「北斗の拳 修羅の国編」についての考察
かつてジャンプ黄金期と言われる時代に連載され、その迫力の画風と魅力的なキャラ・世界観から大人気となった漫画「北斗の拳」
それはかつての少年達の心を熱くし、そして現代でもなお派生作品が作られ我々に感動と笑いを与えてくれている。
そんな北斗の拳であるが、この漫画の時期的な区分は大きく2つに分けられる。
それは「ラオウ昇天まで」と「ラオウ昇天後」である。
これはあくまで読者視点からの非公式な区分ではあるが、殆どの人はそういう認識でもって読んでいるだろう。
(なおウィキペディアには第一部、第二部、終章という区分けが記載されているが、公式サイトやコミックスではそういった区分があるとは確認できなかった。もし連載時や別の媒体で公式に区分されていたのであれば知識不足で申し訳ない)
ともかく、仮称として前者を「第一部」、後者を「第二部」とすると、一般的な北斗の拳という作品への印象は第一部が殆どを占めるだろう。
ラオウ、シン、サウザーといった強敵達、トキやレイ、ジュウザのような味方でもありライバルでもある拳士達、ジャギ、アミバ、ハート様などの脇を彩る個性豊かなキャラ群。
それに加えて数々の名勝負や生き様・死に様、そして伝説的なケンシロウとラオウの最終決戦。
間違いなく人気を比べれば第一部の方に軍配が上がるだろう。
第二部はというと、勿論個性的なキャラや名エピソードも少なくないのだが、どうしても第一部ありき、ラオウありきの見方をされてしまう部分も大きい。
賛否両論と言われるのもやむを得ないと私自身も思うことはある。
その第二部の中でも第一部と大きな関わりがあるのが「修羅の国編」である。
このエピソードもまた賛否両論な部分があり、自分としてもそれは分かるのだが、個人的には第一部に劣らず強く感情を揺さぶられたエピソードでもある。
そこで今回はこの「修羅の国編」の意義について私見を述べてみたいと思う。
まず、修羅の国編の大きな流れは以下のようになる。
1 さらわれたリンを救うため、ほぼ単身で修羅の国に乗り込む。
2 羅将ハンを倒し一度はリンを救うが、更なる宿命の敵の存在を知る。
3 羅将カイオウと遭遇し敗北、リンも連れ去られる。(カイオウがラオウ・トキの実兄だと明らかになる)
4 シャチに救助されて再起、ケンシロウの実兄である羅将ヒョウと対決した末にヒョウの記憶が戻り、カイオウ打倒の秘拳を会得することに。
5 北斗宗家の秘拳を得てカイオウと対決、撃破。カイオウは既に致命傷を負っていたヒョウとともに溶岩に消える。
この中で細かい賛否両論部分を挙げていくと切りがない。
ケンシロウやラオウ・トキの出自が第一部と矛盾する。ラオウが英雄として過剰にいい人にされている。後付けで兄弟を出しすぎ。敵であるカイオウやヒョウのキャラがマザコンだったり軟弱だったりと小物感がする。などなど……。
また、この修羅の国編がまるまるカットされたとしても最終章には影響がない。
そもそも第二部全体として「第一部のエピローグ」感が漂っており一貫性が薄い事も否めないが、それにしてもこの編は単体で完結しすぎである。
「北斗琉拳」「北斗宗家の因縁」「ケンシロウやラオウの実兄」などの主要要素はこの編で初めて出てきて全て編内で完結してしまう。
そのため色々と唐突感が出てしまっている。
他にも、戦闘描写が手も触れずに岩を投げるなどもはや超能力バトルの領域に入っているのも賛否は分かれるだろう。
このように多くの問題点を抱えたエピソードではあるが、それでも私は何故か惹かれるものを感じていた。
何故だろう?
初めてこれを読んでから10年近く経って改めてそれを考えてみると、以下がその要因であり、また修羅の国編の一つの意義ではないかと思う。
「人間カイオウ・ヒョウの苦悩と救い」
「上記による間接的な、人間ラオウ・トキの救済と和解」
何故そう感じたのか述べよう。
まずはカイオウというキャラクターについて。
カイオウの外見はラオウとそっくり……とまでは行かないと思うがそれなりに似ており、作中でも似ている扱いである。
そしてカイオウはラオウと比べ、人間的な感情の描写が目立つ。
カイオウは幼少の頃からヒョウの従者として抑圧され、屈辱を与えられた事に反発や嫉妬を強く見せている。
そして何より、カイオウの母は赤子のケンシロウとヒョウを救うために命を落としており、その事が悪に身を染める決定的な要因となっている。
母を奪われたカイオウは愛を失い、自らの身を傷つけて心の痛みを誤魔化し、積極的に悪と自称する事で哀しみから目を逸らしてきた。
しかしケンシロウとの対決の最後には母に縋り、最後の一撃の力を願った。
そして敗れた後は憑き物が落ちたように笑い、駆け付けたヒョウに「幼き日に戻って共に遊ぼう」とまで言って涙し、和解した。
カイオウは本来は情が深い人物であり、家族への愛情とヒョウへの友情を持っていた事は明白だ。
ラオウは初期は割と普通の悪役っぽいムーブをしていたが、次第に「拳王」としてのキャラを確立して偉大なる帝王・偉大なる長兄と称えられるのに対し、カイオウはエピソードが進む毎に等身大の人間としての感情が現れてくる。二者は対照的とも言える。
これをもって、「小物っぽい」と言うことは簡単だ。
実際にラオウ程の人気は無いし、超然としたキャラでもない。
逆にラオウのような偉大な帝王的なキャラにしてしまうと、それこそ第一部の焼き直しにしかならないため、あえてそうしたのかも知れない。
ともかくも、ラオウに似ていながらも『人間としての感情をストレートに表現した』のがカイオウなのではないかと思う。
次にヒョウについて。
ヒョウはケンシロウの実兄である。
しかし、どうにもこれは居心地の悪い設定だ。なぜならケンシロウの兄といえば血縁ではないがラオウとトキ(一応ジャギも)が第一部で出ており、設定被りしている。
更に弟のケンシロウと比べるとカイオウに手玉に取られ、勘違いからケンシロウと敵対し、洗脳が解けた後もカイオウへの負い目を感じているなど、「弱さ」が強く出ているのではないかと感じる。
正直、ストーリー的にはケンシロウの実兄を出す必要があるかと言われるとそうでもない。
ストーリー上のヒョウの役割はケンシロウに宗家の秘拳の場所を伝えるというものであるが、それは実兄という設定ではなくても特に問題は無い。単にいい人だったけどカイオウに洗脳されてました、でも済む。
またケンシロウがカイオウに敗れた後救い出すのはシャチであり、宗家の秘拳を狙うカイオウを退けるのもシャチである。そこまでいくと秘拳の場所を伝える役割もシャチで十分ではないかと思う。
一応、カイオウが実力的には上なのに過去に従者扱いされて屈辱を与えられたりしたのはヒョウが宗家の人間だったからだが、「実兄」というラオウ達と被る設定でなくても従兄弟とかでも良かったのではないか。
そう考えると、被りを起してまで実兄という設定にしたのは、それだけケンシロウと近い存在であるという印象を与えたかったからではないだろうか。
従兄弟程度ではインパクトが弱い。カイオウとラオウの関係と対にして強調したかったのではないか。
まとめるとヒョウとは『ケンシロウとごく近い存在であり、かつ人間的な負い目や弱さをもった存在』ではないかと思う。
最後にカイオウとヒョウの関係、そしてラオウ・トキとの関連について。
結論から述べると、カイオウとヒョウとの関係とは、「拳王や偉大な兄ではない人間ラオウ・トキ」と「救世主ではない人間ケンシロウ」の関係を暗に示しているのではないだろうか。
第一部にてケンシロウを導き、あるいは強敵として立ち塞がったラオウ・トキであるが、彼らは確かに満足し、後を託して死んでいった。
しかし人間として考えるならどれほど無念であっただろう。
彼らは北斗神拳伝承者になれる十分な実力がありながら、実際に伝承者となったのはケンシロウだった。
彼らは二人ともユリアに想いを寄せていたが、それは成就しなかった。ユリアを得たのはケンシロウだった。
ラオウは最終的にケンシロウに敗れて覇者にはなれず、トキはそれ以前にラオウに敗れて誓いは果たせなかった。勝者はケンシロウだった。
結果だけ考えれば、彼らは全てにおいてケンシロウに上回られて望んだものを得られなかった。
それに対して恨み言も言わず、弟を称えて死んでいったからこそ見事な最後だと称えられたのだとしてもだ。
理性と意志で抑えていただけで、きっとその心中にはケンシロウへの恨みや嫉妬もあったことだろう。
逆にケンシロウにも、そうなってしまった事への負い目はあっただろう。
それを端的に表したのが、カイオウとヒョウの関係だったのではないかと思う。
ケンシロウ、ラオウ、トキは物語上も、また読者に対しても英雄でなければならなかったため、高潔で綺麗なままにしなければならなかった。
だからこそカイオウとヒョウという象徴をもって間接的に表したのではないか。
カイオウとはラオウの人間としての部分の叫び、ヒョウとはケンシロウに近い存在であり、人間としての負い目や弱さの表れ。
愛した女(ユリア:カイオウの母)を奪われ、栄光(伝承者の地位:尊厳と評価)を奪われたカイオウ
それらを奪ったという自覚があるヒョウ
そしてその二人が人間としての想いを吐露し、恨みや負い目を吐き出した。
最後にはヒョウはカイオウに「この軟弱な弟を許してくれ」と謝罪し、カイオウは愛を取り戻して「幼き日に戻ってともに遊ぼう」とヒョウとの純粋な友情を肯定した。
主人公という立場上それが出来ないケンシロウと、英雄に祭り上げられてしまったためイメージを崩せないラオウの代わりとして……。
以上の事から、私が修羅の国編に対して多くの問題点があると感じながらも感情を揺さぶられる理由、そして修羅の国編の意義とは
『カイオウとヒョウの関係を通して、間接的にラオウ・トキ・ケンシロウ兄弟の真の和解を表現した』
事にあるのではないかと思う。
これで私見は終わるが、もし「ラオウ編」以降を読んでいない人がいれば是非読破して欲しいと思う。
分かりやすい英雄の物語ばかりではないが、きっと心に残るものがあるだろう。