教皇ニケ・キーリクス
「お茶です……」
自分が煎れたお茶を椅子に座っている男に差し出すテュッテは、なぜ自分がこんなことをしているのかと疑問に思っていた。
「……んっ、もうそんな時間か」
眼鏡のような道具越しになにかを見ていた男はそれを外しながら顔を上げ、テュッテを見てくる。
彼はテュッテを拉致した枢機卿『カイン・アルハザード』ではなく、もっと上の立場、教皇『ニケ・キーリクス』その人であった。
その容姿はゼオラルで見たニケとそっくりだったが、こちらの方がゼオラルにいたニケより少し歳を経ている感じである。簡単に言うと少しおじさんっぽくなっていると言った感じだ。
「ふむ……時間通り、適した温度や分量を考慮し、最高の瞬間を提供する。お前は神が提示した役割に適合した生き方をして来たようだな。それは偶然か、いや、神の計らいか……」
「…………」
ニケの言葉に無言で応えるテュッテ。ニケもまた彼女の返答など期待していないらしく、受け取ったお茶を一口飲みながら自身の考察に没頭する。
ここは、霊峰の山頂付近に建設された巨大な聖堂とも神殿ともとれる場所。その最奥に存在するスペースである。
ここを訪れることが許されているのは教皇と右席卿だけらしいが、なぜかテュッテは世話係として入ることを許されていた。
どうして自分はこんなことになってしまったのだろうか。テュッテは今一度自分の置かれた状況を冷静に分析し始める。
あの日、カインと一緒に転移したのは聖教国の先程も言った今いる神殿の入り口前だった。
これだけの長距離転移を可能にするには座標を固定し、その一カ所にしか転移しないようにするみたいで、あの日カインが最後まで出し惜しみしていたのではなく、単に使ったら最後、ここへ戻されるので容易に使えなかっただけのようだった。
カインからメアリィが転生者であるということを報告されたニケはそれほど驚きもしなかったが、その能力と『器』としての適合力があるとの報告を受けると大変喜んだ。
それを横で聞かされているテュッテは改めて自分が彼らにとって脅威でもなんでもない、聞かれてもどうすることもできない弱者だと痛感する。
しかしながら、テュッテがメアリィの枷であると紹介されるなり、なにを思ったのかニケはならば手元に置いておいた方がもしものとき有効利用できるなと言ってきたのだ。
一番驚いたのはテュッテではなく、カインだった。
あの無表情の男があれほど驚き、狼狽える所を見れたのは、おそらくテュッテが初めてだろう。
だが、ニケの決定は絶対のようで異を唱えようとしたカインは発言を許されず、そのまま引き下がるしかなかった。
このままではメアリィの重荷になってしまうと覚悟を決め、テュッテは舌を噛んで死のうともしたが、カインから死体の方が御しやすいので大いに結構と言われては、冷静になり今の今まで生き恥を晒している始末だ。
そんなテュッテが今や使用人扱いになっているのは彼女が着けられた首輪の所為でもある。
主人から一定範囲離れると、首輪から全身に稲妻、ニケ風に言うと電気が流れる仕掛けになっているらしい。
レリレックス王国で見た拘束用の首輪のようなものだろうか。てっきり聖教国では作れないとテュッテは思っていたが、単にニケが作る気がなかっただけだったようで、思い立ったその場でササッと作り上げた手腕には驚きを隠せないでいた。
それは身動き一つも出来ず、いっそ殺して欲しいと思えるくらいの激痛が全身を襲うらしく、試しにとニケは、偶々側にいた世話係にそれを着けさせ、躊躇いも無く作動させたのだった。
その悲惨な光景に目を逸らしたくなるテュッテだったが、とにかく止めて欲しいと懇願するしかなかった。そんな彼女を見て嘲笑するでもなく、苦しむ者を見て悦に耽るでもなく、ニケは何の感情も示さず淡々と実験結果を踏まえて調整し、また実験を繰り返すだけだった。
そんなニケの態度にテュッテは「ああ、彼もそういう人なのだ」と改めて理解する。
そして、新たな世話係を呼ぼうとしたカインにニケは丁度良いからテュッテにやらせようと、訳の分からないことを言ってきたのだ。
とんでもない考え無しなのか、それとも深い考えに自分が付いて来れていないだけか、とにかくテュッテはなにもできぬまま、只流されるように今に至っている。
「……もうすぐだ……もうすぐで私の悲願が達成される」
お茶を飲みながらニケはテュッテに言うわけでもなく、独り言のように自身の目の前に広がる巨大な装置を見ていた。
神殿の最奥、霊峰の頂上にポッカリと開いた巨大な火口。そのなにもない空間の真ん中辺りに祭壇の土台のような円柱状の巨大な石畳が浮遊していた。そして、それを包むかのように設置された羅針盤と天球儀を混ぜ合わせたような巨大な装置がグルグルと回転し続け、記号なのか文字なのかテュッテには分からない模様が彫られ、そこから光が溢れる祭壇の中央にはモノリスのような巨大な物体が浮いていた。その全てがテュッテには理解できない代物だったが、ここ数日でニケはその装置の調整に没頭しているのだけは分かっていた。
このまま波風立てず黙って過ごし続ければ良いものを、なにも出来ない自分が許せなく、せめて少しでもなにか情報をと思い、使用人の身で、しかも囚われの身でありながらテュッテは反感を買う恐れと戦いながら何度も口を開いていた。
「あの装置でお嬢様をどうするつもりですか?」
ニケ達の思惑を説明されたわけではないので、あの装置とメアリィが結びつく根拠はテュッテにはない。だが、テュッテは長年の経験と知識、状況から判断し、最後は勘で物を言ってのけた。
これは賭けだった。もし見当外れな事を言えば、ニケはテュッテに興味を失い、物のように扱うだろう。そう、試すと言って躊躇いなく何の罪も無い使用人を再起不能にしたように……。
「ホゥ、分かるのか? アレがなんなのか?」
「ここはかつて、神が降り立ったと言われている霊峰。その奥にあるものなのだから……」
「ああ、そうだとも。私がいた世界じゃ、鼻で笑われる空想物語かもしれないが、この世界は違う」
ニケの質問に冷や汗を流しながら、テュッテは自分の知っている知識を勿体振ったように口にすると、彼は一人語りを始めてくれた。
「神は確かに存在するのだ」
「神様が……」
「馬鹿げていると思うか?」
「いいえ、他世界に住んでいた自分をこの世界に転生してくださったのは神様だとお嬢様は仰いました。だから私は神様がいると確信しております」
ニケの問いにテュッテは嘘偽りのない気持ちを誇らしく、自信たっぷりに答えた。そんなテュッテをニケは一瞬驚いた様子で見る。まるで、かつて同じことを言われたような、そんな驚きと懐かしむような表情だった。
「イーリア……」
「え?」
「……大抵の人間は転生者の話など戯れ言と片付けるのだがな。神の存在もまた、いるだろうという認識はできるが誰しもが感覚的に認識できないのはどこの世界も同じだ。神の存在を強く教えたこの国ですら、気が遠くなるような年月を掛けても知覚できた者はごく僅か。フッ、その様子だとお前がその領域に達するのは時間の問題だろうがな。まぁ、転生者は誕生と共に完成されたこの世界の理の後に追加された言わば異物だ。だから、それについて一切知らないのも、本能的に信じられないのも仕方のないことだ。あのオルトアギナですら知識になかったことなのだからな」
「そういえば、オルトアギナ様も完全には理解できていない感じでした。日本を神の国だとも仰っていましたし」
「日本を神の国、か。遠からずも……といった感じだが、相変わらず微妙に的を外すな」
まるで古い友人を語るように、ニケはどこか遠くを眺めながら話をする。
「お前は、転生者をどう捉えている?」
「え?」
これまでの経緯を鑑みて、ニケがメアリィ同様転生者であることは疑う余地が無い。それを踏まえての随分と踏み込んだ質問だ。
ここで返答を間違えれば終わりである。だが、正解などテュッテには分かるわけもなく、どう答えて良いのか一瞬返答に戸惑った。
ならばもう、正直に答えるしかないとテュッテは転生者であるメアリィを想う。
「神が遣わした特別な存在です」
「神が遣わした……そう、特別だ。『私達』は『お前達』と違い、他世界から神によってこの世界に産み落とされた存在。お前達のような生死の循環システムから外れた存在だ。そして、この世界の理をも壊しかねない能力を与えられた存在だ」
「チート能力ですか?」
「フッ、チート、か。久しく耳にしていない言葉だな」
「それは、貴方にも」
「ああ、私はその構造、理論、概念、とにかくどれかを理解しイメージでき素材さえあれば、錬金術のようになんでも魔道具として具現化できる。ただし、それはこの世界に存在する物だけだ。世界が用意していない物を生み出すことは出来ない」
錬金術というワードをテュッテは初めて聞くが、それは自分が知らないだけか、あるいはあちらの知識か、メアリィに慣らされたテュッテはそれを変に思わず聞き入れる。その自然体のおかげで、違和感をもたれること無く、テュッテはニケの能力を聞き出すことに成功した。随分とキワッキワな綱渡り状態だったが、メアリィ達にとっては有益な情報だろう。
「素晴らしい能力だろ。だからこそ、考えさせられるのだ。なぜ、私は『ここにいるのか』と」
「……教皇様」
いつの間に来ていたのか、カインが離れた位置に跪き、声を掛けてきた。
いつものカインを知っている者なら驚きの行動だったろう。普段の彼なら教皇の会話に割り込むような愚行を決してしなかったからだ。
「どうした?」
そんなカインの意外な行動に気付いているのかいないのか、そもそも興味がないのか、ニケは気分を害した素振りも無く、彼の話を聞く。
一瞬カインが自分のことを睨んできたことに気が付いたテュッテだったが、ニケが下がれと言わない以上首輪の付いた自分がここを離れる謂われはないと、カインの視界から外れる程度に移動しつつ聞き耳を立てる。
「書簡をアルディア王国に送りました。斥候の報告ではやはり拒否される方向で進んでいるようで……予定通り、聖騎士団を中心に軍を結成し、揺さぶりをかけようかと思っております」
「器は?」
「一時家に閉じ込められておりましたが、今は落ち着いたようで、勝手な行動を取らないよう友人達に監視され、学園に通っているようです。しかし、裏で王族と揉めているらしく、こちらへの返答が遅れそうとのことです」
「そうか、こちらも準備と調整がある。もう少しくらい待ってやれ」
「はい……」
ニケとカインの会話はここで終了した。
なんとも味気ないというか業務連絡というか……。
テュッテは知らなかった。
いつものカインなら、このような報告を受けたなら疑問に感じ、多方面から情報を得ようとしただろう。そして、つい先程、急ぎで聖女団が国境を越え、帰国しているという報告書とある一つのミスを見逃していたことに気が付いていなかった。
とにかく、今のカインは少しおかしかった。
それは、捕虜の分際で教皇の側に立ち、あたかも良き理解者のような会話を教皇としている様を見せつけられたからだった。
教皇様の理解者は自分だ。そう自負していたカインのプライドはさぞかし傷つけられたことだろう。そんなこととは露知らずテュッテはメアリィが助けに来てくれることを信じてひたすら待つだけの自分に落胆し、これからのことに頭を悩ませるのであった。