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9 誰かの気持ちの残り香 (第9話 ひとりぼっちの街)

9日目


★『心の迷宮を抜けて』★第9話 ひとりぼっちの街


次の扉を開けると、そこには――街が広がっていた。


石畳の道。

街灯がまばらに灯り、どこか古い時代の空気が漂っている。


けれど、誰もいなかった。


広場にも、カフェにも、階段にも、橋の上にも。

人気はまったくなかった。


まるで、誰かのためだけに作られた街。


風もない。音もない。

マール君の足音だけが、カツン、カツンと響いた。


「……ここにも、誰もいないんだ」


でも、不思議だった。


この街には、やさしさの残り香があった。

壁には、手書きのメモがいくつも貼られている。


「雨が降りそうです。傘を忘れずに」


「階段すべりやすいから気をつけて」


「スープ、温めておきました」


どの言葉も、誰かが“誰か”に向けて書いたものだった。


「……この街には、誰かがいたんだ」


マール君は思った。


きっとみんな、どこかに行ってしまったけれど――

ここに“誰かと過ごした時間”だけは、残っている。


石畳の広場のベンチに座ると、

どこからか、小さな音楽が聞こえた。


懐かしいような、初めて聞くような旋律。

あたたかくて、どこか切ない、夜のメロディ。


マール君は目を閉じた。


誰もいないけれど、

今、自分は“ひとりじゃない”気がした。


そのとき、街の中心の時計台が、午後9時を告げた。


カーン、カーン……


「……夜は、まだ終わらないんだね」


マール君は、音の鳴り終わるのを聞きながら、立ち上がった。


歩き出す足元に、誰かが落とした“折れた鉛筆”が転がっていた。


それを拾って、胸ポケットにしまいながら――

マール君は、次の扉を探しに行った。


つづく



☆ 現実パート


読み終えた比奈がふと顔を上げると、

円はカフェオレのカップを両手で包んだまま、じっと動かなかった。


「……今日は、ちょっと……わかりにくかった、ですか?」


比奈が尋ねると、円はゆっくり首を横に振った。


「いえ……」


小さな声で、ぽつりと。


「……なんか、見たことがある気がしました」


「え?」


「誰もいないのに、優しさだけが残ってる……

 そういう場所、あったような……気がする」


比奈は黙って頷いた。


たぶん、誰にだってそういう“記憶の街”がある。

大人になって、忘れてしまったような。

もう戻れない、でも消えていない、そんな場所。


「……あの音楽が流れてきたところで、何か不思議な気分になりました」


「懐かしかった?」


「うん。でも……初めて聞く気もして……変ですよね」


比奈はカップのふちを指でなぞりながら、笑った。


「わたしも、書きながらちょっと不思議だったの。

 なんでこんな話が出てきたのか、よくわかんなくて」


「でも、わかりますよ。

 なんか、誰かの気持ちの残り香みたいなものが、ずっと街に漂ってて……」


円の言葉に、比奈ははっとした。


「それ、それ。うん、そういうの」


しばし沈黙が流れる。

でも、その静けさは重たくなかった。


円が、ポケットから小さな手帳とペンを取り出した。

丁寧な動きで何か書いている。


「誰かの優しさは、目に見えない場所に、ずっと残ることがある」


それを見た比奈は、目を細めて微笑んだ。


「……それ、物語に使ってもいい?」


「もちろん」


円はちょっとだけ、誇らしげに笑った。




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