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等閑わるぷるぎす  作者: 三澤いづみ
「Pandora's BOX」編

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4/11

第三話 「箱の前」(下)

5、

 凡人が痛そうに顔をしかめる隣で間島は気を失って壁にもたれていた。

「おい、まさか」

 怪訝そうにしたのは加々見が連れてきた教師だった。河内という名前の体育教師で、スポーツ刈り、体格はがっしりとしている。

 加々見が心配そうに見てくる。河内はまず間島の状態を確かめた。ぴくりとも動かない間島の脈を取りまぶたを開かせ耳を当てて呼吸を確かめ、安心して立ち上がった。

「気を失ってるな。平並……がやったとも思えんが、何があった」

「キックを避けただけです」

「自分でひっくり返った、か。おい間島、聞こえるか? ……ダメだな。とりあえず保健室に連れて行く。二人はまず自分のクラスに戻れ。で、担当の先生に事情を話して、それから職員室に来いよ。話はそっちで聞く」

 河内は納得したように頷いて間島の身体を軽々と持ち上げた。

 加々見からある程度は聞いていたのだろう。

 凡人の様子にも気を配っていた。元より強く疑ったわけではないのだろうが間島の身体もさっと見て喧嘩の痕跡が無いことを確かめた。

 河内の言葉に従い凡人と加々見は一度自分の教室へと帰った。


 職員室に向かうと加々見が先に来て待っていた。河内の姿は見当たらなかった。

 紙コップに息を吹きかけている姿を見て女教師が笑う。

「加々見ちゃん、猫舌なのね」

「ええ、まあ」

 職員室では数人の教師が待機していた。

 加々見と一緒にお茶を飲んでいるのは国語教師の中村だった。

 凡人には真面目な先生という印象がある。忙しそうにしていても凡人を見て用事を押しつけたりはしない数少ない教師の一人だった。

「あ、凡人くん」

「聞いたわよ、平並君。災難だったわね。……お茶、飲む?」

「いただきます」

 紙コップを手ずから渡された。彼女の机の上には無数のプリントが山と積まれており電気ケトルと急須の場所だけが空白地帯だった。

「それで平並君、加々見ちゃんと付き合ってるんだって?」

 加々見が吹き出した。脈絡のない質問過ぎた。

「うちの学校は不純異性交遊禁止だから……そういう行為はしちゃダメなのよ。もちろん青春は大事よ。先生もね、恋って素敵なことだと思うの。だからあんまりうるさく言うつもりは無いのよ? ただね、あなたたちは高校生。まだまだ高校生で、未成年なのよ。大人になるまで無責任なことはしちゃいけないの。分かるわね?」

 答えようがない。加々見を見た。困っていた。凡人は反論の糸口を探そうとしたがそれより早く中村が目を細めた。

「交際は咎めないけど、子供が出来るような行為は慎みなさい。先生との約束よ?」

「僕たち、そういう関係じゃありませんから」

「ホントに?」

「はい」

「天地神明に誓って?」

「ええ」

「……痴情のもつれで喧嘩したって聞いたけど」

 加々見が困り果てた様子で目を伏せる。

「ですから……まだ違うって、さっきも言いました。凡人くんには階段から落ちそうなところを助けてもらったんです。いわば命の恩人なんです」

「でも、加々見ちゃんが下の名前で呼ぶ相手、これまで一人もいなかったわ」

「まだ、違うんです」

 加々見が強調した。

「あ、ああ、そうなのね! そういうことなのね! あら、あらあら。先生ちょっと早とちりしちゃったわ。……恋は素敵なことよ。ええ、加々見ちゃん、頑張って」

 凡人は頭を抱えた。

 予想して然るべきだった。間島の乱入があって有耶無耶になっていたが加々見との問題は何ら解決していなかった。むしろ逃げ場が減ったとも言える。

「で、どうなの平並君? 加々見ちゃんにここまで言わせたんだもの、ねえ?」

 中村の無責任な応援に加々見が笑った。ぞくりと背筋が震えた。職員室の微妙な空気に当てられて余計なことを言う前に凡人は肩をすくめて軽口を叩いた。

「いや、僕じゃ釣り合いませんから」

「それは、あたしが下ってこと?」

 加々見が悪戯っぽく言葉尻を捉えた。目は真剣だった。凡人は自分の失言を悟った。思った以上に気持ちが緩んでいる。加々見からそう聞かれた場合、

「そんなことは」

 と否定するしかない。

 袋小路に誘い込まれたのだ。他の解答は許されなかった。

 加々見は強かだった。なにしろ論戦舌戦は凡人の主戦場ではない。こうした遠回しな戦いかたをするとなれば加々見に軍配が上がった。

「じゃあ、あたしが美少女で、凡人くんが普通だから釣り合わないって? ありえないわね。理由にもならない」

 どういう意味でか凡人は具体的に聞けなかった。

 ここが職員室でなければ、あるいは先ほどの出来事がなければ逃走を図るのが最善だった。凡人が黙り込んだのを良いことに加々見は詰めろを仕掛けてきた。

「凡人くん。あたしと付き合って」

「どこまで?」

「ベタな返しをありがとう。そういう冗談で誤魔化そうとするのは……あたしと付き合うのは絶対にイヤってこと?」

 ここで嫌と言えたらどんなに容易いか。

 国語教師の中村はキラキラした目でやり取りを見守っていた。一応は止める立場だろうと突っ込めないこの悲しさ。どうやら恋愛について一家言あるらしいがどう考えても凡人の味方ではなかった。

 上手な断り文句を用いるには経験が不足していた。どう答えても都合が悪かった。加えて率直な主張を出来る状態でもなかった。

 詰んでいた。

「無理、というか」

「無理じゃないわ。あたしは、凡人くんのことが気になって仕方ないもの」

「周囲からの嫉妬もありますし」

「恋は戦いよ。外交も戦争の一種ね。つまり根回しすればいいのよ」

 それは今のこの状況を指し示しているのか。

 勝ち目のない争いに持ち込まれて泥沼になる前に抜け出さなければならない。

 撤退戦は常に悲惨だ。

 どれほど頑張っても決して勝利の栄誉にはありつけずただひたすら消耗と被害を抑えみっともなくせこく逃げ惑いながら最後の一線を守らねばならない。

 中村も緊張感を察してくれたようで不思議そうな顔をして二人の表情を見比べるが、しかし疑問をあっさり放り投げてしまった。

「えーと、加々見ちゃん?」

「先生。今、大事な場面なんです。邪魔しないでください」

「……そうよねー」

 一顧だにせず切り捨てられ中村は小さくなってしまった。

 凡人は縋るような目で中村を見た。

「先生!」

「平並君、加々見ちゃんは良い子よ」

 やはり敵だった。

「不純異性交遊禁止の校則が!」

 凡人が咄嗟に小声で叫ぶと加々見が即座に封殺してきた。

「健全なお付き合いの予定です。あたし……不純な気持ちなんかじゃないわ」

 予定は変わるものだ。純粋だから良いというものでもない。

 そもそも加々見の表情は恋する乙女のそれではない。獲物に食らいついて離さないと決めた飢えた猛禽にそっくりだ。

 凡人は哀れな草食動物だった。

 じりじりと近づいてくる加々見の魔の手と顔に凡人はついに恥も外聞もなく逃げ出すしかないと心を決めた。

 遁走を実行に移す直前になって異なる人影が横から顔を出した。

「お前らー、職員室で騒ぐなよ。中村先生も止めてくださいよ」

 凡人は入学してから初めて河内が救いの神に見えた。



 中村が近くの席を勧めた。河内は座って会話に入ってきた。

「間島が目を覚ましたんでな、話は聞いた。やけに素直に答えたが……君咲から聞いた話とほとんど一緒だったな。まあ、若干違う部分はあったが、被害者と加害者だ。それくらいの齟齬はあるだろう」

「大丈夫でした?」

 加々見が心配そうに聞いた。

「一年生と揉めたことはあっさり認めたぞ。一方的に殴ったこともな。ただ、頭を打った衝撃で記憶が飛んだのかもしれん。平並の名前は出て来なかったし、顔の特徴を聞いても曖昧だった。あとで病院に行かせるつもりだが……」

 加々見が深刻な顔で告げた。

「じゃあ、凡人くんの名前はそのまま伏せておいた方が……」

「その方がいいかもな。まあ、ぼんやりしてたから、後で思い出すかもしれんが。あんなに素直に答えるとは思ってなかったから驚いたくらいだ」

 河内は大きくため息をついた。

「で、平並。相談がある」

 河内は申し訳なさそうに頭を下げて、それから声を潜めた。

「あいつの処分、あんまり厳しくしたくないんだが……」

「構いませんよ」

「もちろんだ」

 無理を言われてそれに応える。凡人にとっては慣れたものだ。

「悪いな。……君咲も、いいか」

「よくありません」

 加々見は眉をひそめていた。

 凡人にも読めた思惑が加々見に分からないはずもなかった。

 河内はぎょっとした。加々見の普段を凡人は知らないが教師側が想定していた反応ではなかったのだろう。

 中村も唖然としている。

「本来は退学もありうる案件ですよね、これ。どんなに軽く見積もっても停学にならなきゃおかしいと思うんですが」

「いや、それは」

 河内は困った顔で同僚に助けを求めていた。

「傷害罪は歴とした犯罪ですよ、河内先生」

「でもな、君咲。この時期に停学となると、間島も」

「どうして被害者の凡人くんが加害者の将来を心配しなきゃいけないんですか? おかしなことを言ってる自覚、あります? 中村先生もそれで良いと思いますか?」

 加々見は淡々と語った。

 河内は困った。巻き込まれた中村も困惑していた。

「加々見ちゃん、気持ちは分かるけど、ね」

「あたしは凡人くんの味方ですから!」

 凡人は、やられた、と思った。

 職員室に残っている他の教師の視線も集まっていた。

 中村は同情的な顔で河内は難しい表情で、そして加々見は悔しそうに凡人を庇った――という名目であからさまな既成事実を作った。

 たった今、教師陣相手に。

 凡人の負けだ。明快に、明白に、加々見の立場は決定的となっていた。



 状況作りが終わると加々見はさっさと言を翻した。

「けど、表立っての処分はナシってだけ……ですよね?」

「あ、ああ」

 河内が拍子抜けしたように頷いたのを確認し加々見は微笑んだ。

 すでに目標を達成したのだ。あとは素早く逃げるのみ。

 完全に電撃戦だった。

「なら理解します。……でも河内先生、凡人くんの気持ちも考えてあげてください」

 恩まで押しつけるこの手腕。末恐ろしいほどった。

「そうだな、平並からすれば間島はイヤなだけのやつか……。あいつ、最初はそんなに悪いやつじゃなかったんだ。去年、俺が受け持った生徒でな――」

 河内の長話を聞き流した。

「――とにかく、今後付きまとったりはしないよう間島には言い含めておく。退学や停学にしないだけで、反省するようにペナルティもちゃんと付ける。それでいいか」

「あたしじゃなくて、それは凡人くんに」

「そう、だな。平並。勝手な都合を押しつけて、すまん」

 内申書に書かないだけで相応の罰は下されるらしい。

 河内の裁量次第ではあるが凡人はこれ以上騒ぎ立てるつもりはなかった。顔も名前も忘れられた以上、間島は二度と関わることがない相手だった。

 加々見も目論見が上手くいってかご満悦だった。

 中村の表情だけが曇っていた。

「どうしました、中村先生。何かあります?」

 河内が聞くと慌てたように視線を彷徨わせそれから不安そうにした。

「いえ、その、この二人が一緒にいる場面を……彼が目撃したら、また突っかかっていっちゃうのではないかと思いまして」

「ああ、付き合いだしたのかお前ら」

 加々見の策略通りに河内がそう受け止めていた。

「いえ、そういうわけでは」

 凡人が否定する言葉を遮って加々見が楽しげに後を引き取った。

「返事待ちの状態なんです」

 河内は爽やかな笑みを浮かべた。

「そうか、分かった。避妊だけは絶対にしろよ! 先生との約束だ!」

「河内先生、もう少し言葉をオブラートに包みましょうね……」

「あ、その、保健体育が担当教科のわたしとしては、こういうことはきちんと言っておかねばならないことでして、その、中村先生、今のは」

 凡人と加々見を追い払うように河内は手を振った。

「あっと、お前ら、もう戻っていいぞ」

 河内の誤魔化し笑いは何とも言えない哀愁に満ちていた。



 職員室から出て静かな廊下を二人並んで歩いていた。

 凡人と加々見が向かう先はそれぞれ別の校舎だ。さりげなく別れようと凡人が向きを変えたのを見て隣から呟くような声が聞こえた。

「有耶無耶になってないわよ。安心して」

 加々見の表情には笑みが浮かんでいる。

 ここには聞耳を立てる者も通りすがる者もいない。学校の中に存在する空白の時間帯に留まって二人きりで話をする。

「もう一度、聞くわ」

「……どうぞ」

「どうしてあたしを助けてくれたの?」

 凡人は黙った。

 嘘の代わりに正直な沈黙を答えとした。

「そうよね。そんな気はしたのよ。凡人くん、あたしが落ちるのを見て、最初は助けようとは思ってなかったでしょ。助けたいとも考えなかった」

 凡人が足を止めた。加々見はもう少し先まで歩いていって振り返った。

 四メートルの距離を取って正面からまっすぐ対峙した。

「でも、助けてくれた」

 笑顔だ。

 加々見は眩しい笑顔で舌打ちした。

 凡人は困ったように首を振った。縦でも横でもない曖昧な意思表示。

「君咲さん」

「加々見で良いわよ。言葉使いも普段通りで結構」

 静かな口調には怒りが混じっている。声は優しくひどく鋭い。

「何が言いたいんでしょう」

「分からない?」

「うん、まあ」

 加々見が一歩近づいてくる。まだ三メートルあった。

 凡人は立ち尽くしたままだ。

「仮面をかぶってるままじゃ、女心が分からないってことよ」

 凡人は首をかしげた。別の言葉を突きつけられると考えていたからだ。加々見は少しだけ歩を進めた。

「普通にしてただけなのに?」

「普通の人間なんて、この世には一人だっていないわ」

「そうですかね」

「でなければ、普通の人間しかいないのよ」

 残り二メートル。

「お礼代わりに教えてあげるわ。義務感で助けられるくらいなら、下心で助けてもらった方が嬉しい場合だってある」

「なるほど。で、それが?」

「だから、あたしと付き合いなさい」

 透き通った声が響いた。言葉の意味は分かる。しかし凡人は目を丸くした。

 前後のつながりが全く理解できなかった。

 加々見の表情は勝ち誇ったものだった。追撃は素早かった。

「ちょっと待って。どうしてそうなるのか分からない」

 加々見は鼻で笑った。

「凡人くんは、あたしを好きと言えるように最大限の努力をしなさい。あたしも凡人くんを好きになるため全力を尽くすわ。これでおあいこね」

「……いや、いやいや。待って」

「ねえ、凡人くん。自分で気づいてないでしょうけど、教えてあげる」

「気づいてないって、何を」

「あたしのこと、好きでしょ」

 凡人は本気でうろたえた。加々見の目は嫌になるほど真剣だった。

 心と恋は似ている。

 どちらも不思議で、自由で、決して思い通りになってはくれない。

 あと、一メートル。

 凡人は手を差し出してくる加々見をじっと見つめた。こうも真正面から突破されてしまっては太刀打ちできない。

 最初から勝ち目はなかった。凡人にはその光景が鮮明に見えた。

 加々見は自分のクラスに来て今以上に盛大な告白を行って凡人は為す術もなく追い詰められるに違いなかった。

 吐息ひとつ分のためらいは彼女の勢いに吹き飛ばされた。

 さっと距離を詰めてうっすら頬を赤らめて。

 包み込むような眼差しでするりと凡人の懐に入り込むと、潤んだ瞳の上目遣いのまま君咲加々見は囁くように言ったのだ。

「さあ、恋をしましょう!」


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