7 雨の日はおにぎりで (第7話 夜の階段)
☆第7日目 現実パート
ざあざあと、コンビニの窓を叩く雨の音。
曇ったガラスの向こうで、傘の群れがちらほらと揺れていた。
比奈は赤い傘をたたんで店に入り、
おにぎりコーナーの前で少しだけ悩む。
レジを済ませてイートインに行くと、少年はすでに座っていた。
「お待たせ。雨、すごいね。こんな日にハンカチを忘れちゃった」
比奈が笑いながら言うと、少年はポケットからハンカチを出して差し出した。
戸惑っていると、無言のまま、濡れたバッグを指さす。
「あっ、気づいちゃった? 新品のバッグなのに濡れてショックだったの」
「使ってください。あまり綺麗なハンカチじゃないかもしれませんが」
比奈は礼を言ってハンカチを受け取り、バッグの水滴を丁寧に拭った。
「今日はね、カフェオレと……おにぎりにしてみた」
比奈はツナマヨと書かれたおにぎりを取り出し、そっと彼の前に置いた。
ツナの香ばしい匂いが、ミルクの甘い香りとふわりと混ざる。
少年はぼそっと「ありがとう」と言って、
ガシャガシャと包みを開け、ひとくち――そしてもうひとくち。
真剣な顔で食べながら、ふと、ぽつり。
「……おいしい」
比奈は微笑み、スマホを取り出した。
「今日のマール君は、夜の話」
少年は少しだけうなずいて、
おにぎりを握ったまま、物語が始まるのを待っていた。
外では雨が降り続いている。
窓の向こう、誰かの黒い傘が、強風にあおられて傾いた。
けれど、イートインの中は、ほんのりとあたたかかった。
◇
★ 『心の迷宮を抜けて』★第7話 夜の階段
次の扉を開けると、そこには階段があった。
きしむ木の段。
手すりのない、狭い階段。
そしてなにより、その下は、真っ暗だった。
光はなく、どこまで続いているかもわからない。
それでも、マール君は一歩、足を下ろした。
ギィ……。
木が鳴る音が、静寂に刺さる。
「……こわいな」
思わず漏れた声。
けれど、声が聞こえたことで、「自分」がここにいると気づけた。
もう一歩。
また一歩。
その時、暗闇に、小さな“光るもの”が見えた。
壁に沿って、蛍のような淡い光が浮かんでいる。
近づくと、それは“映像”だった。
それは、過去の記憶のかけら。
──誰かに名前を呼ばれた日のこと。
──泣いている背中を、黙って見ていた日のこと。
──「大丈夫」と笑った、自分の顔。
階段を下りるごとに、記憶の光が少しずつ増えていく。
けれど、どの光にも、どこか「悲しみ」と「孤独」の匂いがあった。
マール君は、暗闇の中で立ち止まった。
目を閉じたとき、聞こえた。
「ここにいていいよ」
誰かの、温かい声だった。
一瞬だけ。
でも、確かにそこにあった。
「……ここに、いていいんだ」
目を開けると、その記憶だけが
大きな灯りとなって足元を照らしていた。
マール君は、その灯りを胸に抱きながら、
ゆっくりと“夜の階段”を降りていった。
闇はまだ続いている。
けれど、もう真っ暗ではなかった。
つづく
◇
☆現実パート
比奈が最後の一文を読み終えると、イートインの中は静まり返っていた。
雨の音だけが、窓を打ち続けている。
少年は、おにぎりの袋を握ったまま、しばらく俯いていた。
やがて、ぽつり。
「“ここにいていいよ”って……誰が言ったんですか?」
比奈は少し目を丸くしたあと、困ったように首をかしげた。
「うーん、誰だろう。……実は、まだ考えてないのよ。あっ、自分かな」
「自分?」
少年は顔を上げた。
その目には、期待と不安がわずかに揺れていた。
比奈は、笑わずに言葉を続けた。
「私はね、あの言葉って……誰かに言ってもらいたい言葉だと思ってた。
でも、よく考えてみると、“ここにいてもいいよ”って許可を出せるのは、自分だけかもしれないなって」
「……自分が?」
「うん。本当は、人ってどこにいたっていいんだよ。でも、自分自身がそれを許さない。
だから、人に言ってもらいたくなるのかもね」
少年は、しばらく黙っていた。
ツナマヨの包みをゆっくり折りたたみ、
カフェオレのカップを手に取る。
そして、ごくんとひとくち。
目を伏せたまま、かすかに――頷いた。
それが返事だったのか。
それとも、ただ雨音に呼応しただけだったのか。
比奈は何も言わず、そっと窓の外の雨を見つめていた。
◇
☆少年の帰り道
傘をさして、コンビニのドアを押して外に出たとき、
少年の足元には、まだ雨のしずくが跳ねていた。
アスファルトは濡れていて、街灯の明かりをにじませている。
でも、雨脚は、朝のそれよりもやわらかかった。
傘を打つ音が、少しだけ優しくなっている。
少年は歩き出す。
いつもより、ゆっくりと。
帰り道はいつもと同じはずだった。
けれど、今日はふと、違う道を選んでみたくなった。
住宅街の間の細い裏路地。
植木が雨に濡れて、ひんやりと緑の匂いがしていた。
雲はまだ厚く、灰色だったけれど――
ほんの少し、端が淡く光っていた。
少年は立ち止まり、傘を少し傾けて、空を見上げた。
「……まだ降ってるのに」
小さくつぶやいた声が、空に吸い込まれる。
彼は、また歩き出した。
だけどその足取りは――
たしかに、昨日よりも少しだけ、軽くなっていた。