7 白蘭
その頃、フロルは深い深い眠りのなかにいた。
そこはあの神殿の裏にそびえる大樹の下だった。
あの頃はまだ、あの神殿も大樹も、地面の上にしっかりと建っていたのだ。
日は暮れて、辺りはひっそりと闇に沈んでいた。こうこうと神殿に灯された明かりが外に漏れ出て、大樹の根元にはほんのりとほの暗い空間ができあがっていた。
フロルは泣いていた。悔しくて悔しくて、泣いていた。大きな樹の幹の影で小さな背中をさらに小さく丸めて、たったひとりで泣いていた。
彼女が着ている真っ白な神官服は、長衣のように裾が長い。裸足で、神殿から飛び出してきたのか、その真っ白な服は夜露に濡れ、土や草の葉で少し汚れていた。
零れ落ちた涙の中からちょうど手のひらに乗るくらいの、小さいサイズの青泪が姿を現した。
「フィル?またここに来てたのね。…大神官にまた怒られたの?」
青泪はフロルをフィルと呼び、心配そうに覗きこむ。
「ううん。私、やっぱりだめなの。できないよ。帝妃になって、青泪達を統べるなんて。」
フロルはフィルと呼ばれたことに何の違和感もなく、ふるふると頭を振る。
「青泪やみんなと友達でいちゃいけないって、セイン大神官はそう言うの。小さいころからずっと励ましてくれてた青泪や他の精霊達を支配するなんて…」
セイン大神官は40代半ばの、ユーラシア神殿の全てを取り仕切る神官の筆頭である。
目鼻立ちのハッキリした迫力のある美人だが、なぜだか独身を通している。
神殿に祭祀されているのが女神のために、男子禁制であることから、神官は全て女性である。
女性でないといけないことはないのだが、不思議なことに女性の神官しか現れないのである。そのなかから、特殊な資質を持つ者が精霊を統べる者、精霊使いとなるべく選び出されるのであった。
通例であれば、精霊使いは大神官が兼任している。だが今回の場合は特例として、条件があった。
『精霊使いの資質を持ち、なおかつ帝妃候補として相応しい娘を集めよ』
その結果、選ばれたのがフィルであった。
精霊の申し子と言われ、その才覚を見こまれて、僅か6歳で神殿へ仕えることになったフィルは、12歳になったある日、突然に帝妃候補にと望まれた。そして親元から離され、この帝都にあるユーラシア神殿へ連れてこられ、目下、修行中の身の上なのである。
「フィル…」
青泪はその精霊達の中でも、もっともフィルと親しい精霊で、彼女にとっては物心ついた頃からそばにいる、幼なじみのような存在でもあった。
幼い頃より、精霊の声を聞き、精霊達の方も実体化してまでフィルのそばにいることを好んだ。
手の平の上の青泪は、フィルの腕を伝って肩へと移り、彼女の頬にかかる金の髪をそっとかきあげて、心配そうに覗きこむ。
「…そんなの嫌だよ…」
フィルはそう言うと、膝を抱えてさらにまん丸になる。
「…あのね、フィル。どうしてフィルが帝妃に選ばれたか、考えたことはある?」
青泪はフィルを励ましたくて、努めて明るく言った。
「え?どうしてって…?ユーラシア様に似てるから?…じゃないの?」
フィルは、涙で濡れた顔を上げる。
「そうね。それもあるけど、似てればいいってものじゃないことは、わかってるよね?
じゃあ、どうしてフィルなんだと思う?」
「わからない…」
しばらく考えこんで、ふるふると頭を振る。
「私達があなたを気に入ってるからよ。私達はあなたに、私達を統べる存在になってもらいたいの。あなたが好きだから。あなた以外の帝妃なら、私達は言うこと聞かないわね、きっと。そのくらい、あなたは精霊達に好かれてるの。…だから大神官は期待しすぎて、きついこと言っちゃうんでしょうね。安心して。私が奴をいぢめといてあげるから。」
青泪がそう言うと、フィルは少しだけ笑った。
「あ、でも…セイン様にはお世話になってるから、やっぱりあんまり意地悪はしないで。」
フィルがそう言うと、二人は顔を合わせてくすくすと笑った。
「…なんの相談だい?」
そのとき突然、空から声が降ってきた。
銀の髪を持つ、少年がフィルのすぐ後ろに立っている。
フィルよりも三つ年上で、帝妃教育の教官兼世話係の白蘭であった。
ダークグリーンの長衣に黒い外套を身にまとい、装飾品は何もつけていなかった。
「?今日は来ないのかと思ってた。」
フィルの顔がぱっと明るくなる。
「帝のお供をしていて、遅くなってしまった。すまない、フィル。」
着替えもせずに取って返してきたのだろうか。長衣の裾にはうっすらと土ぼこりがついたままであった。
青泪はそんな二人の様子を、微笑ましげに見つめていた。
「じゃあ、白蘭がいれば、もう大丈夫ね。私はこれで帰るからね。」
そう言うと、青泪はふわりと空気に溶けるように消えた。
「こんな水の無いところに彼女を呼び出したりして…」
青泪達は地球にいた頃はまだ、水さえあればどこにでも出現できた。
フィルに対してだけは、少々水が無くても無理を通すほど、精霊達は好んで彼女のそばにいたがった。だがそれは精霊達を無意味に消耗させるため、極力避けねばならないことであった。
そのことは、夕霧が新帝として即位が決まった頃から、特に厳しく言われるようになっていた。
フィルが地方の神殿にいた頃は許されたことも、ここ帝都の神殿ではそうはいかないことが、数え切れないほどあった。そのこともフィルを萎縮させる原因のひとつになっているということに、周囲の人々は全く気づいておらず、気づいているのはほんの一握りの精霊達のみであった。
「水ならあったよ。さっきまでは。青泪が来てくれたから、止まったけど…!」
そこまで言って、『しまった!』という顔をするフィル。
「…泣いてたのか?」
白蘭の顔が一瞬こわばったのを見て、慌てて言い訳をする。
「えっ?うっううん!違うよ!よだれがねっ…」
「……」
白蘭は疑り深げな目でフィルの瞳を覗きこむ。その眼は言外に『うそつけ!』と言っていた。
そんな彼の目線に耐えきれず、慌てて言い募ってしまうフィル。
「だっ、だからね、白…違うの。あのねっ…」
このところずっとそうなのだ。
“…言い訳ばっかり…”
“いつまでこんなのを続けるの…?”
“もう…これ以上、自分の気持ちをだまし続けるのは…”
心はそう叫ぶが、口をついて出た言葉は、心とは裏腹だった。
「大丈夫だから。心配しないで…白。私、頑張るから。」
想い惑い、焦がれる心を封じこめて、精一杯の笑顔を作る。そして、彼に笑ってみせた。
「そうか…さすがだなフィルは。」
そう言うと白蘭はふわりと微笑む。
“帝都へ独りぼっちで連れてこられ、寂しくて泣いてばかりだった私を…そばにて励ましてくれた”
“あなたが喜ぶ顔が見れるなら…”
“私はどんなことでも頑張れるよ。”
「…」
空に伸ばした手が不意に何かを掴む。
「…私、やっぱり…」
「フロル?」
フロルは今の名を呼ばれて、目を開けた。
そこにはさっきまで目の前にあったのと同じ銀色の髪と翠の瞳。
「白…」
ぼんやりと彼を呼ぶ。
「フィル?フィリシア?」
“今…私を白と呼んだ…?”
白蘭は自分を呼ぶ、その懐かしい響きに驚く。そして目を開けてはいるものの、彼の髪を掴んだまま、どこか遠い眼をしている彼女を覗き込んだ。彼女のその白い頬にそっと手を当ててみる。
「ああ…白蘭…私、眠ってたの…?」
ぼんやりと、意識を取り戻すフロル。
「…君は今、私を白と呼んだ。その呼び名で私を呼ぶのは、フィリシアだけだった。君はやはり彼女だ…精霊達の眼に、狂いは無かった。」
白蘭の目が気のせいか、潤んでいるように見える。
「?なに?何を言ってるの?白蘭?私、なにか言った?」
白蘭は一瞬哀しげに笑った後、そっと自分の髪を掴むフロルの手をはずした。その手を優しくそっと握ると、膝を折り彼女の手の甲にくちづけた。
まるで、女王に忠誠を誓う騎士のように。
「お帰り、フィル。このときを皆が待っていた。帝に至っては君がいなくなった時のまま、姿を留めてこのときを待っていた。気が遠くなるような時の流れの中を……」
だがその言葉とは裏腹に、さっきまでの白蘭の彼女を慈しむような表情は、ポーカーフェイスに隠されてしまっていた。
「何度も言うようだけど、私はフロルよ」
フロルはそんな白蘭の表情に、なぜか失望を覚えた。
「そうだね。君はフロルだ。…食事を持ってこさせよう。ここへ来てから何も食べていないだろう?」
「あ…そう言えば…」
部屋の隅の、小さなチェストの上の時計は午後の三時を指していた。フロルは朝食も昼食も取っていなかったことを思い出した。
白蘭は少し笑むと立ち上がり、部屋を出ていった。
「何考えてるんだか、よく分からない人…。だけど、時々どうしようもなく淋しい眼をしてるから…なんだか放っておけないのよね。」
フロルは独りつぶやいた。
程なく食事は、紅蘭と同じ年頃の少女が運んできた。食事は至ってシンプルな物だった。肉と野菜を煮込んだものと、薄く焼いたパンにフルーツが添えられていた。
食器類は木製だがきちんと作り込まれたものでできていて、全く損色の無いものであった。
だが、シンプルとはいえ、この空間でこれだけの物を用意しようと思えば、野菜や果物の栽培や家畜の養殖など、かなりの技術を要するはずだ。
フロルは気になって、食事を運んできた少女にいろいろと尋ねてみた。
どのくらいの規模か想像はつかないが、この施設(夕霧は船だと言った)には、居住区とは別に衣食住に必要な物を製造するエリアが存在するという。それに従事して賃金を得ているものもいるというのだ。そう、つまり、この船の中では通貨が存在し、農業や商業などの産業があるというのだ。
だがしかし、この閉塞した空間ではそう上手くはいかなかったらしく、今では足りない物を帝の命で作らせているのが現状のようだ。
その最たる原因が人口の減少であった。
気が遠くなるような時の流れの中で、いつしか子供は生まれなくなっていった。そして、もうこの船には数えるほどの人数しか残ってはいないという。
この限られた空間で、帰れぬ故郷を思い、滅びを待つだけの毎日。淋しくないはずがない。辛くはないはずはない。
そしてなによりも夕霧が見せたあの涙こそが、動かしがたい真実のように思えて、フロルはいたたまれない気持ちでその食事に手をつけた。
「…いただきます。」
少女はそんなフロルの様子を不思議そうに眺めやってから、部屋を出ていった。
そのころ、エリオット達も同じように食事を囲んでいた。
「とりあえずは飢え死にさせるつもりではないようだな。」
エリオットはパンをつまみあげて、しげしげと眺め、匂いを嗅いだり、ちぎってみたりしてから、ようやく口へと放りこむ。
「しかし、火星でこんな食事にありつけるとはな…」
教授はただただ感心している。
「ほんとにここって火星なのかなって、時々僕、今自分がどこにいるのか忘れちゃいますよ。」
あっけらかんと言ってのけるラス。
「のんきだな、お前。」
エンジニア達はそう言うとラスの頭を小突いた。
彼らは先に拉致されていたために、当然ここでの滞在日数は長い。この待遇の変化に、戸惑いは隠せなかった。
「焦ったって仕方ないでしょ?まずは腹ごしらえですよ。意外とおいしいですよ。これ。」
そう言って煮込み料理を口にほお張る。
「俺らはもう食い飽きたぞ。」
エンジニアの二人が同時に突っ込む。
「げっ!もしかしてメニューってこれだけ?」
ラスはあからさまにがっかりしている。
彼の存在のおかげで、囚われの身という割には空気は和んでいた。そんな三人のやり取りをよそに、もくもくと食事を口に運ぶエリオット。
「教授。俺、これ食ったらちょっとその辺りを探索していいですか?」
もう食器のほとんどが空になったエリオットが言う。
「ああ。かまわんが、単独行動は避けてくれたまえ。なにがあるかわからないのだからな。」
教授は止めても聞きそうにないエリオットに、仕方なく許可を出した。
「わかりました。」
エリオットは、怖いくらい真剣な顔で頷く。
「じゃあ、僕がお供しますよ。いい加減退屈してたところだし。」
はいはいと手を挙げるラス。
「公園へ遊びに行くわけじゃないんだぞ。装備も全部奪われてるんだ。こっちは丸腰なんだぞ。お前、腕には自信あるんだろうな?」
エリオットがラスをにらむ。
「?僕ですか?ありますよ。空手習ってましたし。」
Tシャツの袖をまくってみせる。そこには心もとない力こぶが現る。
「ならいいが。」
エリオットはそんなラスを一瞥すると、熱のこもらない声で言った。
“い、いいのかっ?”
“オイっ!”
と突っ込みたくなる気持ちを、ぐっとこらえているのはエンジニアの二人。
「そういうエリオットは?」
「……」
ラスの命知らずな発言に、エリオットは殺気を漲らせてラスを睨みつけていた。
「エリオットは子供のころからケンカにだけは負けたことはないよ。」
横から教授が助け舟を出す。
「じゃ、じゃあ、僕らが組めば無敵ですねっ」
「…どうだか。みんなまとめて捕まったんだ。普通にやりあって勝てる相手だとは思えんがな。」
開き直るラスをあっさり否定し、食器をひとまとめにするエリオット。
ともあれ、二人は部屋を出て辺りをうろついて見ることにした。
「青泪。」
そのころ白蘭は聖域にいた。波打ち際、桟橋のたもとに跪き、足元の水に向かって静かに呼びかける。
「青泪。いるのは分かってるんだ。姿を現してくれ。」
「…なによ?」
青泪は白蘭から数m離れた水面に現れた。
白蘭は立ち上がるとおもむろに口を開いた。
「フロルになにをしたんだ?」
彼の瞳に鈍く怒りの色が浮かんでいる。
「なにも。ただ神殿へ入る為の禊の聖水に入らせただけよ。覚醒は彼女の意思だわ。そして今また、自ら記憶を封じこめたのもね。」
腕組みをしたまま、白蘭をまっすぐに見据えている青泪。
「…白蘭。あなたが彼女を大切に思う気持ちは、私達だって痛いほど知ってる。でも、大切に思うだけが彼女を本当に幸せにできると、あなたが今でも信じてるなら、私達がしてきたことの意味は無くなるわ。歴史を繰り返さないためにも…」
「…何が言いたい?お前達はいつもそうだ。そうやって訳の分からぬことを私に吹き込んで、一体、私に何をさせたいのだ?」
苛立ちを隠せないかのように、青泪の言葉を遮り、言い募る白蘭。
「白蘭…フロルの覚醒を、どうして素直に喜べないの?どうしてそんなに難しい顔をするの?」
青泪の水色の瞳には、哀れみにも似た色が浮かんでいる。
「…それは…」
彼女の問いに答えられず、目線をそらせる白蘭。
「また彼女がいなくなってしまうことを恐れているのね。でも妃になる彼女を見たくないとも思ってる。そうじゃないの?」
「!やめろ!それ以上は言うな!」
白蘭の顔に狼狽の色が浮かぶ。そんな彼を見て青泪は深いため息をひとつ落とす。
「…白蘭…どうしてフィルがいなくなったのかちゃんと考えたことはある?」
「…え?」
白蘭は質問の意図を計りかねたように、ぽかんとしている。
「…ちゃんと考えたことはある?」
青泪はじっと白蘭の目を見据えて、同じ問いをもう一度繰り返す。
「…それは…精霊を支配することに抵抗があったのと、帝妃という仕事の責任の重圧が…」
「まだそんなこと言ってるの?」
青泪はしどろもどろの白蘭の声を途中で遮り、水の上を滑るように移動したかと思うと、彼の目前へやってきた。そのままの勢いで彼の胸倉を掴んで持ち上げる。
「青泪?」
白蘭はあまりに突然のことに、びっくりして固まっている。
「…もっと貪欲になりなさい。自分に正直に。フィルには大いなる意思が伝わっていた。だけど、あなたはそれを聞き入れずに跳ね退けたのよ。あなたの意思の強さが、フィルを追い詰めたの。この世の中の出来事はすべて必然でできている。無駄なことなんてひとつもないのよ…」
青泪の瞳にうっすらと涙が浮かんでいる。
「あなたはもう少し自分を見つめたほうがいい。帝のため、一族のためにと働くように育てられたあなたには、酷な選択かもしれない。でもね、これは一族の為であって、あなたのためでもあるのよ…分かって欲しいのよ。」
彼女は白蘭の胸倉を掴んだまま、その瞳に浮かんだ涙をこらえるかのように、まばたきを繰り返している。
「……」
言葉を失う白蘭。
「神でさえも…時には間違いを犯すのよ…あなたの父上だって、例外じゃないの…」
青泪がそっと手を離すと、白蘭はその場に力なく座り込んだ。
偉大だった先帝の姿が、白蘭の脳裏に浮かぶ。
“を助けて良い国を作れ。よ。お前にはそれができる”
そう言って大きな手がまだ幼かった白蘭の頭をなでた。
「父上…」
白蘭はその場に座り込んだまま、小さな声でつぶやいた。
「青泪…教えてくれ。大いなる意思とは…?」
白蘭が問いかけた、その時だった。
背後で気配が動いた。
「誰か来たわ。」
青泪はそうささやくと水の中へ姿を消した。
エリオットはだんだん狭くなって行く通路に確信していた。
これがきっと聖域へと続く道だと。
「エリオット…なんかこの人を寄せ付けない雰囲気、やばくない?」
ラスはびくびくしながら、エリオットについていく。
二人は連れ立って辺りを調べてまわるうちに、紅蘭が言っていた『雰囲気が違う』区域を発見してしまったのである。
「そう思うんならお前は戻れ。」
冷たく言い放つとエリオットはどんどん歩を進める。
空気はひんやりとしていて、ここがあの地下施設だと言うことを忘れさせる。
通路はどんどん狭まったかと思うと、急に天井が開けて、小さなホールほどの高さになる。そこには豪奢な装飾の、荘厳な扉が立ちふさがっていた。
「やばいって絶対~!」
渋るラスをよそ目に、その扉に手を当ててみる。すると、どうしたことかその扉は彼らを招き入れるかのように開いたのである。
「開いたぜ?入れってことかな。」
エリオットはにやりと笑うと、さらに歩を進める。
「だ~か~ら~」
ラスは半べそをかいてる。
そして、さらに奥へ進むと、人の話し声がする。その声はあの銀髪の男と、聞いたことのない女の声だった。
ふいに話し声がやみ、エリオットはラスともに慌てて身をひそめる。だが、どうやら相手もこちらに気づいているようだった。その場の空気はしんと静まり返ったまま、張り詰めた雰囲気が漂っていた。
最初に口を開いたのは、銀の髪の男、白蘭だった。
「出て来い。そこにいるのは分かっている。」
エリオットとラスは観念して姿を現す。
「こんなところで逢引きか?女がいただろう?」
そのエリオットの問には答えず、白蘭は逆に問うた。
「…どうやってここへ入った?ここは我々一族の中でも、限られた者しかあの扉を開けることはできないはず。どういうことだ?」
「?普通に開いたぜ。俺がこう、手を扉に当てたら…」
「?!なんだと?そんなはずは…」
白蘭は驚きのあまり声を上げる。
「でも本当なんです!勝手に入ったのは謝ります。でも、僕達、フロルがどうしてるか心配で…」
ラスが思わず横から口を挟む。
その時、複数の足音がして、紅蘭の声がその場に響き渡った。
「聖域を侵す侵入者だ!その者たちを捕らえよ!」
その瞬間、白蘭の拳がエリオットの腹部に入った。いきなりのことにかばいきれず、身体をくの字に曲げたエリオットの耳元に、白蘭が囁く。
「この場は私が何とかする…騒ぐな。」
なぜだか同じに、白蘭自身にも鈍い痛みが走る。
苦痛に顔を歪めながら、続けざま、ラスにも一発お見舞いすると、紅蘭と彼女が連れてきた衛兵達に向き直った。
「大事無い、ここは私が引き受けよう。お前達は下がれ。」
「白蘭様。しかし!…」
白蘭は戸惑う衛兵達を睨みつけた。
「…かしこまりました。」
兵の筆頭らしき男は、一瞬不服そうにしたが、紅蘭に目礼すると、踵を返して衛兵達を率いて去って行った。
「白蘭!どういうつもりだ?この者達には罰を与えねば。神聖な聖域に入りこんだのだぞ!」
紅蘭は去って行く衛兵達を一瞥すると、白蘭に歩み寄り、食ってかかった。
「そう言うお前もだ。紅蘭。青泪が怒り狂ってるぞ。精霊達は争いは好まない。あのような者達をこの場に踏み込ませるのは、感心しないな。」
腕組みをし、紅蘭を見下ろす白蘭。
「…しかし。ここへは立ち入るなと言っておいたはず。また入れるはずもないのに、一体どうやって…?」
紅蘭はその場にうずくまるエリオット達を、恐ろしい目つきで睨んでいる。
「そのことについては私も気になっている。この者達をしばらく私に預からせてくれないか?」
言いふくめるように、ゆっくりと紅蘭にそう言う白蘭。
「…わかった。」
紅蘭はそう言うと渋々、その場を出ていった。
「さて。大丈夫か?」
白蘭は紅蘭が出て行ったのを確認すると、その場にしゃがみこんでいる二人を助け起こす。
「…てめぇ…大丈夫じゃねえっての。何なんだ?いきなり?」
腹を押さえながら、何とか立ち上がるエリオットとラス。ラスは言葉も出ないようである。
「あの娘は紅蘭と言ってね。悪い子ではないんだが、幾分血の気が多くてね。精霊達とも折り合いが悪くて…申し訳ない。」
苦笑いを浮かべてそう説明する白蘭。
「で、俺達はこれからどうなるんだ?それに、なんだ?そのセイレイってのは?」
エリオットは苦しいながらも、疑問に思っていたことを白蘭にぶつけた。
「どうしようか?青泪?」
白蘭が苦笑交じりに水面に振り返ってそう言うと、水面から全身水色に輝く美しい少女が出現した。
「彼女が精霊の一人だ。名前は青泪。」
白蘭はごく簡単に紹介する。二人はただただ驚いて青泪を見つめていた。
「…相変わらず野蛮だわね、紅蘭は。ところで白蘭、あなた大丈夫?」
青泪はエリオット達二人にはかまわず、紅蘭が立ち去った方角に一瞥をくれると、白蘭を覗きこんでいぶかしげに小首をかしげている。
「?なにがだ?」
白蘭には青泪が問う意味が、分からない。
「苦しそうだもの。この子とあなた、何だかとても近いわ。これは一体…?」
青泪は腕組みをして考えている。
そのとき彼女の後ろで水面がさざめく。
「青泪…青泪…あの日…あの日…」
「…を…魂…」
エコーのように波のように、寄せては返すさざ波が紡ぎだす声。他の精霊たちがザワザワと水のさざめきを声に変える。
「青泪。精霊たちも。君たちの話が全く見えないよ。」
白蘭は考え込んでしまった青泪に、逆に問う。
青泪はほかの精霊たちのさざめきを聞き、はっとしたように面を上げた。
「さっきこの子を殴った時、白蘭、あなたも痛みを感じたでしょ?多分あなた達、シンクロしてるわね。聖域の扉が開いたのも、きっとそのせいよ。」
青泪は白蘭とエリオットを交互に見る。
「シンクロ?どういう意味だ?」
エリオットは間髪いれずに聞き返す。
「同調してるってことだよ。エリオット」
エリオットの問いになぜだかラスが答えた。
「…ちょっと待てよ。何で俺がこんな奴と同調しなきゃならないんだ?」
エリオットは不満げにラスに抗議する。
「全くだ。」
白蘭までが不服そうに腕組みをしている。
聖域の扉は精霊たちによって命を与えられている。いわば自身が生きた門番なのである。
そして、一族のごく限られた人物のみを中へと招き入れるのだ。
その扉が開いたということは…
青泪が言うように、扉は『とても近い』存在のエリオットを白蘭だと認識したということになる。
「白蘭!」
そのときだった。青泪が金切り声を上げた。
「フィルが!」
その声を聞いた瞬間、白蘭は身を翻していた。波打ち際まで走り、屈みこむ。
「おい待てよ!」
エリオットは白蘭の背中に声をかける。
「悪いが、急ぎの用ができた。君達は部屋で謹慎しててくれ。」
そう言い残すと水面に手を差し入れ、低くつぶやくように言った。
「頼む。」
白蘭の手を、水の中から伸びてきた精霊達の手が包むように握る。すると白蘭の姿はその場からかき消すように消えてしまった。
「な?」
エリオット達がいる場所からは、白蘭が忽然と姿を消したということくらいしか分からなかったようである。
「瞬間移動よ。私達精霊が手伝えば、あなたにだってできるわよ。部屋まで送ってあげるから、やってご覧なさい。」
そう言って青泪は手を差し出す。
「え、いや俺は…」
エリオットはなぜかここへ来て尻込みをしている。
「やってもらいましょうよ。こんな経験できるチャンス、そうそうないですよ。」
ラスは興味津々である。
「お前は子供か。」
エリオットは呆れている。
「まあ、そう言わずに、一度やってみれば?」
青泪にそう言われて、渋々手を差し出すエリオット。うきうきと手を握るラス。
「自分たちの戻る部屋をしっかりとイメージしてね。いくわよ。」
そう言われるや否や、二人は元居たいた部屋に戻っていた。
「すごい…」
「ああっほんとに戻った!」
ラスは小躍りしそうな勢いである。突然現れた二人に面食らっているメンバー達に、大喜びでさっきまでのいきさつを語り始めた。
そんなラス達を尻目に、エリオットだけは不機嫌そうに寝台へ寝転がって天井を見つめている。
“フィルが…!”
あの水から出てきた女はそう言った。
フィルと言う言葉を聞いた瞬間、身体が震えたのはなぜだろう。とっさに浮かんだのは、フロルの顔だったのはなぜなのだろう。
エリオットはさっきまでの出来事を繰り返し頭の中で整理していた。
…だがなにひとつ確証を得ることはできないまま、時間だけが空しく過ぎていった。
そのころ白蘭はフロルの部屋に出現していた。
フロルの部屋に侵入者があったのだ。侵入者は一人。
そして侵入者は敵意をもってフロルを傷つけた。フロルは必死で逃げ惑い、執拗に襲いかかる侵入者の振るうナイフから逃れようとしていた。
「フィル!」
「白蘭!」
フロルが現れた白蘭に駆け寄ると、彼は後ろ手に彼女をかばった。そして、侵入者に対して一喝する。
「どういうつもりだ?紅蘭!」
部屋の照明は、侵入者により大半が破壊され、薄暗かった。が、白蘭の眼をごまかせるものではなかった。
侵入者は紅蘭、だった。
仲間内の犯行に見せかけるためか、フロル達の持っていた装備の中からナイフを抜き取り、凶行に及んだのだった。
「白蘭も帝も!いまさらなぜこのような女に固執する?もうこんなことは無意味だろう?私は今のままでいいんだ。帝がいてくれさえすればそれでいい。帝妃などいらないんだ!」
紅蘭は紅い瞳を濡らして、泣いていた。
「一度ならず二度までも帝を拒むような女に!何を期待する?期待などしても仕方がないだろう?」
彼女は泣きながら、ナイフを投げ捨てると、逃げるように部屋を出ていってしまった。
“紅蘭…やはり、君は夕霧に…”
白蘭は憐れむような視線を、紅蘭が立ち去ったあとに向けるとフロルに向き直った。
「大丈夫か?フロル?」
白蘭はおびえるフロルを抱きかかえるように、寝台まで運ぶとそっと座らせた。
「白蘭…私、どうしてあの子にこんなに嫌われないといけないの?」
「傷の手当てを。」
白蘭はフロルの隣に座り、傷口を見ている。腕に5センチほどの切り傷ができていた。ナイフで切りつけられたときに、とっさにかばってできたのだろう。そう深くはなかったが、フロルの心のショックは大きかったようである。
「力で治してしまうには、少し傷が大きいかな…」
そう言うと彼は手近にあった布を裂いて、フロルの腕に巻く。フロルはそんな白蘭の様子をじっと見つめていた。
「私は、フィルっていう子の生まれ変わりだって本気で思ってる?」
その声はおびえからか怒りからか、かすかに震えていた。
「今はそんなことは…」
「答えて!」
激しい口調で詰め寄るフロル。
白蘭はため息をひとつ落とすと、フロルにうなずいた。
「ああ。君はフィリシアだ。私をと呼んだね。私を白と呼ぶのは、先帝とフィルだけだったんだよ。」
「…てい?」
「先代の帝だ。もうずーっと昔に、亡くなったけれどね。」
白蘭は裂いた布の巻き終わりを、フロルの腕に結わえている。
「でも、私はフロルなのに…」
その呟きは今にも消え入りそうである。
「精霊達は変わらず君を認めているよ。気づいてるだろう?」
手当ての終わった腕を放し、白蘭はフロルをじっと見つめている。
「……」
それはフロルにも気がついていた。自分にずっと寄り添う気配。ふんわりと包むように護られている感覚。それは、みんなに起こっていることだと思っていたが、どうもそうではないらしいということに。
「君は君でいいんだよ。フィルになる必要はないし、フィルでなければならないということもないんだ。君には君の、今の人生がある。」
感情の読み取れない静かな声で、淡々と語る白蘭。
「でも、あなた達が望むのはフィルの生まれ変わりである私が、夕霧の妃になることでしょ?」
フロルには彼が何を言おうとしているのか、分からなくなっていた。
「―ああ。…そう…そうだね。私は何を言ってるんだろうね…」
白蘭はなぜかとても困惑しているように見えた。
「私は…私の望みは…」
白蘭がそう言いかけたとき、騒々しい足音が近づいてきてフロルを呼ぶ声が辺りに響き渡った。
「フロルーっ!どこだ?フロル!」
やけっぱちなのか、フロルの名を連呼しているその声は、彼女のよく知るあの幼なじみの声に間違いなかった。
「君の連れのようだね。」
幾分げんなりした様子で白蘭はつぶやく。
「エリオット~あいつは~…ごめんね。幼馴染なのよ。腐れ縁って奴かな。いつも一緒だったから…」
なんだか言い訳をするように、言い募るフロル。
「呼んでこようか?」
白蘭は立ち上がる。
「え?いっいいよ。別に…」
「なぜ?彼は君のことをすごく心配しているよ。さっきは君を捜して聖域まで入ってきて、衛兵達とひと悶着あったばかりだ。」
静かな声音は変わらない。
「!ごめんなさい。迷惑かけちゃったでしょ?」
フロルはビックリして眼を見開き、慌てて白蘭に詫びる。
「君が謝ることじゃないよ。呼んでくるから…」
そう言って踵を返そうとする白蘭の袖を、とっさに掴むフロル。
「フロル?」
「いや。行かないで。私を…一人にしないで。」
フロル自身戸惑っていた。なぜこんなに不安なのだろう。白蘭がここからいなくなることが不安でたまらなかったのだ。
「一人になんかしない。約束する。それに君には帝も精霊達もついてるじゃないか。大丈夫だよ。君を害する者がいても、必ず助けるから。」
「でも…」
“チガウ、ソウジャナイ…”
心のどこかで、再びもう一人の自分がさざめく。さざめきはざわめきへと変化していく。自分でも驚くほどに強烈に鮮烈に。
「…やはり、君は帝妃になる人だ。帝の妻となり、帝を助け、精霊を統べる。我々一族があの青い星へ帰るため、生き延びるために残された唯一の鍵を持つ、大切な方だから…」
白蘭はどこか自分に言い聞かせるように、遠い昔にフィリシアに言ったのと同じようなことを再び口にした。
「!」
白蘭の言葉はフロルの中のもう一人の少女の記憶を、残酷な響きとなって激しく揺さぶる。
“チガウ…チガウ!”
フロルは白蘭の袖を握り締めたまま、絶句する。心は激しくよじれて、言葉は紡ぎだせない。
“ワタシノノゾミハ…!”
「お願い……もう…言わないで……」
大きく目を見開き、食い入るように白蘭を見つめるフロル。心臓が今にも壊れそうに拍動を刻んでいる。
“ワタシハ…”
「私は…」
苦しそうに途切れ途切れに言葉を紡いだ。その声は掠れて、震えていた。
「フロル…」
「私は…あ…あなたに…ここにいて欲しいの…」
“アナタガイテクレレバ、ソレデイイ…”
「……」
白蘭ははっと目を見開くと、言葉を失う。
「私は…私が欲しいのは…帝妃の地位でも精霊を統べる力でもない…あなたがそばにいてくれることだけだったの。」
“アナタサエ…”
「フロル…?…フィル?フィルなのか?」
白蘭の眼に、不意にもう一人の少女と、目の前にいる彼女とが重なる。
「私はフロルよ。だから今こんなことが言えるの。でもフィリシアが見た風景や感じたことを少しだけ知ってるの…彼女はこの言葉だけは言ってはならないって、私の中で泣いてる…でも…白蘭。でもね、私は…!」
エリオットのフロルを捜す声が遠ざかる。もう耳を澄まさないと、ほとんど聞き取ることができなくなっていた。
白蘭はフロルの言葉を待っているかのように、じっと彼女の瞳を見つめて黙り込んでいる。
だがフロルももうこれ以上、何を言っていいのか、分からなくなっていた。
ただ二人、じっとお互いを見つめあったまま、時間だけが過ぎて行った。
“一番伝えたいことが、絶対に言ってはならない言葉なら…もう、言葉は要らない…”
もう一人の自分が心の中でそっとつぶやく。
袖を掴まれ、立ったままフロルを見つめていた白蘭はゆっくりと息を吐くと、寝台にそっと腰を下ろす。その表情はどんな顔をしていいのか分からないというような困惑の表情だった。
「やっとポーカーフェイスを崩せたわね…白蘭?―困ってる…?」
そう言って微笑むフロル。
「フロル…私は…」
フロルは白蘭の銀の髪に、そして頬に、そっと手を触れる。
驚いて、一瞬身を硬くする白蘭。
「ずっと…こんなふうに触れてみたかったの…」
そう言って涙ぐむフロル。
触れた手から伝わる想い。
白蘭は自分の頬に触れるフロルの手に、そっと包むように手のひらを重ねる。
「…フロル…」
彼女の水色の瞳に映る自分を見る白蘭。その瞳から雫となって涙がこぼれおちる。その涙を拭うようにくちづける白蘭。
何度も何度も雨のように落ちてくる短いキス。
「君が泣くと青泪が出てくるからね。」
白蘭は微笑んでいる。フロルもつられて微笑む。
「白蘭…精霊達の声が聞こえる?」
そっと息を潜めて囁く。
「なにも…聞こえるのは君の声だけだよ…フロル…」
白蘭はそう言うと、涙の止まったフロルに唇を重ねた。そしてフロルの金の髪にそっと指を通し、その背に腕をまわす。彼女の細い背中を抱きしめて、その耳元にそっと囁く。
「私も…ずっとこんなふうに君に触れたかった…それなのに、今まで自分でも気づかない振りをしていたんだ。そのことにすら私は、気づいてなかった…自分自身の気持ちなのに…私は…君を苦しめていたんだね…君はこんなに苦しい想いを抱えていたんだね…ごめん…すまない、フロル…」
「白蘭…」
フロルも白蘭の身体にまわした腕にそっと力をこめる。
「フロル…今度こそ君を護り抜いてみせる。ここに誓うよ…」
白蘭はフロルがフィルであった頃でさえ、見せたことのないような真摯な瞳で彼女を見つめ、静かにつぶやいた。
そして、大切な宝物を扱うように、そっと彼女を寝台へと横たえる。
「私も…誓うわ。もう逃げたりしないと…あなたがいてくれるなら、私は強くなれる…」
フロルの白く細い腕が白蘭の首を、そっと抱き寄せる。
お互いの瞳を間近で見つめ合う二人。
失われたを埋めるかのように、二人の影はひとつに重なり、互いを求め合った。
惹かれ合いながらも、触れることさえかなわなかった…心の奥深くに封じ込めていた想い、金の髪、水色の瞳。
それが今、息が触れ合うほどのすぐ目の前にある。
自分の名を呼ぶ甘い声も、ほのかに染まる頬も、そして波打つ金の髪も…
全てが、いとおしかった。これほどまでの熱情を、自らが秘めていたことに驚きながらも、白蘭は彼女の全てを求め、強く抱きしめた―……
「…自分の気持ちを偽ることが、こんなにも辛くて切ないなんて、知らずにいたんだ…私は自分の心と向き合わず、その気持ちを封印してしまっていた。そのことが、あのとき君に死を選ばせてしまった。青泪が言っていたことの意味が、今やっとわかった気がするよ…」
シーツにまれ、すぐそばで白蘭の声を聞いているフロル。素肌に彼のぬくもりを感じ、幸せにまどろむ。
そうしてフロルは帝妃ではなく、白蘭の妻となった…
そして彼はこのときすでに、一族の滅びを受け入れる覚悟を決めていたのだった…