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3 僕は死にたいんです (第3話 絶望の湖)


★『心の迷宮を抜けて』★第3話 絶望の湖


風も、音も、色も――何もなかった。

マール君は、静寂に満ちた湖のほとりに立っていた。


水面はまるで、世界から隔絶された鏡のようだった。

空も、森も、なにも映さない。


足元には、いくつもの足跡が残っていた。

だが、どれも湖へ向かって消えていて、戻ってきた跡はひとつもなかった。


「ここは、“絶望の湖”。

渡ることも、泳ぐこともできません。

ただ、沈むだけ。

多くの者が、ここで静かに、消えていきました」


案内人の声は、今日だけ冷たく、遠かった。


マール君は、湖をじっと見つめた。


――そのとき。


湖の底で、何かが蠢いた。

手招きするように、影がうごめいていた。


それは、“誰か”ではなかった。


怒鳴られた声。突き放された言葉。

ぶつけられた感情、悪意、恐怖、自分の声。

誰かの涙――そして、自分の涙。


全てが濁流のように混ざり合い、湖の底に沈んでいた。


「ここは、自分が自分を弔う場所」


誰の声かはわからなかった。

けれど、その言葉だけが真実のように響いた。


マール君はその場に、静かに身を横たえた。

体が重い。指一本、動かせない。


魂そのものが、ここに根を張ってしまったようだった。


――そのとき、かすかな風が吹いた。


湖面がほんの少しだけ、揺れた。


そこに、淡く光が差す。


マール君は気づいた。

それは、“まだ語られていない物語の続き”だった。


誰かが、まだ自分の物語を、続きを、待ってくれている。

その想いが、一滴の光となって、湖の底に届いたのだ。


マール君は、ゆっくりと――立ち上がった。


歩けなかった。けれど、“立つ”ことはできた。


その夜、マール君は湖のほとりに、小さな火を灯した。

火は揺れ、ほんの少しだけ、また光を湖へ落とした。


それだけで、今夜は――十分だった。


つづく




☆現実パート


「……絶望の湖」の物語を読み終えた比奈は、そっと横を見た。


少年は、顔を伏せたまま、動かない。


次の瞬間――


ぽた、ぽた。


膝の上に落ちる涙、しゃくり上げる声が、静かに響いた。


「……ぼく、死にたいんです」


その言葉に、比奈の呼吸が止まった。

胸の奥がぎゅっと縮んで、言葉が出なかった。


「死にたいけど……怖くて、死ねないんです」


どうしてこの子がそんなことを思うようになったのか。

比奈には、何もわからなかった。


けれど――


この子が今、絶望の“湖”のほとりに立っていることだけは、痛いほど伝わった。


どう言えばいいかわからないまま、唇を結ぶ。

そして、ふっと言葉が漏れた。


「……マール君は、まだあなたの心の中にしかいないの。

だから、あなたが死んだら、マール君も死んじゃう。

マール君を……殺さないであげて」


少年の涙が止まる。


店内は、静寂に包まれていた。

外では、止んでいた雨がまた降り始めたらしい。

静かな雨音が、ふたりの間を満たす。


その静けさを破ったのは、がさり――という袋の音。


カウンターの奥から、あの不愛想な店主が現れた。

無言でポテトチップスの袋とコーラをテーブルに置く。


「……食え。俺は、辛いとき、いつもこれを食って乗り越えるんだ」


少年は、涙に濡れた顔を上げ、頭を下げた。


「……ありがとう……ございます」


「学校とか、警察とか、児相とか――必要なら俺が連絡してやる。

ついて行ってもいい。親も教師も頼りにならないんだろう?」


「……大丈夫です」


円は、もう一度、深く頭を下げた。


そして、ポテトチップスの袋を開け、少しずつ口に運んだ。

涙を拭かずに、そのまま、静かに――食べ続けた。


比奈と店主は顔を見合わせ、言葉もなく、うなずき合った。


外では、雨が激しさを増していた。



つづく



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