第七話 「箱入り」(底)
1、
二週間はあっという間だった。
学校からの帰り道、凡人と加々見は並んで歩いていた。
駅まではバスが頻繁に行き来しており大半はそちらを使う。自転車通学で二人を追い越す同級生もいるがわざわざ徒歩で下校する生徒となると珍しい。
ここ毎日、下校となると加々見が迎えに来て一緒に帰っている。
「どうしてこうなったんだろう」
凡人の呟きに加々見が快活な笑顔で近づいて腕を絡めてきた。
「そうしたいと思ったからよ」
加々見の恋人であると周知され、あるいは外堀を埋められてからの日々は凄まじく慌ただしかった。
加々見が休み時間に会いに来たり下校時に駅までの道のりを共にする。
それ以外は何もしていない。彼氏彼女と表現するのも烏滸がましいほどに恋人ごっこの範疇から決して踏み出そうとはしなかった。
凡人もそうだが加々見もだ。
今の自分ならここまでは許される。その範囲を見極めていた。
外からは恋人として見られる程度にはしゃぎ、凡人相手には拒絶されないように振る舞う。内外へと配慮した振る舞いの上手さは凡人の比ではなかった。
進展を望んでいない以上加々見の存在は末恐ろしいほどだった。
「君咲さんさ、無防備過ぎますよ」
「加々見って呼んでよ」
凡人当人が不可解に思えるほど加々見の関係は上手くいっていた。
「僕が変な気を起こして、家に連れ込んだらどうします」
「処女が散らされるわね。それで?」
少し恥ずかしそうに、しかし笑顔で受け答えされると言葉に窮するしかない。
「そんなストレートな」
「しないの?」
どうしろと。凡人は天を仰いだ。手に負えなかった。
「するかもしれないから問題がある、って話をしてるんです」
「あのね凡人くん? 普通、高校生にもなって恋人がいたら、エッチくらいするわよ。よっぽど古風な家の娘なら、婚前交渉なんてありえないって言うでしょうけど」
「自分の身体を大事にしてください」
「大事にしまい込んでどうするの。使い所とタイミングを間違えたくないだけよ」
勝ち目がないのだ。当たり前の顔をしてこんなにも真っ当にぶつかってくる彼女に正面から対処する術を持たなかった。
しかもこの会話は端から見た場合、勝ち気な彼女にやり込められている彼氏という実にありふれた光景にしかならない。
「じゃあ今からホテルに行きます?」
「いいわよ」
迂闊だった。少しくらいは逡巡するかと思いきや即答された。
「ごめんなさい。やっぱりナシで」
「この意気地無しっ、と罵るべきかしら。……でも違うのよね。凡人くんなりの距離の取り方だと分かるし、あたしをまだ恋人とは思ってないくせにちゃんとしようとするし」
「女の子なんだし、もう気を遣いましょうよ」
「回りくどい話をしたら、分からないフリで誤魔化すでしょ」
凡人は目を逸らした。
バスが二人を追い越した。玉坂高校の生徒満載だった。嫉妬の視線と女子の歓声にも加々見は気にした様子がない。
「その喋り方なんなの。もっと気楽に喋ってよ」
「いえ、素です」
「嘘」
確信を持った表情だった。
「何を証拠に」
「間島君相手にタメ語で挑発してたじゃない。凡人くんだって、本気で年上相手に敬ってるわけじゃない。それくらいは分かってるのよ」
「いつになく切り込んできますね」
「二週間目だからね。そろそろ進展が欲しいのよ」
じっと見られて凡人は困惑した。
最初から分かっていた。加々見にとっては遊びのつもりではないのだと。
途中で飽きたり諦めたりはまずしないだろうと。
「……分かったよ。これでいいかな」
「ええ。そうよ。それでいいのよ。ふふ、ふふふっ」
加々見は嬉しくて仕方がないと言いたげに顔をほころばせた。
駅前の繁華街が見えてきた頃合いで加々見が突然言い出した。
「というわけで、今日これからデートしましょう!」
「ごめん無理。忙しいから」
「ああ、一歩前進したと思ったのに!」
わざとらしくショックを受けた加々見に凡人は冷たく告げた。
「君咲さんも知ってたでしょ。僕がバイトしてるって」
「知ってたけど、ですます調を辞めたついでに、加々見って呼んでよ」
「それはちょっと」
「じゃあ、そろそろ住所を教えてくれない? もしくはバイト先。せっかくだし、終わるまで待ってるわ」
「却下」
「凡人くん。こっそり追いかけるわよ?」
「しないでしょ」
凡人は嘆息し加々見は苦笑した。
「まあ、そうなんだけどね。凡人くんが自分で教えてくれる気にならないと……聞いたって意味が無いもの」
実際バイト先を知ろうと思えば容易かった。凡人の現住所についても教師から聞き出せばすぐに調べは付く。加々見なら探り当てることは容易いだろう。
それをしないのは加々見が凡人との関係を続けるために必要だと考えた一線を越えるからだった。
目に見えないし口にも出していないはずのデッドラインを加々見はどうやってか理解しており、それを飛び越えようとは一度足りともしなかった。
二週間は長いようで短い。
しかしその許容範囲がじわじわと広がっていることに凡人自身気づいていたし、加々見も察知していた。だからこそ先ほどの要求がされ、それを凡人も呑んだ。
一歩ずつ、着実に。
これが二人のペースなのだと他人に告げれば変な顔をされるだろう。一般的とは言い難い進捗だった。
「でも、もうすぐよ」
何がと凡人が尋ねるより早く加々見の笑顔が輝いた。
「凡人くんも早いところ素直になった方がいいわよ」
「すごい自信だよね。何をどうしたらそんな風に思うのやら」
「こんなあたし、凡人くんを相手にしているときだけよ」
凡人はただ長々と息を吐き続けた。
2、
駅前でいつものように別れる。加々見は駅構内へ、凡人は別の方角へと向かう。
「ちなみに何のバイトしてるのかは、聞いてもいい?」
「えーと、雑用」
職種を聞かれたことは分かっていた。あえて答えをはぐらかしたが加々見は面白そうに笑った。
仕事内容の明言を避けた段階で何か隠していることがあると知らしめている。口にしてから凡人は気がついた。加々見の追求はなかった。
「また明日……ん?」
加々見が表情を曇らせる。視線の先には間島の姿があった。スクールバスではなく市営のバス停留所で待っていた彼はどうしたことか私服だった。
聞けば、間島はあれ以来、加々見に一切近づいてこなかったらしい。
「サボりかしら。今日も学校に来てた様子がなかったし」
加々見が怪訝そうに呟いた。遠目に見ていると間島はバスに乗りこんでなぜか学校の方角へと去っていった。
「河内先生、しっかり罰を与えたって言ってたけど……具体的な内容、何も聞かされなかったような」
「妙だね」
「完っ全に忘れてたわ……後で報告してくれるって話だったのに一度も聞いた覚えがないし。河内先生ってそういう嘘は付かないタイプだと思ったけど」
首を傾げる加々見に凡人は間島の乗ったバスの行方を目で追った。
「目を付けられてるのにサボるって、おかしな話ね」
「あ、バイトの時間が迫ってる!」
「ギリギリなの?」
「割と」
凡人は距離を作ろうとする。加々見は距離を分かっている。この恋人ごっこはだからこそ破綻していない。
それは心地よくはあったが凡人にとっては強烈な毒だった。歩みを止める恐るべき優しさの沼だった。
ママゴトめいた恋の終わりを凡人が想定している最中、ピピピピピと加々見の携帯電話が鳴り響いた。
「着メロじゃないんだ」
「友達の番号には好きな曲を設定してるわよ。……あれ? これって」
加々見が電話に出ると眉をひそめた。
「はい。え、今日じゃないとダメ、ですか。理由は……そうですか、分かりました。じゃあ今から引き返しますので、はい。はい、わざわざすみませんでした。では」
通話が終わると加々見が携帯電話の画面を見つめ動かなくなった。
「どうしたの」
「中村先生からだったわ。この間の件で、大事な話があるから来て欲しいって」
「へえ。教師に携帯の番号を教えてるんだ」
「中村先生だけよ。ああ……連絡が来たのは河内先生じゃなかったのは、だからかも」
加々見はふと思いついた顔で尋ねてくる。
「凡人くんの番号、そろそろ教えてくれるつもりになった?」
「あ、時間がない! 僕はこれで」
「待って! これだけ持って行って!」
加々見は胸ポケットから一枚の紙片を取りだした。電話番号を書いたメモだった。話しながら書いたわけではなく以前から渡すタイミングを窺っていたようだ。
凡人は躊躇した。加々見が初めて凡人が許容していた距離感より前に踏み込んできたことに気づいたからだ。
受け取らないことは容易かった。加々見の表情こそ笑顔だったがその裏側にかすかな怯えが混じっていた。
先ほど終わりを意識した。加々見はそれを敏感に感じ取ったのかもしれなかった。
当たり前のように振る舞う加々見も瞬間ごとに勇気を振り絞っている。
ずっと目を背けていた事実を突きつけられた気がして凡人は動揺した。それまで何度となく繕ってきた仮面ではなく、演技でもなく、本当に感情がぐらついたのだ。
「……分かった。じゃあ」
「うん、じゃあ、また明日」
最初の邂逅とは異なる意味で、しかし余程密度の高い緊張に晒されて二人はぎこちなく動きながら道を違えた。
色を変えつつある空の下すれ違いながらかみ合う彼と彼女はひとときの別れに振り返りもせず足早に去っていった。
3、
問題の内容からも、話をする相手が中村であることも相まって、加々見はまさか間島に引き合わされることはないだろうと考えた。
次のバスはすぐに来た。それを避けて、さらにその後のバスを待った。
学校は静かだった。
放課後になってから一時間が過ぎた程度だが、加々見は急ぎ職員室に向かった。
どういうわけか、誰ともすれ違わなかった。職員室の中を覗く。不用心にも、教師の姿すら見当たらなかった。
(何か、おかしいんだけど……まさか、ね)
国語教師の中村の姿すら見つからない。彼女の仕事机を覗くと、書き置きがあった。
B館三階にある空き教室で待っていると書かれていた。
加々見は首をかしげ、時間の早さを感じながらも、その場所を目指した。
つい二週間前。もう二週間も前のことだ。凡人との出会いを思い返す場所だった。
偶然とはいえ、なんだか不思議な感じがする。
呼び出された場所の近くには美術室や音楽室など連なっており、放課後には文化系の部活動も行われている。
(中村先生、どっかの顧問でもしてたかしら)
一度、連絡通路のガラス窓から差し込んだ光に足を止めた。
窓の向こうに覗いた空には薄雲が広がり、その裏側には太陽を押し込めたような疲れた色があった。
四時過ぎの薄暗さと明るさが綯い交ぜになった、ぱっとしない曇天だった。
加々見は違和感を取り戻した。先ほどかかってきた電話についてだ。
「ひどく申し訳なさそうに言われたからつい頷いたけど、やっぱり何か妙ね」
空き教室を目前にして、言葉にすると、疑問はよりハッキリとした。
加々見を、こうして下校後に呼びつける。
教師の行いとしても事情を考慮しても何か異様だった。それに、この問題の責任者は河内であろう。中村は事情を知っているが、矢面に立って加々見と話す理由にはならない。
特に不可解なのは、いつもの自分であるなら、その不審をそのままにして素直に従ったりするはずがない。この点だった。
ここまで来て引き返す選択肢は無かったが、ドアを開く前に、一呼吸置いた。
携帯電話を取りだして、いくつか操作をする。
電話番号は無理でも、せめてメールアドレスだけでも聞いておくべきだった。加々見は大いに後悔した。
空き教室のドアは閉まっている。
手を掛け、横に滑らせた。加々見は唖然とした。あまりの光景を前に、反射的に足を踏み入れてしまった。
(なに、これ)
男女がまぐわう姿だった。
放課後の空き教室とはいえ、この時間なら、まだ校舎に人が残っているはずだ。
男の顔が見えた。間島だった。椅子に座っている。
それに跨がったスーツ姿の女がいた。行為に及んでいる理由も状況も、さっぱり意味が分からなかった。
目を逸らすことも、逃げ出すことも、なぜか出来なかった。
女の服装には見覚えがあった。声にも。顔にも。
中村だった。加々見を呼びだした国語教師の中村が、間島と絡み合い、見たこともない表情で気持ちよさそうに声を上げている。
「何を――」
加々見が入ってきたことに気づいていた。間島の笑い声が響いた。
「早苗、もういいぞ」
「公彦くん……」
間島の言葉に素直に従って身体を離すと、まず脱ぎ捨ててあった下着を身につけ、それから加々見に振り返り、意味ありげな視線を送ってきた。申し訳なさそうな様子はない。
遅れて間島も立ち上がり、ズボンのジッパーをゆっくりと上げた。
中村の所作と痴態は、無理矢理には見えなかった。
「君咲が遅かったから、この女で遊んでたぜ」
おかしかった。何もかもがおかしかった。
叫び声を上げようとした。だが、出ない。頭を切り替えた。逃げるしかない。
加々見の足は教室の床に張り付いて動かなかった。
接着剤が付いているわけでもなく、何かに掴まれているわけでもなかった。なのに足は動かない。どれほど力を入れても持ち上がらない。
身体まで動かなくなってきた。
唯一自由になるのは目蓋だけだ。
向けられた間島の笑みと視線は、吐き気を催すほど醜悪だった。
「ごめんなさい、加々見ちゃん。私、公彦君にお願いされたら逆らえないの」
「……とまあ、こういうわけだ」
勝ち誇った顔に、声に、言い知れぬ卑しさが満ちている。
「さあ君咲、いいかげん諦めて、俺のモノになれよ」
おぞましい。これが人間の顔か。
顔をしかめる自由すらないが、加々見は間島だったものを目の当たりにした。二週間前はまだ人間だった。
今はもはや、その残骸でしかなかった。
支配欲と所有欲、あとは優越感が適度にブレンドされた目つき。
斜め後ろに控え、間島を止めることを考えもしない彼女は、まるで奴隷だった。
優しかった国語教師はもはや見る影もなく、人間としての尊厳を失ってしまった。
中村早苗は言葉通り、間島のモノとなってしまった。つい先日まで、加々見が好ましいと思っていた教師はもういない。
ありえるだろうか。三つ子の魂百まで、なんて言葉があるように、人間の性根というのはそう容易くは変えられない。行動にはパターンが存在する。どんな人間であっても、長い年月を経てしか変化し得ない部分がある。
そこが、これ以上無いほどに歪んでいる。間島公彦も、中村早苗も、この短い期間でここまで極端に狂うものだろうか。
(中村先生は、もう……。自分が逃げることを考えないと)
間島の自信も奇妙だった。この間もそうだった。
加々見の意志など無関係だと言いたげな、その薄気味悪いほどの眼差し。未来が自分の思い通りになると確信しているような表情。
加々見が今、動けないことの理屈も全く分からなかった。起きたこと、この状況、すべての根っこは繋がっている。それだけは確かだった。
間島は片手をポケットの中に入れ、もう片手で加々見のあごを軽く持ち上げる。
キスしやすいように。
加々見の身体は自由にならない。間島の手で、いいようにされている。
声は出ない。手も動かない。振り払うことはおろか、顔を背けることすらできない。
鼻息を荒くした間島の顔が近くなる。
鳥肌が立った。
間島の湿った唇と、己のくちびるが触れ合う。想像するだけで背筋が凍る。
(イヤ……やめてっ)
こんな男に唇を奪われるくらいなら、蛇やナメクジと口づけする方を選ぶ。加々見は避け得ない感触を想像することすら嫌悪した。
(ごめん……凡人くん)
強い思いとは裏腹に、身体が動いてくれない。
(こんなことなら、ファーストキス、さっさとあげておくんだった……)
凡人からしてくれるよう、仕向けるつもりだった。そのための作戦もあった。明るい未来の計画をわくわくしながら考えていた。
加々見は、甘酸っぱい恋の味を、ずっと想像していた。その日が来たら、苺とかレモンを先に食べておこうか。そんな夢想に浸るときもあった。
間島の顔が寄ってくる。鼻先がくっつきそうになる。身の毛がよだつ。
それでも諦めることはしなかった。身体が動く瞬間があれば、股間に蹴りを入れる。その心意気だけは残した。
「おい、なんだその目は」
加々見に残された自由はふたつ。ひとつは思考、もう一つは目だ。
もちろん敵意を露わにすることで、これから自分の身に降りかかるであろう不幸が激化する危険性は理解していた。それでも屈することは出来なかった。
「くそ。まさか、まだ効いてねえのかよ……どうなってやがる」
間島がよろめいて、数歩後ろに下がった。しかし、それだけだ。
状況が改善したわけではなく、加々見の身体も動かないままだった。
少し考えたあと、間島は皮肉そうに口元をつり上げた。
「ああ、そうだったな」
くつくつと笑い、中村を指し示す。
「なあ君咲。そこの馬鹿女が、どうしておれのモノになったか。知りたいだろ」
中村は表情を変えなかった。まさしく主人と奴隷、あるいは所有物であるかのような振る舞いだった。
情愛により道を過った。そうであればどんなに救われたか。
中村の幸せそうな顔を見て、加々見は初めて恐怖した。加々見をどうしたいのか。彼女の有り様が、言葉よりもよほど雄弁に語っていた。
間島は丈夫そうな布袋を取りだした。袋を開き、中に手を突っ込んだ。そして加々見に見せつけるように手のひらを拡げる。
血の塊が見えた。最初、加々見はそう思った。
小さく真っ赤な立方体であることを認識させた上で、間島は言った。
「願い箱だ。こいつを使うと、願いが叶う」
加々見は呆れた。信じなかったからではなく真実だと理解した。平素であれば狂人の戯言だと笑い飛ばした。しかし現実はこうだ。素直に認めなければならない。
「たとえば君咲。一度は帰ろうとしたお前が、こうして学校に戻ってきたのも、おれたちの計画に邪魔が入らないのも、今お前が動けなくなっているのも、全部こいつの力だ」
助けが来ない理由が判明した。
たいていの場合、恐怖は未知から生まれる。加々見にとっては直面していた理不尽のくびきをひとつ、敵の手で外してもらったようなものだった。
「叶えることが困難な願いであれば、願い箱をいくつも使う必要がある。価値があるもんには大金を払わなきゃなんねえのと同じだ」
加々見は己を律した。目には怯えを浮かべ、語り続ける男の失敗を探し続ける。
「君咲一人を呼び寄せて、この状況を作る。そのために三つも使っちまった」
間島はどんどんテンションを上げてゆく。
「おれはな、君咲加々見。お前の心が欲しいんだよ。身体を操って奉仕させるのは、そんなに難しいことじゃない。けどよ、その目。……その目だ。おれを見下してんだろ。おれなんかに全く興味がないって目だ! おれのことなんざ、どうでもいいって思ってる目だっ!」
加々見を見る、その眼差し。
人間を見ているとは思えない、空虚で、しかし固執に満ちた瞳の暗い輝き。
「なあ君咲、おれは、お前がおれのモノになるように願う。一個じゃ足りないのは最初から分かってる。二週間前に、おれは五つも願い箱を使ったんだ。君咲を堕とすには足りなかったみたいだがな……」
加々見がこの場にいることが、それを証明している。
すべての願いが叶うわけではない。奇しくも、間島の言葉は加々見に希望を与えた。それこそが間島の思惑だった。
奪うためには、まず与えよ。
間島は中村早苗を指さし、嘲るように告げた。
「見ろよ、こいつ。堕ちるまでに必要だった数は三つだ。おれの言うことはすぐになんでも聞くようになった。願い箱を使った途端いきなり牝の顔になって、最初の言葉は『私は公彦君のモノです。どうぞ、私の処女を受け取ってください』だったな」
あえて、そう言わせたのだろう。中村は誇らしげに、間島の言葉を聞いている。控えめに聞いても狂っている。
「真面目でお優しくて生徒に人気なアラサー処女で美人な国語教師は、たった三つの願い箱だけで、おれの上で腰を振って喘ぐ淫乱に早変わりしたわけだ」
中村は表情を変えなかった。
あの中村が、たった三つの願い箱で、あんな風に変わってしまった。
何個までなら、耐えられるのか。
「は、ははは。そうだよな。いくら強気な顔をしても、怖いよな。気になるよなあ。おれがあといくつ願い箱を持ってるのかって」
間島は言った。
「最低でも五個以上あるってことだけは教えてやる。さあ、本当は十個か、二十個か、それとも五十個あるのか……」
ゆっくりと近づいて、手のひらの上で願い箱を弄ぶ間島。
「まずは一つめだ」
深紅の箱が開いた。
何かが漏れ出てくる。目には見えない。しかし確かに存在する何か。それは君咲加々見という存在を大本から書き換えようとして、身体の中へと潜り込んできた。
(最悪ね。反吐が出そう……)
喉や胸、内臓や脳、あちこちを掻き毟りたくなる異物感が、加々見の肉体の端から端までを染め上げていた。
爪の先、その隙間の柔らかな肉から入り込んでくる感触があった。抵抗しているからこそ感じる不快さだ。内実を教えられなければ、加々見は己の心が捩じ曲げられている感覚になど気づかなかった。もしかしたら気づかないうちに、ゆっくりと浸食されていた。あるいは知らないうちに戻れない形にまで変質させられていたのかもしれない。
知ったところで対処する方法が思い浮かばなかった。
心を強く保つこと。耐えること。加々見に許された唯一の抵抗だった。
加々見の精神が書き換えられ、すっかり間島のモノと成りはてて、それに喜びを感じるような改造が完了するまで手は出されないだろう。しかし、救援の可能性がない籠城が悪手であることなど最初から分かりきっている。
苦悶の表情を浮かべる加々見を見て、間島は愉悦を隠さなかった。
「おいおい、まだ一つしか使ってないぜ。……ラッキーだな。前に使った分は無駄になったわけじゃなかったのか。機能する最低限の量に足りてなかっただけか」
口に出したのは、加々見の絶望を後押しするためだ。
「もしかすると、あと二つ三つで限界かもな。せっかく大量に用意したのに……」
頭がおかしくなりそうだった。
むずがゆくて、切なくて、どうかしていた。
そしてまた、間島の別の狙いにも気づいた。気づいてしまった。
これまで行われていたのは静かな侵略に似ていた。知った瞬間から加々見が必死に抗っているが、願い箱はこの反抗を正面から押しつぶそうとしている。
だからこそ加々見当人に分かるかたちで主導権争いをしている。もし一度でも心が折れてしまったなら、それだけ容易く加々見の心は変質してしまうだろう。
間島は二つ目の箱を開いた。
「どこまで我慢出来るか、愉しませてもらうぜ」
加々見の内側で、わけのわからないものに心が犯されていく感覚が始まる。
大事な部分を汚い手で弄くり回されて、土足で大事な場所を踏みにじられて、しかし助けを求めることも反撃することも出来ないままに、無力感に苛まれ続けている。
化け物の笑顔が、加々見を傲然と見下ろしている。
「なあ君咲。お前は自分の意志で、心からこう言うんだ」
聞きたくなかった。だが耳を塞ぐことすら今の加々見には許されない。
「抱いてください間島君、ってな」




