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4 怒りって顔に出さない方がいいんです (第4話 怒りの川)

4日目 


★『心の迷宮を抜けて』★第4話:怒りの川


扉の向こうに広がっていたのは、赤く濁った大きな川だった。


空はどこまでも鉛色。

低く垂れこめた雲が、今にも落ちてきそうに重たい。


風が吹くたび、川の水面がざわりと波打つ。

泡立つその水は、まるで血のような色をしていた。


「……なんだろう、この川」


川の手前には、崩れかけた吊り橋。

板はところどころ抜け落ち、ロープは今にも切れそうだった。


マール君は橋の前で立ち止まり、足元に目をやった。


地面には、黒くて小さな石が、無数に転がっていた。


拾い上げると、それは石じゃなかった。


――言えなかった言葉たち。


「なんで助けてくれなかったの」


「どうして置いていったの」


「ぼくを見てって言いたかった」


石のように固まった小さな声が、掌の中から響いてくる。

マール君は、それをそっと握りしめた。


そのとき、川の向こう岸に何かが現れた。

怒っている、自分だった。


顔を真っ赤にして、拳を握りしめ、誰かに向かって叫んでいる。

誰に怒っているのかはわからない。

けれど、そこに確かにいた。


「やめて……そんな顔、したくない……!」


マール君の叫びに応えるように、川が荒れた。

橋がぎしぎしと軋み、板がぱきん、と裂ける音を立てる。


「怒りたくない! 怒っちゃダメだって、思ってたのに!」


叫ぶたびに、川の水が荒れ狂った。


怒りたくない。

でも、ほんとはずっと――怒っていた。


置いていかれたことも、理解されなかったことも。

一方的に感情をぶつけられたことも。


マール君は、震える手でポケットから鏡のかけらを取り出した。

それを川面にかざす。


すると、川に映った“怒っている自分”が、涙を流し始めた。

泣きながら、何度も「どうして」って叫んでいた。


「……いいよ。怒っても、いいよ。ぼくだもん」


その一言で、川の水が、すう……っと静かになった。


濁りが引いていく。

吊り橋の板が元通りに戻り、ロープも太く、しっかりと編み直されていく。


――怒りの川は、許しによって渡れる川になった。


マール君は、拾った「言えなかった言葉たち」をひとつ、胸のポケットにしまった。


それは、未来でいつか――言える日のために。


そして、橋を渡っていった。

その先にある、次の扉へと。


つづく



☆現実世界パート


比奈がスマホを閉じると、店内のざわめきが静かに戻ってきた。


冷蔵庫の低い機械音が、空気の隙間に染み込んでいく。


今日のカフェオレは、少年の手の中で、まだ温かかった。


しばらくの沈黙。


比奈は、感情の余韻をあえて切るように、何気ないふうを装って言った。


「マール君、怒ってたね。君は人前で怒ったことある?」


少年は答えなかった。


けれど、カップを握る指先が、ほんのわずか震えた。


やがて、ぽつりと呟く。


「……怒ると、損するんだよ」


その声は、諦めにも似た冷たさを帯びていた。


「怒ってるの見せたら、余計に攻撃されるだけだ。

だから、顔に出しちゃダメなんだよ」


比奈は驚いた。

けれど、その言葉を否定はしなかった。


「……わかるよ。

昨日、上司に怒られたとき、こっちだってムカついたけど……

顔に出したら、さらに怒られちゃった」


「……でしょ」


少年は視線をそらして、窓の外を見た。

夕闇に溶けていく空。


カフェオレの湯気が、細く揺れていた。


「でも……きっと、そういうことじゃないんだな」


それは誰に向けたでもない、ひとりごとのようだった。


比奈は、ただ黙って聞いていた。

その言葉の重さを、胸の奥に静かに受け止めながら。


そして、帰り際。


「明日も……読むよ。マール君の、続き。聞いてね」


比奈がそう言うと、少年はカップを口に運びながら、ほんのわずか――うなずいた。





☆少年の帰り道


コンビニのドアの音が、背中の後ろで鳴る。

カフェオレの余韻が残る唇に、冬の夜風が冷たかった。


少年は足を止めずに歩き出す。

比奈のことも、マール君のことも、なにも思い返さないような顔で。


けれど、ポケットの中では、今日もらったレシートが、くしゃりと音を立てていた。

「カフェオレ(S)×1」――名前のない契約書。


駅へは向かわない。

マンション街を抜け、小さな川沿いの道を選ぶ。


ときどき、スマホの通知が震える。

見ない。


誰かが呼んでいるのかもしれない。


信号待ちの間、隣に立った同年代の少年が、何気なく顔を向けた。

一瞬、視線がぶつかる。


相手の少年は、ハッとしたように目をそらし、そのまま走っていった。


少年は何も言わなかった。

表情も変えなかった。


ただ、ふと、ショーウインドーのガラスに、自分の顔が映っていることに気づいた。


目の下にはクマ。

頬はやせ、口元はきゅっと結ばれていた。


「……知らなかった。僕って、こんな顔してるんだ」


ぽつりとつぶやいて、また歩き出す。


家の玄関は真っ暗だった。


鍵を開ける音。

扉の向こうの気配。

物音ひとつ立てずに、彼は闇の中へと入っていった。


何も語られないのに、何かが壊れている。

そんな夜だった。





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