3 赤い星へ
緩やかな流れを大地に描く広い河。その河原で、6歳くらいの少女が、たったひとりで砂利石を積んで遊んでいる。水色の瞳が印象的なその少女は、長く伸ばしたブロンドの髪をポニーテールにしている。
危ないよ、とフロルは声をかけようと一歩前へ踏み出す。
そのとき川から全身が水色に輝く少女が現れた。15、6歳くらいであろうか、今さっき水から現れたはずなのに1滴の水にも濡れた様子が無い。どう見ても人には見えない出で立ちに、フロルは思わず悲鳴を上げそうになる。
だが、どうしたことか声が出ない。
ポニーテールの少女は怖がる様子も無く、水色の少女に微笑みかけた。
“これ…あのときの夢だ…でも、夢?だったのかな…私はあの場所を知ってる…”
フロルは今、目にしている光景に見覚えがあった。
そう。この河原はフロルの家の、近所の河原で、あのポニーテールの少女は幼い日の自分であったのだ。
そして、あの水色の少女。
人でないことは確かだったが、なぜか恐怖は感じなかった。むしろ感じるのは懐かしさで…
“どうして…今まで忘れていたんだろう…?”
その懐かしさは妙にリアルで、フロルの胸を打つ。
そしてその懐かしさは、遠い記憶の中からひとつの真実を導き出す。
“そうだわ…これは夢なんかじゃない…私は小さい頃、よくあの子と遊んだんだった。私にしか見えない、あの水色の女の子と…”
フロルにしか見えないために、フロルの周囲の人々は誰も信じてくれなかった。そのため、フロル自身もそれをいつしか夢だと思うようになっていった。
そして、あのポニーテールの少女…幼き日のフロルもいつしか大人になり、そのことすらも思い出せなくなっていったのである。
ぼんやりと河原で遊ぶ少女達を見ていると、
水色の少女の方がすくっと立ち上がり、フロルをまっすぐに見つめた。
そして微笑む。一緒に遊ぼうと言うように、右手を差し出して…
フロルは目を覚ました。
ベッドに起き上がる。
「やっぱり夢…」
一人つぶやくと、ベッドの脇のチェストに置いてある腕時計に手を伸ばす。時計は午前1時を指していた。
“どうして、今になってあの頃のことを夢に見たりするんだろ…?”
フロルは眼が冴えてしまい、再び眠る気がしなくなってしまったために起き出した。
眠るためだけに用意された、ベッドと小さなチェストしかない狭い部屋を出て、談話室へ向かう。
ここはフロルの家ではない。『アレスプロジェクト』のメンバー用に用意された訓練施設である。
『アレスプロジェクト』の準備期間は、飛ぶように過ぎて行った。マスコミの取材攻勢と、宇宙生活に向けた訓練で、メンバーはかなり消耗させられていたが、最高齢のメイヤー教授が音を上げずに頑張っている姿を、若いメンバー達は、見習わないわけにはいかなかった。
「少し痩せたんじゃないかね。フロル。無理してないかい?」
教授は深夜、誰もいないメンバー専用の談話室で、ひとりぼんやりしていたフロルに声をかけた。プロジェクトのメンバーは、すでに外の世界とは隔離された空間での生活を強いられていた。宇宙へ病気を持ち出さないようにするためのメディカルチェック。それは、無菌室での生活さながらであった。
生活に必要なものは揃えられてあったが、閉塞感は否めない。そこへ日々の訓練の疲労も手伝って、ここへきて皆、口数も少なくなってきていた。
それでもメイヤー教授は、疲れた顔一つ見せなかった。
そればかりか、他のメンバーを気遣って明るく声をかけてくれる。そんな教授の存在は、若いメンバーにとって力強い父のような存在になっていた。
フロルはひとつ頭を振り、教授に向き直る。
「大丈夫ですよ。だって、母を無理やり納得させて参加してるんですもの。音を上げるわけにはいきません。それに、教授だって結構無理されてるでしょ?」
そう言って、いたずらっぽく笑って見せる。
教授はそんなフロルを見て、にやりと笑うと、談話室に備え付けられたバーカウンター奥のキャビネットを開け、琥珀色の液体の入ったビンを取り出す。
「一緒にどうだね?」
談話室には5人ほどが並んで座れるバーカウンターと、ホテルのロビーにあるような4人掛けのテーブルセットが2組、配置されていた。
キャビネットには数種類の酒やドリンク類が常備されている。
セルフサービスとはいえ、上質なものが取り揃えられていたため、メンバーにとっては唯一、憩いの場となっていた。
「頂きます。明日の訓練に差し支えない程度に。」
そう言って笑う。
「そうだな。二日酔いでは訓練にならんし、マスコミが知ったらスキャンダルになるしな。」
二人は声を上げて笑っていた。そこへ、エリオットが入ってくる。プロジェクトのメンバーの中でもいちばん若い、ラスこと、ラスティ・コーウェルもいっしょだった。
「フロル!」
ラスは子犬のようにフロルに駆け寄る。
「ああっ?フロル!お前、夜更かししてると思ったら、なにいいもの飲んでるんだ?」
エリオットはフロルに対して馴れ馴れしいラスに、ちょっとムッとしながらも、大げさに憤慨して見せる。
「あなた達こそ寝てなくていいの?…もう、しょうがないわね。仲間に入りたいなら素直にそう言えばいいのに。素直じゃないんだから。」
フロルは笑いながら人数分のグラスを用意してやった。教授もニコニコ笑っている。
4人は結局、テーブルを囲んでブランデーを愉しむこととなった。
「ところで、ラスはいくつだったかな?」
教授が思いついたように問う。
ラスティ・コーウェル(通称ラス)。恐らくアメリカ全土で最年少博士と呼んでも、差し支えはないかもしれない。
若き、天才惑星大気物理学者の彼は、細身で身長はそう高くない。しかも童顔であるために女の子によく間違われるほどであった。
黒髪で瞳はアッシュグレイの、青年と言うにはまだ幼さが残る人物であった。
「大丈夫ですよ、飲んでもいい年齢にはなってますから。今年で一応二十です。」
ラスはにっこり笑って答える。
「ラス、誕生日まだじゃないの?感謝祭の頃って言ってなかった?」
季節は冬。まだ年が明けていくらも経っていない。
「満年齢の話は無かったことにしといてくださいよ。僕くらいの学生はみんな飲めますからね。」
ニンマリ笑い、グラスを半分ほど一気に空けるラス。
「…これだから飛び級してる奴は…」
エリオットは頭を抱える。
「自分だって飛び級してるくせに~!」
笑いながらそう突っ込むラスに、エリオットはすごい目つきで睨み返している。
「まあ、頭の固い連中のいない今ならすこしくらいは多めに見ようじゃないか。」
そう言って笑うと、教授はエリオットのグラスにブランデーを注ぎ足す。
このプロジェクトは、合計8名で構成されている。
地質学の専門家であるジョージ・メイヤー教授を筆頭に、フロルことフローレンス・ルナ、エリオット・ラング。
その他に、若干二十歳(自称)の惑星大気物理学の天才、ラスティ・コーウェル、天体物理学のエドワード・レイン、宇宙システム生態工学のヘンリー・ラッセル。
メカニックとして探査機と観測機のシステムエンジニアが2名。計8名が搭乗することになっている。
エドワードやヘンリーは普通に博士号を取得している学者なので、フロル達よりもやはり数段大人で、エンジニアの二人も然り、どうしてもプライベートは別行動となってしまうのだ。
そして、エドワードとヘンリーの二人には宇宙ステーションにおいてこのプロジェクトのバックアップが任されている。
その中でも、プロジェクト最年少となるのが、このラスなのである。持ち前の好奇心はこのプロジェクトに二つ返事でついてきたところからも推測できるが、好奇心のかたまりである22歳のフロルとは歳も近いせいか、結構ウマが合うらしい。
メンバー顔合わせのときから意気投合し、フロルがいるところにはどこでどう嗅ぎ付けるのか出没するので、幼なじみのエリオットとしては、内心面白くない。だが、25歳で年上というプライドもある彼には、大人気ないところをラスや、ましてやフロルに見せるわけにはいかなかったのである。
メイヤー教授は三人の様子を見ながら、目を細めてグラスを傾けている。
「お前も大変だな。」
そう言って、隣に座るエリオットの肩をポンポンと叩く。
エリオットは言葉も無く、がっくりとうなだれている。
「出発の日程は、もう決定したんですか?」
ラスはこのところの訓練にもよく耐え、と言うよりもむしろ楽しそうにこなし、疲れ気味のメンバーの中においてムードメーカーのような存在になりつつあった。
「そうだな…明日にはNASAが着陸地点と、投入のタイミングの計算とシミュレーションを終えるだろう。それから会議で一番安全性の高いプランを選択することになるだろうね。準備はほとんど整ってるから、後はタイミングだけの問題だな。」
教授はニコニコしながら、琥珀色の液体を見つめて言う。
教授もこのラスという天才科学者がかわいくてならないのだ。
「万全を期すとはいえ、訓練とこの隔離生活はきつかったですね。」
エリオットはブランデーをおかわりしようとしている、フロルを制しながら教授に言う。
「もう!エリオットは心配性なのよ!教授は宇宙への有人探査は二回目なんだから。ねっ?教授?」
フロルはエリオットからボトルを奪い取ると、自分のグラスに並々と注ぐ。
「フロルが酔っ払ってるぞ。エリオット、部屋まで送ってってやれ。私もあと少ししたら休むから。」
「酔っ払ってなんか…ああっ!教授の意地悪!」
教授はフロルからグラスを取り上げながらエリオットに目配せする。
「あ、じゃあ僕も…」
席を立ちかけたラスを教授は引き止める。
「ラスは後片付けもあるし、若いんだから私に付き合いなさい。」
「ちぇ~っ僕、後片付けですか?若いのは僕のせいじゃないのに~…」
ほっぺたを膨らませているあたりが若い証拠なのだが、この際、教授はあえて言及せずに留めた。
膨れっ面のラスに苦笑いをしながら、部屋を出て行くエリオットとフロルを見送る。
「若いというのはいいことだよ。」
そう言って目を細める教授は、どこか遠い目をしていて、ラスは教授にかける言葉を見つけることができなかった。
エリオットはフロルに肩を貸しながら廊下を歩いていた。フロルは拗ねているのか、口数が少ない。
「ほら。フロル、お前の部屋に着いたぞ」
フロルは頼りない足取りで、自室の鍵を開ける。
「エリオット。この際だからはっきり言っておくけど、私、もう子供じゃないのよ。こういうの過保護って言うのよ。教授も教授だわ。なによ二人して。」
ドアを開け、ドア越しに悪態をつくフロルにエリオットはさすがに頭にきてしまった。
「教授も俺もお前のためを思って…」
だが言い募るエリオットの言葉をさえぎるフロル。
「言ったでしょ?それが、過・保・護なのよ!」
アルコールのせいか、いつもよりも語気が荒くなっている。
「…そうか。」
エリオットはそう一言だけ言うと、フロルを強引に部屋に押し込んだ。
「ちょ…ちょっとエリオット?」
まだ明かりをつけていなかったために、フロルの部屋は真っ暗なままであった。
真っ暗闇に焦るフロルを尻目に、エリオットは後ろ手にドアに鍵をかけた。
「なっ?何してるの?出てってよ!」
怒気を込めた声で喚くフロルの腕を、エリオットは捕まえる。
そのまま壁に張りつけられる形で、フロルは彼に押さえこまれてしまった。
「ちょっと。どーゆーつもりよ?」
フロルは冷ややかな眼で、間近に迫るエリオットを睨み据える。
「…お前がもう子供じゃないのと同じだよ。俺だってもう子供じゃない。…そういうことだ。」
フロルは闇に目が慣れてきて、初めて気づいた。彼は今までに見たこともないような、熱を含んだ表情でじっとフロルを見つめていた。
「……」
フロルはもう何を言っていいのか分からなくなっていた。酔いは一気に冷めていく。
「―もう…いい加減気づけよ…」
エリオットはそうつぶやくと、フロルにそっと唇を寄せる。
「!」
だがフロルは顔を背け、彼を拒んでしまった。
自分でもなぜだか分からない。いつもそばにいて護ってくれた、大切な存在のはずの彼を…
兄のように、父のように。そして、恋人のように…気がつけば必ずそばにいてくれた。
かけがえのない…のはずだった。
困惑するフロルに、哀しげな目を向けるエリオット。
「…ごめん…あなたには、何かが足りないのよ…うまく言えないんだけど…私にも…どうしてだか…」
ついうろたえ、言い訳めいた言葉を並べてしまうフロル。
「…分かった。」
エリオットは感情の読み取れない表情で、フロルを開放すると、彼女に背を向けた。そのまま部屋を出て行く。
バタンとドアの閉まる音が廊下に響くと、エリオットは深いため息をついていた。
“なんでこうなっちまうんだろうなあ…フロル?…足りないって…俺には何が足りないっていうんだ…?俺だってもう子供じゃないんだよ…どうしたらいい?教えてくれよ…”
そしてフロルも困惑を隠しきれず、そのまま真っ暗な部屋で、ぺたりと床に座り込んでしまっていた。
“エリオット…私…”
―だけど…
あなたには、何かが足りない…
この日を境に二人の間はギクシャクしたまま、どんどんスケジュールは消化されていった。
そして、とうとう赤い星へ出発する日がやってきてしまったのである。