【第9話】「父との溝」
路地裏に、古い民家がぽつんと建っていた。 それは、俺が中学まで暮らしていた家だった。
薄暗い玄関、軋む床、冷たい空気。思い出すのは、あの頃の窮屈な日々。
(……俺はこの家を、嫌っていた)
リビングに入ると、父が座っていた。背筋を伸ばし、新聞を広げたまま、顔も上げずに言う。
「今さら何の用だ?」
この声、この空気。言葉を交わすたびに、火花が散るような関係だった。
「ただ、顔を見に来ただけだよ」
「ふん。お前がそうやって“普通”を装う時は、だいたい何かあるときだ」
父は昔から、感情をあらわにしない人だった。 褒めることもなければ、慰めることもなかった。 そのくせ、勉強が足りない、姿勢が悪い、口の利き方がなってない――。俺に対しては、ダメ出しばかりだった。
(分かってくれない、って思ってた)
(期待されたくないのに、期待されて。俺はもう、疲れてたんだ)
気がつけば、喧嘩ばかりして、家に帰らなくなった。
「お前はいつもそうだ。話す前から決めつけて、全部わかった顔をする」
「そっちこそだよ。言葉じゃなくて、圧でコントロールしようとしてただろ」
一瞬、空気が張りつめる。 どちらも怒鳴らない。けれど、その分だけ、沈黙が深く刺さった。
「……俺だって、分かってもらいたかったよ」
「そんなの、こっちだって同じだ」
ぶつかるたびに、「どうせ無理だ」と思ってきた。 でも、それでも――今ここにいるのは、心のどこかで、父ともう一度だけ向き合いたかったからだ。
「もう、分かりあえなくてもいい。完全に理解しあえなくてもいいって……思うようになった」
父はゆっくりと新聞をたたんで、ようやくこちらを見た。 その目に、ほんのわずかだけ、寂しさが浮かんでいた。
「……そうか」
「違うままでも家族。それでいいよな」
「お前、いつのまにそんな顔するようになったんだ」
父が、不器用に笑った。 その笑顔を、俺は初めてちゃんと見た気がした。
その瞬間、部屋の空気がふっとやわらぎ、壁の時計が柔らかく時を刻み始めた。
《修復完了》《修復率:72%》
めもりんが、ほっとしたように呟いた。
「お互い完全に理解できなくても許容できること。それが、大人になるってことかもしれないね」
俺は、父の背中に小さくつぶやいた。
(ありがとう。)