第八話 「パンドラの箱」(開)
1、
凡人の仕事場は近くにある五階建てビルの一室だった。
「来ましたよ、所長」
「随分と遅かったのう。なんじゃ、可愛い女の子と無駄話でもしとったか」
「見てたんですか」
「ふん、ぬしの顔に書いてあるわい」
いい加減顔は見慣れたがやはり雰囲気には慣れない。
古めかしい口調の美女だがこの姿を見て魔女と看破できる者はいないだろう。なにしろぶかぶかの若草色のサマーセーターを着ており履いているのもロングスカートでちらりと覗く生足が白く眩しい。
「それより所長、仕事は」
「まずは珈琲じゃな」
事務所に置かれたコーヒーメーカーはサイフォン式だ。手間はかかるが仕事始めには二人分の珈琲を淹れるのが凡人の役割だった。
所長に出すと一口だけでカップを机に置かれた。
「昨日までの仕事は切り上げじゃな」
凡人は顔には出さなかった。所長は面倒くさそうに肩をすくめた。
「喜べ。魔女が出た」
「……マジですか」
「マジじゃよ。ま、ぬしに魔女と戦えなどと無茶を言わん。ただな、危険物をバラまいているみたいでの」
所長が机の脇に無造作に放り投げたのは真っ赤な立方体だった。マホガニー製の机の上にあっても決して見劣りしない四角い深紅。光を吸い込むような艶めかしい色合いで鮮やかな赤色の内臓を圧縮して美しい結晶として作り替えたかのようだった。
見た瞬間、凡人は顔をしかめた。
どこかで聞いた色と形だ。たしか願いの叶う赤箱などと。
「願い箱、だそうじゃ」
「現物があるって珍しいパターンですね」
「流通ルートは絞っておるようじゃの。相手を選んだ上で、魔女が手渡ししとるらしい。つまりワシの目に留まらぬよう、コソコソと近くを這いずり回ってるわけよの」
凡人は一応聞いてみる。
「危険手当、出ますかね」
「もちろん出すぞ」
嬉しい反面悲鳴も出そうだ。所長は支払いについては厳しい。ここで平素の仕事として扱われるなら安全と見込んだだけに凡人は命の危機を確信した。
凡人は願い箱に近寄らなかった。所長の視線と表情から巷で噂されているような素晴らしいものでないことだけは確実だった。
「魔女はパンドラと名乗っているようじゃな」
「つまり、これってパンドラの箱……」
「の、縮小版というか、劣化版、あるいは量産タイプってところじゃな。禁忌とは相応の魅力を兼ね備えているもんじゃし」
パンドラの箱とは開けてはいけないもの、災いをもたらすため触れてはならぬものを意味する言葉としてよく聞かれる。
出展はギリシャ神話からだ。神々から『この箱は決して開けてはいけない』と言い含められたパンドラが、言いつけを破って箱を開けてしまう。つるの恩返し、浦島太郎、イザナミとイザナギ、オルフェウスの神話と同じでいわゆる「見るなのタブー」に分類される話だ。
古今東西に同種の話が存在することからも禁忌を犯すのは人間の常とも言える。
パンドラが持たされた箱にはあらゆる災厄が詰まっており、開けた途端その中身が世界中に飛び散ってしまった。慌てて箱を閉めたおかげで最後まで箱の中に残っていた希望だけは手元に残ったなどと解説される。
凡人が知識に誤りがあるか確かめるためこの内容を口にすると所長はまあ概ねそんなところじゃなと曖昧に頷いた。
「最後は解釈が別れるところじゃが、解説はいるかの?」
「お願いします。正直、適当な知識で魔女の企みに近づきたくないんで」
「懸命よの。良いか。飛び出してきたのは、あらゆる災厄じゃぞ。なぜ希望までその箱の中に入っていたのか。パンドラ――というか人間の味方じゃったプロメテウスが、後のことを考えて箱の中に隠していたから、というのが基本の話じゃな」
所長はあまり難しく考える必要は無いと言い添えた上でこう続けた。
「最後に残ったのは希望ではなく、未来がすべて分かってしまう災厄として予知だった。これが箱の中に残ったから、人間は希望を持てるという説もある」
凡人が理解した顔をするとさらに言い添えられた。
「もっと単純に、そのままの希望こそが一種の災厄であるとする説もある。諦められぬということは、ひどく残酷なことじゃ。常に希望を持ち続けることを強要されてみよ。決して叶わぬ願いを持ち続ければ、やがて生きることすら苦痛になるぞ」
だからパンドラの箱なのだ。
願いを叶えるための願い箱。
「この願い箱には可能性が詰まっておる。起こりうる事象の確率を操作するための道具じゃ。使う数を増やせば増やすほど効果が上がっていく。しかし希望もまた、最後まで箱の中に閉じ込められておる」
所長は微笑した。
皮肉そうでつまらなそうな残酷な魔女の笑みだった。
「大事なのは身の程じゃ。それだけ知っていれば、不幸は減るとだけ言っておくぞ」
珈琲カップを傾けて一息吐いた。
凡人は首をかしげた。
不可能なことには使えない。なら言うほど危険ではないように思われた。所長は理解の足らない凡人に対し呆れた口調で説明してくれた。
「これはな、マイナス方面を膨らませるにはもってこいの道具じゃよ。まさしく災厄の詰まった箱じゃな」
所長の声は低かった。
「ひとを殺すのは素手でも出来るじゃろ。刃物でも銃弾でも良い。植木鉢だのレンチが落ちてきて頭にぶつかっても、ひとは死ぬ。逆に、事故だの病気だので死にかけた人間を救う。これには高度な技術、最先端の施設、長期の療養、高額な薬品が必要となる。さあ、どちらが簡単じゃ」
答える必要もないほどに明らかだ。
「ついでに、死者は蘇らんじゃろうな。まずゼロに等しい可能性じゃろ。願い箱が操るのは希望であって、奇跡にあらず。すなわち摂理に反することには使えん」
所長からすれば願いが叶うという触れ込みの願い箱もゴミ扱いだった。
「これは願いを叶える箱ではなく、欲を満たす箱なんじゃよ」
「僕に使うなよって釘差してません?」
「ぬしの望みを知っておるからの。良いぞ、なんなら使ってみるかの?」
「デメリットが無いなら、バラまいている魔女本人が独占して使いますよね」
「おそらく《欲望の魔女》パンドラじゃな。他人の欲望も肯定するじゃろ。但し」
「最優先は自分の欲望、ですか」
「慣れたかの、ぬし」
「所長のせいです」
「そこはワシのおかげと言うところじゃ。ま、危険物扱いはそれだけではないが」
所長は一度口を閉ざした。凡人はしばらく考える。
ここまでの会話を思い返してひとつの結論に達した。
「小さなパンドラの箱を開く。つまり、神話の再現をなぞっている。箱が開くたび、希望以外の災厄もバラ撒いているとか……」
「五十点やろう。あと半分じゃな」
「あ……箱を開いて願いを叶える。つまり、希望は手元に残らない。じゃあ希望が失われるって具体的にはどうなるんです」
「死ぬじゃろうなあ」
所長はあっさりと言った。
「希望と欲望は紙一重じゃ。慌てて閉められた箱の中に残った以上、自分の意志で押さえつけることが可能だった――しかし人間である限り決して逃れ得ず、遠ざけることも出来ぬ災厄のひとつ。それが失われれば……」
所長は卑近な例を挙げた。
「チートを使って簡単にクリアしたゲームはつまらん。規模こそ違えど同じじゃな。一度や二度ならともかく、それを延々繰り返すとゲームをする意味そのものが失われ、最後には中身のない箱が出来上がる。さて、一人からいくつの願い箱が出来るやら。見物じゃな」
ゲームを人生と読み替えれば後は分かりやすい。
凡人は愕然とした。確かにこれは危険物だ。
嘆息する所長の横顔はもはや笑っていなかった。
「ぬしの仕事は近くに出回ったこの願い箱を回収することじゃ。出来れば後先考えない馬鹿に使われる前にな。万が一《欲望の魔女》と出くわしたら……逃げるんじゃぞ。くれぐれも立ち向かったりするな」
「心配してくれてます? 所長」
所長の笑みが復活した。底意地の悪い笑い方だった。
「憶えておるじゃろ、ぬしの命の値段」
冷たく返されて、凡人は肩を落とす。
「残り一億円くらいでしたっけ」
「あと二億六千五百万、飛んで九千円じゃ。これでも端数はオマケしておるぞ。時給も深夜バイトより奮発しておるしな。ぬし、何か文句でもあるかの」
「ありません、ご主人様」
「己を買い戻すまで精々頑張るんじゃな、我が使い魔」
話が一段落してどこを探せば良いのかを所長に尋ねようとしたところ彼女が不愉快そうに窓の外を見た。
昼と夕の境目に黄昏色の雲が漂っている。
明るさと暗さとが同居した、どうしようもない鈍い黄金の空。見ていると気分が落ち込んでいきそうな薄雲を引き伸ばして塗りたくった夕空に何が見えたのか。
「箱が使われたようじゃな」
「分かるんですか」
所長は机をとんとんと指先で叩き面倒くさそうに大きく息を吐き出した。
「一つや二つでは分からん。三つ四つで違和感が生ずる。そして、これだけの量を一度に使われれば見逃す方が難しいんじゃが……《欲望の魔女》は、取引相手にワシの存在を教えなかったのか。それとも」
凡人は言葉を待った。相手は所長と同じ魔女と呼ばれる超常の存在だ。願い箱の回収だけならともかく実際に魔女と出くわしてしまえば何が起こるか分からない。
「凡人。おそらく、ぬしが通っておる学校じゃ」
「玉坂高校で?」
「願い箱を十個単位で使った凄まじい愚者がおる。なんじゃこやつ? 大抵の願いなら五個もあれば十分じゃし、それ以上必要な願いは元より無理難題と理解しておるはず……まさか、この平成の世に悪魔でも呼び出そうとしとるのか?」
所長の唖然とした顔は初めて見た。
「悪魔なんているんですか」
「少なくとも、ワシは生まれてこの方一度も見た覚えはないがの」
魔女のお墨付きだ。別に嬉しくはなかったが少し安心した。
ふと別れ際の加々見のことが脳裏を過ぎった。これだけ時間が経過していればとっくに到着しているはずだった。
加々見から渡されたメモを取り出し電話を掛けた。しかし無機質な音が延々と鳴り続けるだけだった。携帯電話をしまい込むと着替えもせず鞄も持たず凡人は足早に出て行こうとした。
「女か」
所長の声に責める響きはなかった。
「先に出ます。後はよろしくお願いします、所長」
「ワシは《欲望の魔女》を探すが……ぬしも上手くやるんじゃぞ」
凡人はドアを開けるとすぐさま駆け出した。
2、
学校から駅までは歩いて十五分から二十分ほどだった。ここ二週間、毎日のように加々見が教室まで迎えに来てなんでもないことを話しながら一緒に歩いた。
その道のりを学校に向かって全力で駆けた。
自転車を用意する暇はなくバスを待っている時間も惜しかった。何より凡人が本気で走るのであればこの方が早い。
学校への道をひた走りながら凡人は加々見の様子を思い返していた。
彼女が魔女と取引をした、すなわち願い箱を使った側とは考えにくかった。
可能性はゼロではない。しかし二週間の会話や日頃のやり取り、態度、仕草のひとつひとつから分かったことがある。
加々見は願い箱に頼るほど人生を甘く見ていない。
だから見過ごした。
欲望の対象にされる可能性を。
所長とは異なり凡人の目は普通の人間のそれと変わらない。嫌な気配として感じたり違和感を憶えることはあり得るが直接見たところで判断する術はない。
所長の言葉通りであれば願い箱は使われるほど現実を捩じ曲げ使用者の目的を果たさせようとするだろう。
偶然であれば良い。しかし放置できるはずがない。願い箱が使われた場所、電話によって呼び出された加々見、このタイミングのすべてが彼女の危険を指し示していた。
焦り思考を巡らせながら高速で流れる景色を気にも留めず驚いた顔ですれ違った近所の住民を見なかったことにしてあっという間に学校に到着した。
全力疾走しても息を荒くすることなく真っ先に職員室へと駆け込んだ。
いない。国語教師の中村の机を探るが何も無かった。
周囲を見回すと風で飛んだか離れた場所にメモが落ちていた。B館三階の空き教室だ。その方向へ進もうとした瞬間、凡人は凄まじい違和感に苛まれた。
目的地がどこだったのか一瞬意識から消えたのだ。
加々見の姿を思い浮かべた瞬間その不可解な影響力が霧散した。
「人払いか」
口にして強く意識する。
願い箱の効果だと判断した。これで偶然ではありえなくなった。
加々見の窮地が決定的になり凡人は苛立ちを表情に覗かせた。にもかかわらず進む足取りは滑らかで靴音ひとつ立てなかった。足音を消すのは当然だった。
悪い報せだけでもない。願い箱によって凡人の行動もまた支配下に置きうる。しかし絶対ではない。その二点を先に知れたのは僥倖だった。
絶対の意志を翻すには力不足だろう。数を費やせば相応に可能性が引き上げられる。
邪魔が入らないようにするための願いに大量に使われていたら、凡人は空き教室に辿り着くことは出来なかったかもしれない。
手遅れかもしれない。不安を抱えながら凡人はただ急いだ。
空き教室のドアは閉められていた。
構造上気づかれずに中の様子を窺うことは不可能だ。
凡人はあえて力一杯ドアを横にスライドさせた。鍵はかかっていなかった。
半ば予想していたがそこには間島がいた。国語教師の中村もいた。そして加々見が下着姿で間島の前に立っている場面だった。
制服は丁寧に折りたたまれ、近くの床に置かれていた。
「遅かった……」
知らず、凡人の声は漏れた。
加々見の表情は、どこか茫洋としていた。
凡人は静かな目で彼女を眺めた。願い箱の効果は発揮されてしまったのだろう。
心を弄られたのだ。
捩じ曲げられた心が完全に元通りになることは、おそらくない。
それはグチャグチャに潰した空き缶を潰す前の造形に戻すのと同じ困難を伴う。どれほど綺麗に直したとしても潰された痕跡は残り続けるだろう。
身体に手を出された様子はない。まだ完全に裸になったわけではないからだ。しかしそんなものは大した慰めにはならなかった。
加々見は下着姿で立ち尽くしたままぼんやりと三人を視界に収めている。
「なんだてめえ。誰だ? 早苗、おい」
「彼は一年生の平並君だけど……」
中村が首をかしげた。間島は舌打ちした。
「くそ、良いところだったのによ」
凡人が無言で佇んでいると何か思いついたのか間島は愉快そうにした。
「おい一年。おれの女のストリップショーが始まったところだ。君咲だ。一年でもこいつの噂くらい知ってるだろ? せっかくだから見ていけよ。君咲、続けろ」
間島の声がかかるとただひたすらの人形めいた動きでゆっくりとぎこちなくブラジャーのホックを外そうとした。
「君咲さん……」
凡人は加々見を見つめた。下着姿を見られてもこの場に凡人が現れても加々見は無反応だった。
「ギャハハハハ! おいおい、もしかして知り合いかよ」
「今すぐ辞めさせろ」
無駄とは分かっているが間島に告げた。
「あー、無理だな。そいつは自分から脱ぎだしたんだぜ? おれを喜ばせてみろ、って命令したんだよ。そしたらストリップショーが始まったわけだ。つまり、君咲加々見はそうすると男が喜ぶって思ってたわけだ」
間島の声は嘲笑と優越感に満ちていた。
「公彦君」
「なんだ早苗、いま良いところなんだ。奴隷なら奴隷らしく静かにしてろ」
「彼、加々見ちゃんの恋人よ」
凡人のことを見た間島ははっきりとした凶相を浮かべた。すぐさま現状を思い出しその顔はこれ以上無いほどの狂喜に切り替わった。
「ああ、そうか。そうかよ。そういうことか! へ、へへへ。一年、一足遅かったな。君咲加々見はもうおれのオンナなんだよ。分かるか? 分かってねえってツラだな。良いぜ、てめえが何にも分かってねえってんなら、まずはその澄ましたツラをぶち壊してやる! お前みたいなカスじゃ満足出来ねえから、おれに鞍替えしたわけだ! おっ、怒ったのか? 君咲がお前を喜ばすためにストリップショーをしてくれたことがあんのか? あー、そうかそうか。まだヤってないわけだな。じゃあ、さっさと帰れよ負け犬。それとも何だ、こうやっておれに裸を見せたくて仕方のない君咲を見ても、まだ自体が理解できてないモノホンの低能か?」
勝ち誇る間島に凡人は哀れみすら覚えた。
これはもはや手遅れだった。
「なんだその顔。おい、なんでおれをそんな目で見る。おい」
魔女に玩弄された人間の末路はいつも大体同じだ。凡人はこんな風になってしまった人間の残骸をいくつも見てきた。
「願い箱」
たった一言で効果は劇的だった。
煽り方からして凡人が何も知らないと思い込んでいたのだろう。間島は下品な笑いを引っ込めて警戒を露わにする。
「てめえ、なんでそれを」
間島の言葉からいくつか分かったことがある。魔女との取引が何を招くかをこの男は何も知らない。
「まさか、お前も使ってたのか?」
人間はまず自分の秤を使って他者を量ろうとする。
「だから君咲に効きが悪かった……? そうかよ、そういうことだったのか。そりゃ効果が出にくいよな。どうりでおれに靡かないわけだ。チッ、余計なことしやがって。おれがこいつをモノにするために、どれだけ願い箱を使う羽目になったと思ってやがる」
凡人は嘆息した。
「一緒にしないで欲しいね。僕は使ってない。使う必要もなかったしさ」
「はあ?」
「僕としては……放っておいて欲しかったのに君咲さんの方から言い寄られて、毎日毎日付きまとわれて、率直な好意を散々口にされて、積極的すぎて困ってたくらいなんだ。冗談でラブホテル行こうって誘ったら向こうの方が乗り気でね。こっちが戸惑っちゃったよ」
息を吐き出すと間島が何かを呟いていた。
「ざけんな……ざけんなよ……」
「恥ずかしくない? 道具に頼らないと女の子一人口説けないなんて。歯牙にも掛けられてなかったのは、そういうところだと思うなあ。もしかしなくても、そっちの中村先生にも願い箱使ったんだろうね。……あーあ、みっともない」
「クソが! ぶっ殺してやる!」
「おやおや、負け犬の遠吠えが聞こえるなあ」
人間、図星を指されると怒るというのは本当だ。それほど上手な挑発ではないと凡人は思っていたがそれでも間島は激怒し殴りかかってきた。
二週間前にも同じことがあったが間島の記憶には残っていない。
余計な面倒を引き起こさないよう凡人が忘れさせたのだ。仕事の関係上、凡人はそうした特殊な手段を持たされていた。
間島が魔女と取引をしたことを知っていたらその程度では済まさなかった。
だからこれは凡人のミスだ。内心、凡人は烈しい怒りを湛えていた。眼前で暴れ出す間島に対するものよりずっと自分自身に対するそれは大きかった。
加々見を助けることが出来なかった。間に合わなかった。後悔を顔には出さない。間島に付けいる隙を与えたくないからだ。
凡人は本気で殴り返す。
間島はまるでワイヤーアクションの俳優のように教室の端へと派手に吹き飛んだ。壁に打ち付けられ弱々しく身体を起こすと信じられないような顔で見上げてきた。
「僕はさ……感情を動かさないようにって、決めてたんだ」
間島が怪訝な顔をする。凡人も理解させるつもりで語ったわけではなかった。
喋りたかった。加々見と中村は突然始まった殴り合いを前に凍り付いていた。
「こういうお仕事をしてるとね、結構あるんだ。ろくでもないことが。すぐに死にそうな目にも遭ったし。高校にはちゃんと通うって決めてた。両親の――行方不明になった両親の望みだったからね。僕はさ、問題を起こさないように、無難に、普通に、平凡に、でもちゃんと学校生活を送ろうって」
自分に言い聞かせるように凡人は語る。
不気味さを感じ取ったのか間島は立ち上がっても近づいてこない。
「君咲さんはさ、鬱陶しかった」
「何を言い出してやがる」
「でも嫌いじゃなかった。ちょっと困りはしたけれど……楽しかったんだ」
笑顔だった。
何も楽しくなさそうな仮面の笑顔で凡人は告げた。
「君咲さんにひどいことをした分、君に仕返しをしなきゃ気が済まない」
「は? そんなこと」
「黙れクソ野郎」
凡人は近づいてもう一度殴った。間島は反応できなかった。これまでの攻防で分かりきっていたことだ。
殴った。蹴った。叩きつけた。さらにつま先で蹴り上げた。
凡人は動きを止めた間島を冷たく見下ろした。
間島を攻撃したところで元の加々見が戻ってくるわけではない。それでも殴らずにはいられなかった。
突沸した感情を制御するなどまるで出来ていなかった。
自然と加々見の様子を確かめようと視線が彷徨った。
「君咲さん」
分かりやすい反応は戻ってこなかった。凡人が目を離した隙に物音がして振り返ると間島は気絶していなかった。
袋から願い箱を三つ取り出しそれらを開きながら高い声で叫んだ。
「ぶっ殺してやる。ぶっ殺してやる」
願った内容に予想は付いた。身体にまとわりついた何かのせいで凡人の動きが鈍くなる。まるで百キロの重石を両手足に付けられたような違和感があった。
「へ、へへへ。こんだけ使えば十分だろ」
「それで?」
「あ?」
凡人を排除するためには突然心臓が止まるとか教室の床が抜けるなど彼我の差とは無関係な要素を願うべきだった。凡人の動きが鈍ったことで有利と勘違いしたらしく間島が突っ込んできた。その動きに膝を合わせた。
間島はスーパーボールの勢いで天井近くまで高く跳ねた。
綺麗な放物線を描いて落下した先はちょうど中村早苗の目の前だった。
ずっと動かなかった中村が間島を庇うように立ち塞がった。
「どいてください、中村先生」
凡人からすれば彼女はただの被害者でしかない。邪魔をされたとしても暴力に訴えるつもりは一切なかった。
「どかないわ。公彦君は、私の」
腕を伸ばし早苗の頭を掴んだ。引きはがされないように、しかし痛みを与えないよう細心の注意を払った。
「寝ててください、先生。そして……忘れてください」
「な、なにをするの……」
「悪い夢だったんです。全部、何もかも」
凡人が手早く取りだしたのはスプレーノズルのついた小瓶だ。ラベルも何も付いていないシンプルなもので傍目には香水の瓶にしか見えない。
二週間前、間島に吹きかけたのもこれだった。中村の顔にさっと一吹きすると彼女は抵抗空しくそのまま眠りに落ちていった。
膝から崩れ落ちるのを抱き留め彼女を床にそっと降ろしてから気絶した間島に対しても同様の処置を行った。
間島が《欲望の魔女》から願い箱をもたらされたのと同じく凡人もまた《公平の魔女》たる所長から理外の道具を貸与されていた。
一見すると香水の瓶だが噴射された液体に香りはついていない。
所長曰くレテと呼ばれる川の水を詰めたものだという。
これを吹きかけた相手は短い眠りに落ちる。そしていくつかの事象について忘却する。それだけ知っていれば使うには十分だった。
いくらでも悪用は可能だ。願い箱と同じだった。自分の欲望を満たすため、他者を歪めることにこれほど便利な道具はない。
先日、間島に絡まれた諍いの記憶を封じ込めたのはこれを使った。平穏無事な学校生活の妨げになる場合それを排除するために用いることは所長から許可されていた。
本来の使い道は若干異なる。
所長から任じられる仕事上、凡人は他の魔女と関わった被害者や関係者と遭遇することがままあり彼らは大抵の場合不幸な目に遭っている。心に傷を負っている。
その苦痛に満ちた記憶、トラウマになるほど強烈な体験や理不尽で非現実的な現象を目の当たりにしてしまった者たちを日常に戻すため記憶を封印することに用いるのだ。
まっとうな社会生活を送る上で魔女と関与した経験の存在はほとんどの場合、害にしかならない。
記憶処置は凡人が任せられた限りでは一番穏当な手段だった。
意識を失った間島と中村は足下に横たわっている。
窓の外は暗くなりつつあり見ようによってはシュールな光景だった。
「魔女は出て来なかったな……」
そのまま間島の持っていた願い箱入りの袋を回収した。どうしたことかまだ十個以上残っている。
事務所に持ち帰れば所長が上手く処理してくれるはずだった。




