アズマイラ男爵夫人は好きな男にやさしくするほど素直じゃない
──あっ、この子、フラれたんだ!
と、一瞬でわかった。
あの第五王女と会って、拒絶されたか何かして落ち込んでる。
そしてそれをわたくしに気づかれないようにしてる!
そこまでが、帰城のあいさつにやってきたジャジャ・イバラートの顔を見るなり手にとるようにわかった。
アズマイラ・ドルパンティス男爵夫人は思わず前のめりになる。
この国の王が彼女になんの相談もなく、ジャジャを自分の近侍としてロンバルド王国へ連れていったのはもう、ひと月以上前のことだ。
その事実にも、それにまつわるいろいろな出来事にもいちいちムカつき、冷え固まったように気が滅入っていたことも忘れて、彼女は紫の瞳をらんらんと輝かせる。
無意識に背筋が伸びる。音をたてて全身に血液が巡りだすのがわかる。
──フラれたんだわ、絶対そうだ。
彼女は腹筋だけで静かに笑いながら、にやけてしまう顔の下半分を隠すために、置いてあったお茶を口にした。
グリーンオレンジのジャムをたっぷり入れたお茶は爽やかに甘くておいしかったが、彼女は味などそっちのけでこれからの段取りを考えていた。
見た目には、優美にお茶をたしなんでいるようにしか見えないが、今、彼女の頭蓋の内側では目まぐるしくあれやこれやが巡っている。
しばしの沈黙があったのち、彼女はゆっくりとカップをソーサーに戻してから言った。
「ジャジャ」
「はい」
「お前、飲むのを少しつきあいなさい」
「……あ、はい」
彼は拍子抜けしたようにそう答えた。
どれほどの不機嫌が待ち構えているかと覚悟してきたのに、そうではなかったことに肩透かしの気分なのだろう。
(でも、甘いわ)
アズマイラ男爵夫人はそう思った。
彼女は、自他ともに認める根に持つタイプの女性である。そして、状況が多少変わったところで相手への恨みつらみを忘れなかったから、今この地位に座っているのである。
そして、思ってもいないことを口にするのにかけて、彼女はプロだ。
というより、一介の娼婦だった時代から、そういうことができなくては生き残ってこられなかったのであり、そうでなければ今、王の寵姫などという女の頂点には立っていないのである。
──飲ませて、聞きだす。
これが、お茶を飲んでいるわずかな間に彼女が出した結論だった。
ほどなくして場が整えられ、シナモンとバターの酒を侍女が運んできた。
肌寒くなり始めた季節にふさわしく、温かい酒だ。
「うわ……これ、なんですか」
こっくりとした濃茶色の酒は見るからに甘ったるいのかと思われたが、一口飲んでみたジャジャは目を見開いて感嘆した。
「おいしいです。こんなの飲んだことないです」
「そう? よかったわ」
自分も同じものを飲みながらアズマイラは言う。
「冷めると風味が落ちるから、温かいうちに飲むのがコツと言えばコツね」
そう言いながら小さなゴブレットを一気にあけてみせると、正面に座っているジャジャもそれに習った。
喉を滑り降りる液体の熱さと、それを追いかけてやってくるバターの香り。
ジャジャが思わずと言ったように吐息をつく。
「甘すぎなくて……香り高くて、こんなにおいしい酒を飲んだのは初めてかもしれません」
「夏の終わりに出入りの商人が持ってきたのよ。試飲してこれが一番おいしかった」
「それでは美味しいのも道理ですねえ……」
まあ、かなり強いけどね。
とは、もちろん言わなかったけれど。
2杯、3杯、そして4杯。
シナモンとバターの酒はほのかな塩気があとを引いて飲み飽きず、ジャジャが気づかないうちに酔いはひたひたと忍び寄ってきていた。
「この秋はこれをメインで飲もうと思って多めに買ったの。いい選択でしょう」
「いいですね……」
「お前も長旅で疲れたわね。温かいお酒ってリラックスするのに良いみたいよ」
「いやもう、僕はもう……」
さまざまなテクニックを残酷なほど駆使されているのをジャジャは知らない。
彼女が、出せるなかで一番やわらかい声を選んでいることも。
深く考えなくても返事しやすい話し方をされていることも。
色気と毒気をいっとき封印し、なけなしの母性を最大出力にしていることも。
「手の甲にキスとか、ふざけてますよね!」
そんなプロの手練手管に叶うわけもなく、はじめはお相伴のつもりで飲んでいたジャジャはいつしか大きな声を出していた。
「僕ですらしたことないですよ、あんなこと。近衛のこの僕ですら!」
うんうん、とアズマイラは受容と共感の相槌を打つ。
「そうよねえ、今どきそんな儀礼ぶったこと誰もしないわねえ」
「そうなんです、しかもあの人はなんだかんだ、頼られるとほっとけない人なんです!」
「うんうん」
「あのラプラがそこにつけこんで、なし崩しにそばにいようとか、あわよくば今いる場所から連れ出してもらおうとか!」
ジャジャがくーっとゴブレットをからにしたタイミングで、侍女が新しい湯気のたつのを運んでくる。
「そんなこと、考えてない保証がどこにあります!?」
「そうよねえ」
同じ量を飲んでいるはずなのに、アズマイラのほうはびた一ミリも酔っていない。あったことをすべて吐き出させるという目的があるからだ。
そして、ここまでのジャジャの発言で、アズマイラは大体のことが把握できてしまっていた。
すなわち、ヘイゼルがロンバルド王国に滞在中、ラプラの少年が傍仕えかなにかとして配置されたこと。その少年がヘイゼルを気に入ってアプローチする様子を、ジャジャは物陰から見ているしかできなかったことなどを。
──平たく言うと嫉妬ね。男の嫉妬。
そう結論づけながら、アズマイラは物わかりのよい声を出す。
「そんな、昨日今日知り合いました、みたいな子に取って代わられたら誰だってムカつくわねえ」
「そうでしょう!?」
腹から声を出して、ジャジャはまたゴブレットをからにする。侍女がまた次を持ってくる。
「あんな脳みそ筋肉にはわからないだろうけど、あんなのただ、子どもらしさを演じてるだけです!!」
脳みそ筋肉というのが誰を指すのかアズマイラにはよくわからなかったが、とりあえず相槌を打っておいた。
「そうねえ」
「……あれっ、ええと」
「なあに?」
妙にふわふわした頭の隅で、どうしてこんなに思ったことを全部言ってるんだろう? とジャジャは一瞬思ったが、一瞬だけだった。
強い心地よさにあらがえず、つかの間浮かんだ正気が遥か向こうに押し流されていく。
何を言っても受け止めてもらえるという安心感。
ひたすら自分のことについて話題にしてもらえる満足感。
この人やっぱりすごいなあ、という思いがじわじわと浮かんでくる。
(そうだよ、王の寵姫になるというのはやっぱりひとかどの人物だからなんだよ……)
だが、ジャジャが幸せな気分でいられたのはそのあたりまでだった。
翌朝からは、容赦ない無茶ぶりが待っていたのである。
◇◇◇
「りんごとクリームのタルトを作ってきて」
「えっ?」
聞き間違いだろうかとジャジャが声をあげたが、アズマイラ男爵夫人はこちらを見もせずにとげとげしい声を出した。
「お前に言ったのだからお前が作るのよ。クリームは多めで。りんごはシャキシャキ感を残して」
「あ、はい……」
首をひねりながらその場を退出して、それでも調理場を借りて作ったタルトをお茶の時間に持っていくと、一口食べるなりアズマイラはブチ切れた。
「なんでおいしいのよっ」
いつものキレの良い口調だった。
一口食べただけでもう手もつけず、あげくに細いフォークまで投げつけられて、ジャジャはようやく気がついた。
昨日のあれはなにかの夢だったのだ。現実はこっちだ。
要するに、できないことをわざとやらせる嫌がらせなのだ。
まあ、こういうことになるとは思っていた、ちょっとタイミングがずれただけのことだ、と自分で自分を納得させてジャジャがため息をついたのもつかの間、無茶ぶりは次々にやってきた。
「恋文の返事、お前が書きなさい」
「ええっ」
トレイにうずたかく溜まっている手紙を読みはじめて、ジャジャはすぐに申し訳なさそうな顔になった。
「こんな手紙を毎日受け取っているんですか?」
「そうだけど?」
「どれも、下心しかないじゃないですか……男性を代表して僕が謝っておいたほうがいいですか?」
「いいから書きなさいよ。女になりきって書くのよ」
「はい……」
試しに一通書かせてみたのを一瞥して、アズマイラ男爵夫人は細い眉をしかめた。
むう……、うちの侍女よりあしらいがうまい。
しかも筆跡まで似せてある。
そう一瞬で見てとるのを、ジャジャがあきらめたような達観顔で口をはさむ。
「あの……うまくやったのに嫌な顔するのはやめてもらってもいいでしょうか?」
「うるさいわねっ」
◇◇◇
さて。そんなこんなで、今日も宵闇の時刻がやってくる。
日が沈み、薄暗くなってくると、アズマイラはわけもなく悲しくなるのが常だった。
と同時に、妙な安心感もある。
今ここが自分の居場所だと胸を張って言いたいような、地に足の着いた安心感だ。
そのくせ泣きたい気分もあって、それらが交互にやってくるものだから、いつもならあまり好きな時間ではないのだが、今日の彼女は機嫌よく思い出し笑いを浮かべていた。
うふふ、くすくす。
うっふっふ、くすくすくす。
おさえきれない笑いを扇の内側に隠す。
今日は、出てくる時にいやがらせをひとつ思いついて、ジャジャに髪を結わせてみたのだ。
言った瞬間、ジャジャは初めて見せる顔をした。
ぐっと詰まって真顔になったのだ。
ぴんときたアズマイラはその場で幾度も飛び跳ねて、鬼が歌うように高らかに快哉を叫んだ。
「やったああ、わたくし勝ったわ!」
「勝つとか負けるとかないでしょうが!」
ジャジャはついうっかり言い返してしまってから、はっと気づいて言い直した。
「いや、やりますよ。やりますけど……」
「ぐって言った! この子ぐって言ったわ!」
「女性の髪なんて結えませんし、それにこれから夜会でしょう」
「あああ、やったわ、やった、できないんだ!」
「今日は陛下もいらっしゃる予定ですし……」
尋常に返そうとするジャジャに、アズマイラは笑顔で指を突きつけた。
「ここまでなんでもできるくせに、一番大事な相手に捨てられてかわいそうに!」
「うわなんてこと……性格悪いですよね? そして根っから意地悪が好きですよね?」
「そうよ!」
ひるみもせず、打ち返すようにアズマイラは言う。
「わたくしが性格悪いのわかってるくせに、わたくしの前で弱みを出すからいけないんじゃないの! お前が悪い!」
「はいはいそうですね!」
嬉々として言う彼女にジャジャもやけになったように返し、そんなふたりのやりとりを侍女たちがぽかんとして見ていた。
そして結いあがった髪はというと、もちろんいつもよりはるかに劣る出来栄えだったのだが、アズマイラはしれっとそのまま夜会へ向かったので、あとには両手で顔を覆って落ち込んだジャジャが残されたのだった。
──ああ楽しかった。あああ、楽しかった。
そして今、夜会の中心でアズマイラの足取りは軽い。
今日の彼女は、発光するようなしっとり肌といい、紫の地に明るいブルーと紅紫の模様のドレスといい、香水の匂いも、ドレスからのぞく豊かな胸のふくらみも、髪以外は完璧である。
夜会の参加者の中には、そのいつにないアンバランスさに気づいて目線を向けるものもいるのだが、アズマイラは上機嫌だ。
今日の髪形は、細い三つ編みを頭のまわりにぐるっとまわして、おろした毛先の部分だけをコテで巻いた清楚な形である。
なんだかんだでやらせてみたらできるのがムカつくが、それならそれで今後の楽しみが増えるというものだ。
あまりにも機嫌のいい彼女に、隣にいた王が目を止めた。
「今日のお前は実に……美しいな」
ほめ言葉のバリエーションが貧しい人だこと、と思いながらアズマイラはにっこりする。
「頼りになる男がそばにおりますので」
息をするようにおべっかを言うと、王はまんざらでもなさそうに「まぁな」と言った。
ちょろい。この男のツボは既に掌握済みである。
「ご用向きは、首尾よくお済みになりましたの?」
ロンバルド王国でのことに水を向けてやると、王は待っていたようにあれやこれやとしゃべりだした。
やはり相当あの国で鬱屈が溜まっていたのだろう。
「あの国はなにかと厄介ですものね」
「その通りだ」
ここは寵姫として、ひと通りの愚痴は吐き出させてやらねばなるまいと思いながら、彼女は王が話すのをうんうんと聞く。
王が自国の財力をエサにあの国に招かれ、相手の策に乗ったふりをしつつ、弱みのひとつも見つけようとしていたことをアズマイラは知っている。
鬱屈を溜めているということは、それがうまくいかなかったということなのだろう。もとより、際立って外交が上手な王ではない。
アズマイラが聞いていると、王は不満だの愚痴だのをとめどもなく吐き出し続けている。
「庶子の王子にも近づいてみたが、あれは国王以上に面倒な若者だな」
「まあ、そうですの」
「そのカルマ王子をうちに遊学させたいと言われてな。断るのもおかしいので即答したが……正直言ってあの若者を引き受けるのは気が進まん。なにが目的かまるで読めんし」
「あらあら……」
「黙っていてもあの王子の悪評判は聞こえてくるし、引き受けるとなると国内の声も無視できん。この件、向こうから断ってくれるといいのだが……」
そこでうまい保留というか、あいまいな玉虫色の返答ができないからいけないのでしょう、とは、アズマイラは言わなかった。
だがそろそろこれも聞き飽きてきたし、いかに王家主催の夜会とはいえ、招かれている貴族たちのすべてが王に恭順なわけでもない。
このへんで、王にはこのぐちぐちした発言を終わりにしてもらいたかった。
アズマイラは少し考えて言葉を選ぶ。
「今、こうして話しているということが、まだ時間に余裕がある証拠ではありませんか。そして時間に余裕があるということは、打つ手はなにかしらあるということ」
王がはっとしたのが空気でわかった。すかさずたたみかける。
「そして、陛下にはわたくしがついておりますわ」
声の出し方、所作、目線ひとつに至るまで、すべてが美しい。
美しい中にも自信と強さが垣間見えて、王はむしろそちらの方に目が吸い寄せられたようだった。しばらくアズマイラを見つめたのち、このように感想した。
「そなたは、さすがだな」
「陛下の寵姫ですもの」
「そなたを選んで正解だった……」
「おそれいりますわ」
よし。フォローも完璧だわと自画自賛しながら、アズマイラは別のことを考えた。
よその国の、来るか来ないかわからない王子のことなど、とりあえずはどうでもよい。
今考えているのは、ジャジャを捨てたらしいヘイゼル・ファナティック第五王女のことだ。
(あの子の、一体なにがどう不満だっていうの)
アズマイラ男爵夫人は扇の内側でひっそりと感情を研ぎすます。
あんなにも、すべてをそつなくこなすジャジャである。アズマイラに対してでさえこうなのだから、愛する女にはいかほどの奉仕をするか想像もつかない。
それを、あの娘は捨てたのである。
今のこの思いを決して忘れないよう、アズマイラは華やかな夜会の中心でひとり感情を反芻する。
(──許さないわ)
暗くて固い、矢じりのように研ぎあがるまで。