〈大地と水に祝福されし星〉
1 プロローグ
赤い星にて
そこには見渡す限りの青く澄んだ水が満々と湛えられ、目に見える範囲には他に陸地は見えない。
白い通路が、手前から中心へ向かってまっすぐに伸び、一本の桟橋となって水に浮かんでいた。そして更に、その桟橋は白く美しい荘厳な建物へと続いていた。
その建物は、古代ギリシアで見た白亜の神殿のようで、陸のないその場所に、水に浮かぶかのようにそこに存在していた。
桟橋は一目で見渡せる距離で、50mほどであろうか。淡く発光する白い石で造られた石橋は、その神殿のような建物のための唯一の道として、存在しているようであった。
建物の背後には一本の大きな樹がそびえ、建物を包み込むようにその枝を伸ばしていた。
幹は太く、樹齢数百年と言われるような、かなりの年月を重ねた大樹のようであった。葉の一枚一枚はさほど大きくはなく、葉の間から、その空間に満ちる柔らかな光をまだらに落としていた。そして、根はマングローブのように複雑に絡み合い、青い水の中でしっかりと大樹を支えていた。
こちら側の床には、砂浜のように真っ白な石が敷詰められ、段々と水に向かって傾斜し波打ち際へと続いていた。
さほど広くもない白い石の砂浜の向こうに、たゆたう青い水。そして荘厳な白い建物…幻想的でとても美しい風景であった。
だがしかし、そこには足りないものがあった。あるはずの雲や太陽の光は見当たらず、代わりに柔らかな光を発する巨大な壁がドーム状に続いていた。
白い砂浜も青い水も唐突に終点を迎え、壁がそびえる。
神殿のような建物を、包み込めるほどの巨大な空間は、まるで箱庭のように壁に切り取られ、支えられている。
そして…足りないもの、それは青い『空』であった。
触れることすらはばかられるかのような、静謐な水。その、しんと静まり返っていた水面が、やがてさざなみを立てる。それはささやく声にも似て、さやさやとさざめいていた。
その白い石の砂浜に、一人のまだ歳若い少年が現れた。
少年は砂浜の側の、光る壁にある両開きの扉を開けて入ってきた。その扉には百合の花のレリーフが複雑な文様を描き、所々に花の模様を縁取るように、美しく輝く輝石がはめ込まれてあった。その豪奢な装飾を施した扉の高さは3mほどで、まだ成長期にある少年からすると、見上げるほどの大きさである。が、扉はまるで意思を持つかのごとく、その重さを感じさせない程の滑らかな動作で静かに開き、少年が入ってくると自然に閉じたのである。
まだ幼さの残る面差し、少し癖のある見事なプラチナブロンドを、肩の下辺りで切りそろえた、美しい少年だった。
彼は、翡翠のような濃い緑色の瞳を厳しい眼差しにして水面に向ける。
「…久しぶりだな。?…いないのか?では、私を呼んだのはお前達か?」
少年は波打ち際まで歩み寄ると、水面に向かってそう叫んだ。するとさざなみだった音は、幾重にも重なる女の声に変わった。
「そうよ…そうよ…青泪はいるわよ…でも…今日あなたをここへ呼んだのは…呼んだのは…私達精霊すべての意思…よく来てくれたわ…私たちの予見を…予見を…聞いておいて欲しいの…あなたに…あなたに…」
姿の見えない声は、エコーのように何度も重なり合いながら辺りに木霊し、言葉を紡ぐ。
「なぜ私に?その役目は帝にしか果たせぬはず。私では役不足だ。」
少年は身じろぎもせず、ぴしゃりと言い放った。自分ではその役目を果たせないことを、彼は水面から響く声に向かって告げたのだ。
彼のその声には、別段何の感情も込められてはいなかったが、向けられた視線にはなぜか怒気が込められていた。
だが、さざなみが発する声は、彼の言葉も向けられた視線も、意に介していないように続けられた。
「歴史は繰り返す…繰り返す…」
水面が紡ぐ声に、少年は一瞬凍りつく。
感情の無い顔に苦々しい表情が浮かび、頬が引きつる。
「…何が言いたい?」
少年はその場で立ち尽くしたように拳を握り締め、水面に耳を傾ける。
「女神降臨…降臨…ユーラシアが、再来する…再来する…もう繰り返してはならない…ならない…今度こそあなたが守らなければ…なければ…精霊の声を聞く民は…民は…もう歴史を繰り返してはならない…ならない…」
少年は水面を食い入るように見つめている。
「私に、なにを…?」
「こちらへ…こちらへ…聖なる水に手を…手を…」
声は少年を招く。少年は言われるまま、その波打ち際へ更に歩を進め、膝を折る。そして澄んだ水に左手を浸した。
次の瞬間、少年の体がビクリと脈打つように大きく震えた。そして少年の体から、まばゆい光を放つ小さな珠が飛び出した。
少年はそのショックで、そのまま意識を失い、白い砂浜に倒れ伏した。そして、光の珠はひときわ強い光を放ち、かき消すようにその場から消え去っていた。
波打ち際に倒れ伏した少年のすぐそばで、水面がさざめく。
すると、水の中からスルリと全身が水色に輝く美しい少女が現れた。
少女は自分よりも、幾分背の高い少年をいとも簡単に抱き起こす。
「…あの方の遺志を継ぐ日がやっと来るのよ…」
少女はさざなみが紡ぐ声とは違う、はっきりとした肉声で、意識のない少年にそっと囁く。
その声は涼やかで、人のものとは思えないほどに美しい声だった。
「私達は何があってもあなた達の味方よ…今度こそ…大いなる意思を聞き届けて。女神ユーラシアの加護があらんことを…」
少年の頬にかかる銀の髪を、大切なものを扱うようにそっと指で直してやる。その仕草はまるで幼子をいとおしむ母親のようであった。
「さあ…さあ…選びなさい…リセットかリバースかを…、あなたならきっと…きっと…」
水面から響く精霊のつぶやきは、意識を失った彼の耳には届くことはなかった。
このとき何が起こったかを、彼自身も知る由がなかった。
ただ精霊達を除いては…
そして、月日は流れた…