人の夢を喰っていると?」
「正確には、喰っていたんだ。少し前までね。だけどもう、それさえ嫌になったんだろう。みずから蒔いた悪意の種を、みずから刈り取り始めた。きっと命を終えるつもりなのだろうね」
淡々と言う。
こいつはただの穏やかな好青年じゃない。そこらの人間とは根本的に価値観が違う。
「えーと、つまり……。コマは悪いヤツだったけど、いまは反省して、過去の清算をしていると? そして俺たちは、その手伝いをさせられている、と?」
まとめるとそうだ。
トキはにこりともしない。
「大筋はそう。だけどあなたは違う。あなただけは」
「俺? なにが違うんです?」
コマに使役されている人間は、俺以外にもいる。
なぜ俺だけ?
「それは私の口から言うべきではない。コマから聞いて欲しい」
「教えてくださいよ。どうせ答えませんよ、あいつ」
「いや、答えるだろう。最後になれば」
「最後って?」
「コマが死を迎えるそのときに」
そういうことだ。
あいつは喰うのをやめたのだ。
必然的に、いずれ死ぬ。
トキは表情も変えず、こう続けた。
「例外というのなら、瑛子もそうだ」
「あの子はなんなんです?」
「それもコマから聞いて欲しい」
聞いたら教えてくれるのか?
深く呼吸をしたつもりが、溜め息になった。
結局のところ、俺たちは、あいつの自殺を手伝わされていたというわけだ。
どうせ無償労働なら、もっと有意義な活動がよかった。
いや、コマへの苦情を考えている場合ではない。目の前にいる男から聞いていないことがある。
「えーと、それで? まだそちらのご用を聞いてませんでしたね」
「私はあわれんでいるんだ」
はい?
こいつもサイコパスの類か?
「あわれむ? いったいなにを?」
「あなたのことだよ。コマの命を奪うことになる。きっとつらい選択になる」
「はぁ、まあ……」
「本当にあわれでね」
*
目が覚めた。午前三時。自室の天窓から月明かりが差し込んでいる。
え、もう終わり?
あの男、あわれだという感想を言うために、俺を呼んだのか?
いやまあ重要な情報は手に入ったが……。あいつの目的は? サイコパスなのか?
コマの命を削っているのは、俺だけじゃない。責任逃れをしたいわけじゃないが。なぜ俺だけに言う? 俺のなにが特別なのだ?
あなたは例外、あなたは特別――。
俺の好きな言葉だ。
嫌いでもある。
呪いの言葉だ。期待だけさせておいて、たいていロクなことにならない。
(続く)




