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等閑わるぷるぎす  作者: 三澤いづみ
「Pandora's BOX」編

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3/11

第二話 「箱の前」(中)

3、

 君咲加々見(きみさきかがみ)は悲鳴を上げなかった。鈍い音も響かなかった。何の痛みも衝撃もなかったことに気づいて、おそるおそる目を開けた。

 見知らぬ顔――いや、先ほど眼下に見下ろしたばかりの顔があった。

「え?」

 間の抜けた声を発してしまった。

 彼は顔を赤くしていた。もう限界と言いたげな表情も見せていた。

 加々見は見下ろされていた。

 位置関係がおかしい。そう考えるより先に、彼が口を開いた。

「は、早くバランスを取って」

 手を掴まれていた。いつの間にか上下が入れ替わっていた。

 彼は階段の上、加々見がその数段下の位置にいる。頭を庇うために伸ばした手が力強く握りしめられていた。

 斜め懸垂だ。加々見は状況を弁えず気楽な感想を抱いていた。

 いくら小柄で華奢な加々見といえど四十キロ以上ある。にもかかわらず、さほど筋肉があるようには見えない彼の片腕だけで加々見の全体重が支えられている。

 疑問に思う暇はなかった。急いで足を出した。

 いつ踏みしめたのかも記憶にないが、片足が引っかかっていた。もう片方もその二段下に辿り着いた。正しい重心を取り戻すと、途方もない安堵感がわき出してきた。

 助かった! 助けられた!

 紙一重だった。救い出してくれた相手はといえば、無言でじっと見つめてくる。

 同じ気持ちで見返してみる。

 加々見は容姿を自覚している。異性から好意を口にされたことも、中学時代から数えれば両手の数では足りない。告白されること自体はありがたいことだと考えている。

 恋が分からないわけではない。意味するところも理解できる。友人達が盛り上がる恋愛話にも加わる。ただ、加々見はその感情を抱いたことがなかった。

 彼の容貌をまじまじと見てしまった。驚くほどに無個性だった。

 筋骨隆々としているわけでもない。長髪でもない。短髪過ぎるわけでもない。

 身長も人並みで、表情にも、顔立ちにも、奇抜な部分は見当たらない。平凡という言葉を人間のかたちに当てはめれば、こんな存在が出来上がる。

 どこを取っても平均点。

(あれ、でも……)

 加々見は違和感を覚えたが、口火を切ったのは彼が先だった。視線が合ったまま、ずっと目を離さずにいる。

(お見合いじゃあるまいし)

 加々見が首を傾げると、

「手、そろそろいいかな」

 彼はそっと手を持ち上げる。自然と加々見の手も持ち上がった。

 視線が自然と下に向く。すると、ぎゅっと握りしめた彼の手があった。

「あ」

 先に握りしめてきたのは彼の方だったが、いま指先に力を込めて、掴んだまま離そうとしないのは加々見の方だった。

 全力だった。必死だった。言い訳をするより早く、慌てて力を抜いた。

 指先が空気に触れ、残った熱がするりと奪われていくのを頼りなく感じた。

「ご、ごめん」

「いいんですけど、ここ階段なんで」

 彼は階上の空間を指し示した。

 三階の廊下で間島が座り込んでいる。視線を向けても反応しない。

 放置しておくことにした。



 三階に昇り、階段と間島から少し離れた場所で足を止めた。彼は一度踊り場に戻って、散らばった荷物を拾い上げてから戻ってきた。

 加々見は頭を下げた。

「ありがとう」

「いえ。それより気をつけてくださいね。じゃあ、僕はこれで」

 彼は当たり前の顔をして去ろうとした。加々見は反射的に服を掴んだ。

「待って」

 不思議そうに振り向かれた。加々見は言葉に詰まった。

 感謝はすでに伝えてしまった。抱えた段ボールを見ても分かる通り、彼には用事がありそうだった。

 彼は困惑した様子だった。

 加々見も困っていた。

 奇妙な沈黙が加々見の気持ちを剥き出しにした。興味を隠した視線がぶつかった。目の前の相手がどうしてか平静を装っていることを、互いに見抜き合っていた。

 不思議なほど緊張感があった。張り詰めた空気は決して悪いものではなかったが、加々見の冷静さをはぎ取るには十分だった。

 慣れない感じだ。周囲に漂う気まずい静けさは、甘酸っぱさの始まりだった。

 想像することは加々見にとって容易いが、どうも上手くいかない。

 加々見は今、年下の男子を前に当惑を隠せないでいた。彼の言葉を待って、それから自分の対応を決めようとしていた。

 少なくともここ数年、一度も感じたことがないプレッシャーだった。

「とりあえず、これ戻してきますから。話はそれからでいいですか」

 彼は段ボール箱を二つ持ち上げ、見せつけるように揺らした。

 加々見は頷いて後ろを着いていった。

「……あの」

 彼が立ち止まり、振り返って何か言いたげにする。

 加々見はようやく気がついた。何か言い訳をしようとした。ほとんど無意識だった。

「すぐそこでしょ。付き合うわ」

 彼は、加々見の行動が理解できないと顔に出した。

 まただ。

 加々見の覚えた違和感は強くなるばかりだった。

 長い廊下を歩きながら、いくつかの空き教室を通り過ぎてゆく。

 窓は教室側であり、外からの光は差し込んでこない。薄暗いB館三階の、ひっそりとした空気をかき分けながら、彼と加々見は前進する。

 加々見は口を尖らせた。頬を膨らませた。心臓の鼓動の音が聞こえそうだった。

(わけのわからない衝動に突き動かされている。それは認めよう)

 検証してみると、なるほど、ありえなくはない。

 彼は加々見が怪我しそうになったのを守ってくれた。いわば命の恩人だ。

 吊り橋効果か。それはあるかもしれない。

 下手をすれば死んでいたかもしれない状態を腕一本ですくい上げてくれた。恋心と無縁な人生を送ってきた加々見であっても、これなら好意を持つに吝かではない。

 そうだろうか。本当に、そうだろうか。

 疑問は膨らむばかりだ。苛立ちすら感じ始めた加々見の気配を感じ取ったか、彼は居心地悪そうに肩をすくめた。

 気持ちは分かる。

 加々見のような女子、それも先ほど助けた相手が不機嫌そうにしていれば、誰だって気にせずにはいられまい。その通りではあるのだ。

(いや、違うわね)

 加々見は嘆息した。

 立ち振る舞いにおかしなところはない。仕草は無難の一言で言い表せる。この一年生はさっきからずっと、加々見が想定した通りに動くばかりだった。

 動揺している彼。当惑している彼。不躾な視線に愛想笑いを返し、加々見に対して当たり前に振る舞っている彼。

 目的地に辿り着いたタイミングを見計らい、加々見は告げた。

「名前。そうよ、名前を教えて」

「通りすがりの者ですから」

「命の恩人の名前も知らないなんて、こんな恥ずかしいことはそう無いわ。それとも一年生の教室に行って触れ回ってもいい?」

 加々見の声は鋭かった。

(我ながら、これ、脅迫にしか聞こえないじゃない……)

 切り込んだ語気はそれこそ恩人に向ける勢いではなく、トゲすら混じった口調だった。ここまですると、彼はようやく名を答えた。

「平並です」

「名前は」

 名字だけで許すはずもない。半ば予想済みでもあった。彼が嘆息する。それより早く、加々見から頭を下げた。

「ごめんなさい。先に名乗るべきだったわ。君咲加々見。二年生よ」

「……平並凡人。一年生です」

 平べったい。牛丼の並。凡人。そう書くのだと説明されて、真っ先に思いついたのは平凡の二文字だった。

 それを踏まえて加々見は観察を深めた。

 まず目鼻立ちはすっきりしている。

 目を隠すように切りそろえられた微妙な長さの前髪が、額の印象をぼやかしている。話題に上るほどの美男子ではない。醜男からもかけ離れている。

 平凡という字面を思い浮かべれば、平均値にある顔面として見えなくもない。

 平均的な容貌はバランスの良い顔と言い換えられる。彼の顔立ちは整っていた。二枚目半で通じる。だが、第一印象というフィルターを通せば、やはり普通の顔となる。

 加々見は平素の彼を想像してみた。

 空気に埋没する個性が薄い人間。いつも楽しげだが、どこか曖昧な笑顔。相手に悪印象を与えないことを第一とした遠慮がちな仕草。誰とも敵対しない良い人としての振る舞い。

 鮮明に想像できた。出来てしまった。

 加々見は受けた印象も、今感じている雰囲気も、なにもかもを切り離して考えた。

 そうすべきだと感じたからだ。直感だった。

(嘘だ。そんなものはありえない)

 彼は平凡な顔をして、平凡な反応を見せて、平凡な人間としてそこにいた。

「ずいぶんと個性的なのね、凡人くん」

「……へ?」

「あたしは君咲加々見。君咲……は分かるわね。名前は、加えるを二つ重ねて、見る。それでカガミって読むの。加々見って呼んで。よろしくね」

「いや、それは」

 普通。平凡。並。表面は完璧に、どこにでもいる男子高校生だった。

「いいのよ。それより用事、済ませなくていいのかしら」

「あ」

 彼は慌てて資料室へ向かった。

 加々見の言葉で初めて気がついた。そんな顔をして。これも最大限、迂闊という印象を与えるように狙っているのだと思うと、寒気がした。



 凡人が荷物を持って空き教室の前のドアから入っていった。

 二階はまだ騒がしい。床を挟んでざわめきが遠く揺れている。

 この廊下、見える場所には一つとして窓がない。昼過ぎの、五月らしい爽やかな気配とはきっぱり切り離されていた。

 加々見も気づいたが、B館三階に生徒は一人もいなかった。

 空き教室の中を覗くと、奥から凡人が手ぶらで出てくるところだった。

「ねえ凡人くん、聞かせてほしいんだけど」

「……なんでしょう」

「さっき、どうやってあたしを助けたの?」

 その問いを予期していたと、加々見には見えた。

「どうやって、って言いますと」

「とぼけなくてもいいわよ。だって無理だったでしょ。凡人くんは踊り場にいた。あたしが足を踏み外したタイミングだと、絶対に間に合うはずがなかった。違う?」

 最初の違和感はそれだった。

 加々見の危機は偶発的なものだ。加々見は凡人が壁際に寄り、一段落するまで待っていたのを目にしていた。その上、加々見が足を踏み外してから頭を打ち付けるまで一秒もかからないはずだった。

 間に合わないのだ。どう考えても。

 なのに現実には、凡人の手が加々見を拾い上げた。それも上からだ。

 あの一瞬で最上段へと辿り着き、加々見が伸ばした腕を掴み取った。

(ありえない、わよね?)

 冷静に考えれば何かを勘違いしているはずだ。

 しかし現実に加々見は無傷で助けられた。凡人は階上から手を差し伸べていた。思い違いをする要素があるとすれば、最後の最後で目を瞑ってしまったときだった。

 そこで現実との乖離に気づき、整合性を取るために記憶を都合良くねじ曲げた。

 納得するためにはそれくらいしか思いつかなかった。

「最初は夢かと思ったわ。次は勘違い。だってありえないもの。一番大事な瞬間を見逃したんだもの。だから真っ先に否定したのよ。でも物理的に不可能なだけ――普通なら不可能ってだけよね。現実に起こったことを受け入れて、その上で信じてみれば、凡人くんが普通じゃない助け方をしたってことになる」

「嫌な予感がしたから、急いで昇っただけです」

「嘘ね」

 加々見は一言で切り捨てた。

 凡人は表情を変えた。

 嘘つき呼ばわりは心外だ。そう見える表情を繕っていた。

 加々見はさらに鋭い視線と言葉をぶつけた。

 助けてくれた恩人相手に何をしているのか。己に対する呆れを腹の底に沈めて、自分のすべき問答に集中することを選んだ。

 反応速度だけの問題ではなかった。移動距離や階段のステップを駆け上がること、腕を伸ばし落ち行く加々見を拾い上げる挙動、すべて合わせれば加々見の計算では五秒かかる。

 奇跡が起きたと言われた方がまだ誤魔化しが効いた。

「最初、階段の端に寄ったでしょ」

「そうでしたっけ?」

「困ったなあって顔をして、横に逃げたわ。あたしと間島君の一悶着が収まるまでやり過ごそうとしてた。見てたわ。それに音。目は閉じても耳は塞いでなかった。革靴だもの。靴の音って結構響くって思わない? 特にこんな階段で、あんな静かなときだったら」

 致命的なあの瞬間、加々見が足を踏み外してから、凡人は動いた。逆ではない。その確信を突きつけた。

 それこそ普通の人間には不可能な行動だった。物理的にはあり得ない現象だが、加々見の無事が逆説的に彼の異質を証明づけた。

「方法を教えて欲しい」

「いや、ですから」

「……とは言わないわ。素直に認めるとは思ってないもの」

 加々見は極めて慎重に言葉を選んだ。押し引きのタイミングを計った。

 彼の言葉はまだ想像の範疇に収まっている。

 とびきりの笑顔を作った。余所行きの顔ではなく、可能な限り満面の笑みを。

 ただ感謝の本心を表情に乗せ、その上で言質を引き出す必要があった。

 胸の前でさりげなく組んだ手、その指の先にまで神経を行き届かせて、呼吸の取り方にすら意識を向けて問いを発する。

 彼の視線を誘導し、スカートの縒れをさっと払って、姿勢を正し、目を合わせ、しかし眼差しに弱気の色は映さない。

 加々見は、これまでの人生でこれほど自分の所作に気を遣ったことはない。

 こんなにも相手の表情や仕草、内面を読み取ろうと熱心だったこともない。

 なにしろ彼は手強い。普通の男子高校生を装っているが、その実態は破格だった。

 加々見の推察が正しいのならば、己の生殺与奪の権利は彼が握っている。

 比喩ではなく事実として。

 何らかの仕掛けか、超人的な肉体能力か、この前提が当てはまるのであれば、秘密に感付いた加々見を抹消しにかかって来てもおかしくなない。



 妄想めいていると自認したが、ドラマやアニメの見過ぎとは思わなかった。

 この際、機嫌を損ねることは構わない。しかし信頼を損ねてはならない。見限られてしまうのは最悪だ。

 こんな心持ちで会話するなんて初めてだった。

(自分から告白なんてしたことないけど、こういう気持ちなのかしら……)

 そうだ、これは友人達が口々に騒ぎ立てる恋の駆け引きに似ている。

 加々見の頬と耳にさあっと朱が散った。

 恥じらいを自覚すると、首まで赤くなった。

 廊下の空気の軽い冷たさが加々見に教えてくれた。それもまた利点と知悉し、会話への材料として計算に入れた。

 加々見の熱視線を受けて、凡人は小さく目を逸らした。

 あまりにも堂の入った普通っぽさに、加々見は独り相撲かと不安になった。凡人の対応が演技でも仮面でもなく、ただの素であれば恥ずかしいなんてものではない。

 不安は最後まで付きまとった。

「代わりに教えて欲しいんだけど」

 彼の長い沈黙を肯定と決めつけて、加々見がゆっくりと続ける。

「どうしてあたしを助けてくれたの? こっちなら答えられるでしょ?」

 彼は安心したように一度頷いて、にっこり笑った。

「たまたまです」

「じゃあ、もしかして……最初は落ちても、放っておくつもりだった?」

 今度はむっとした表情を見せた。加々見は失言したことを謝った。

「ごめんなさい。失礼なことを言ったわね、命の恩人相手に」

「君咲さんは大仰すぎます。当たり所が悪かったら危なかったでしょうけど、現にこうして無事だったんですし、そんなに気にしないでください」

「そうかしら」

「そうですよ」

 二人して次の言葉を失った。

 ぽかん、と大きな空隙が生まれた。互いに口を開きかねる据わりの悪い静寂だった。会話の表層だけ拾っていけば何の変哲もない会話に過ぎなかった。

 にも関わらず、互いの言葉の裏側を覗き合うような苛烈なぶつかり合いがあった。これは加々見の気のせいではなかった。

 ただの沈黙なのに、異様な緊張感があった。

 ありがとう。どういたしまして。

 それだけで済んだはずの男女の会話は、熾烈なまでの主導権争いに発展していた。

 この奇妙すぎる争い、不可思議な均衡を破ったのは、たった今、空き教室のスピーカーから聞こえた音だった。

 きーんこーんかーんこーん、と次の授業開始を知らせてくる。

 加々見は自分の失敗を悟った。

「あ」

「急いで戻らないと! じゃあ君咲さん、僕はこれで失礼します」

 にこやかに頭を下げて、凡人は踵を返した。

 引き留める理由を、加々見はもはや持ち合わせていなかった。

 加々見は去りゆく背中を眺めながら、大いに焦り、何か使える材料はないかと、何でも良いから彼の足を止めさせる理由はないか、それを必死に探した。

 今だ。本当に、今だけなのだ。

 何の根拠もない直感だ。女のカンだった。ここで逃せば絶対に後悔する。

 加々見は己の無力を味わった。

 平並凡人は深い闇に沈んで消えて、そのまま二度と戻らない。彼の背中を見た瞬間、震えるほどに鮮烈なイメージが脳裏を過ぎり、加々見を駆り立てた。

 この焦燥。

 この切望。

 打ちのめされるほど巨大な感情を持て余しながら、加々見は立ち尽くした。追いかけなければいけない。引き留めなければならない。

 なのに彼は遠ざかってゆくばかり。

 これまでのすべてが端から見ればただの会話だった。ありがちな出会いと別れだった。加々見にだってそんなことは分かっていた。所詮はそんな場面に過ぎないと知っていた。

 加々見は全力だった。これこそ人生の一大事として捉えていた。

 冷静さと混乱と何もかもが加々見の心をかき乱した。ままならない衝動や欲求に、いくつもの理屈を付けてみたり、好奇心として糊塗してみたり、そうやって誤魔化そうとしても、結局のところ、まるで恋する乙女みたいだと自分を評価せざるを得なかった。

(でも、認めよう)

 素直にならないと、手遅れになる。

 彼は行ってしまう。当たり前の顔をして、加々見を置いて。

「凡人くん」

 何か、言葉を。次へ繋がる言葉を。

 忘れられないように、インパクトのある言葉を。表面上は美少女の体裁を保ったまま、内心これ以上無いほどわたわたと、加々見は口を開いた。

「おい、一年」

 低い声で、凡人へと呼びかけた。

(へ? いや、違う。違うのよ。凡人くん)

 加々見は勇気を振り絞ったが、まだ声は出ていなかった。

 横入りでぶつけられたその言葉は、後ろから乱入してきた間島によるものだった。

 加々見は呆然と、事の次第を見守る羽目になった。



4、

「おい、一年」

 間島が我を取り戻して追いかけてきた。凡人は安堵の息をついた。

 予鈴が鳴ったのは幸運だった。加々見の追求から逃れるにあたってこれ以上の切っ掛けは見当たらないほどだった。

 この場さえ切り抜ければ後はどうにでもなる。

 間島が喧嘩を売る目つきで睨み付けてくることもむしろありがたかった。

 加々見を相手取るよりよっぽど気が楽だ。

 助けたことは後悔していない。しかしその後がおかしい。

 後ろを付いてこられたことも妙に興味津々に凡人を見てくる瞳の色も普通に対応しているはずなのに漂う緊張感も何もかも困惑の材料だった。

 凡人は振り返った。

「なんでしょうか」

 この男、加々見に大怪我させそうになった自覚があるのだろうか。

 咄嗟に加々見を見た。気にした様子はなかった。

 ため息こそ付かなかったが凡人はいつもよりゆっくりと動いた。

「てめえ。君咲に何ちょっかいかけてんだ」

「誤解です」

「何が誤解だったんだよ。ああん? 今、君咲と楽しそうに話してただろ」

 胸ぐらを掴まれた。思うようにいかず間島の顔は赤くなった。加々見がその違和感を見逃さずじっと見ていた。

 凡人が力を抜いて重心を逸らしてそれでようやく間島の思い通りになった。

「間島君。やめて」

「おい、おいおい。なんだよ君咲。こいつの味方すんのかよ」

 凡人は抵抗せずされるがままになっていた。間島は首を横に向け、加々見が嫌悪感を隠さないで口にした。

「凡人くんはあたしを助けてくれた。味方するのは当然でしょ。さっき足を踏み外したのは、……自分のせい。それでいいでしょ」

 どう見ても間島が原因だったがそれを不問にするとの宣告だった。

 間島も負い目を感じるだろうからと想定し恩を着せてこの場を収めようとしていた。

 凡人には分かった。間島には分からなかった。

 人間は自分の基準で他者を判断する。現実は加々見が想定していた間島の程度を大きく下回った。

「危なかったもんな。気をつけろよ君咲」

 悪手だった。今の一言で間島は自分のせいであるとする考えを頭から消した。小さく笑みすら浮かべていた。

 凡人は表情を消した。これがもし凡人に対するものであれば受け流していた。

 しかし君咲加々見に対するその言葉が凡人から抑制を消し去った。

 わざとらしいほど大きく嘆息し肩をすくめ、あきれ果てた顔をして加々見に向かって凡人は話しかけた。

「君咲さん」

「え」

 加々見はうろたえた。凡人は気にせず続けた。

「大変ですよね、馬鹿の相手をするって」



 十秒ほど経ってから余裕ぶった間島の表情が激変した。

 真っ赤な顔で間島が目を見開き力を強めた。

 凡人の背は壁に当たっている。胸ぐらを掴まれた体勢そのままだった。その状況を無視して凡人が発言したことが間島の怒りを大きく煽った。

「おれか、おれのことを言ったのか今」

「それ以外に聞こえたならお詫びします」

「テメエ、さっきからおれのこと馬鹿にしてんだろ。なあ」

「喧嘩を売ったのはそっちだよね」

 凡人は丁寧な口調を取りやめた。

 間島のような相手にはその方が早い。厄介な事態になることは予見できていた。

「あ、君咲さん。先生を呼んできてくれませんか。彼、馬鹿なので」

「危ないから、じゃないの?」

「同じ意味ですし」

「……ざけんな。クソが!」

 間島が手を振り上げた。殴られた。狙われたのは肩だった。

 壁に押さえつける力は緩めていなかった。片手で動きを封じもう片手で殴りつけるのは常套手段なのだろう。間島の動きは手慣れていた。

「やめなさい!」

「おれに指図すんじゃねえよ!」

 凡人は鼻で笑った。

「顔は狙わないのかな?」

 間島の顔色は赤を通り越してどす黒くなった。こめかみまでひくつかせている。

 また肩に一撃。凡人は目を細めた。

 校内でする喧嘩にはセオリーがある。教師に発覚しづらい場所を狙うのだ。

 苛めの際に狙う場所と同じでまずは肩からだった。腕や背中、足も多い。本気で痛めつけたければ腹部を狙う。しかし腹に当てる場合あまり加減が効かない。

 顔を狙わないのは言い逃れが出来なくなるからだ。どんなに気にくわなくとも保身を先に考える、その程度の低さが気にくわなかった。

 凡人は殴られても平気な顔をしていた。強がりではなくさほどのダメージになっていない。間島は弱者を嬲って言うことを聞かせることに特化しており、これも喧嘩と呼べるほど大したものではなかった。

 凡人の視線に侮蔑の色が強くなったことを察して間島は狙う場所を変えた。

「間島君! いい加減に――」

「うっせえ!」

 いま凡人を痛めつけようとしているのは間島なりのポーズでしかない。

 凡人も間島の好きにさせた。凡人にしてみれば目的が果たされれば勝利だった。

 さほど痛くもない攻撃を受けるだけで排除出来るなら安いものだ。間島とは異なる意味で計算を働かせていた。

 加々見が後ろから間島に近づいているのが見えて慌てて声を発した。

「君咲さん」

 加々見はぴたりと動きを止めた。

 視線が合った。おそらく間島を止めるために蹴りの一つも入れるつもりだった。

 心配してくれるのはありがたいが困る。凡人の行動の意味が薄れてしまう。間島の頭を通り越してじっと見ると加々見は頷いた。やはり聡い。

 彼女は背中を見せて階下へと消えていった。

「先生、呼んでくるから!」

 去り際加々見は大声を出して牽制したが間島は止まらなかった。

 箍が外れている状態だった。感情と表情の抑えが効かない。

 凡人は笑ってしまった。間島の怒りは一段と膨れあがった。しかしそれとて凡人に言わせれば怒りなどとは呼べないものだった。

 間島が矜恃を傷つけられたと触れ回りどれほど復讐の炎に燃えたところで原因の矮小さを鑑みればそう大それたことはできない。

 ただ小物が身の丈を越えた力を手に入れると化ける。凡人は経験で知っていた。小悪党ほどプライドのためと口にするが、欲に走ればその誇りを穢すような真似をあっさりしでかす。

 早いうちに叩いておくのが肝要だと凡人なりに予防策を練った。



 間島はついに腹部を狙いだした。

 頭に血が上っているのが半分、加々見が教師を連れてくる前に凡人の苦しむ顔を見なければ気が済まないのがもう半分。

 殴り合いには自信があるのだろう。握り込んだ拳が凡人のみぞおちに突き刺さる。

 綺麗に決まれば悶絶する場所だ。肩とは違ってやせ我慢も難しい。

 色々考えていられるだけの余裕が凡人にはあった。一方、殴っている側の間島はどこか必死だった。

 殴った感触のおかしさに気づいてか、間島の動きが鈍った。

「なんだ、今の」

「こんなこともあろうかと、ノートを仕込んでおいたのさ」

 笑ってみせた。

 実にふざけた態度だった。

「……は?」

 間島は憤激した。案外、人を殴ることは疲れるものだ。たとえ相手が殴り返してこないとしても。

 プロボクサーですらない間島が数分間、ひたすら攻勢に出るのは無理があった。スタミナ切れで、そろそろ疲れ切ってきて殴る力も弱くなってきていた。

「なんだよ……なんなんだよお前……。くそ、あれが残ってれば」

 間島はポケットを探るが何も見つからなかったようだ。ナイフでも出してくるのかと凡人は身構えた。

 刃物を出しても脅しと確信していたが危険なことには変わりない。

 自棄になったか疲弊のおかげか攻撃方法が変わった。蹴りだ。

 つま先でスネを狙ってきた。

 流石にこれは避けた。いつの間にか凡人を抑える手からは力が抜けていてふりほどくのは簡単だった。

「避けんなコラ!」

「無茶言わないでよ。当たると痛いんだよ?」

「馬鹿にしやがって……馬鹿にしやがって!」

 散々殴られた肩も少し腫れるくらいで済むだろう。大したことではない。急所はおろか顔すら狙ってこなかった。挑発にも簡単に乗ってくる。

 ゆっくりとした動きで間島の蹴りを受け止めた。片手で足首を掴むと間島はそれだけで動けなくなった。

 逃げることも戻すことも出来ずうろたえた。

 これまでの流れから一方的にやり続けられると思い込んでいたのだろう。反撃の可能性を見せただけですぐさま動揺が顔に出た。

 その間島の怯えを隠した怒り顔めがけて凡人は手を伸ばした。

「ま、待て。なんだ、おれに……っ」

 一方的にやられたストレスを解消するためではない。

 口には出さずそれを使った。

 間島の身体から力が抜けた。そのまま床に倒れそうになった。

 くずおれた間島を凡人はさも面倒くさそうに一度押し止めて、頭から落ちないように多少は気を遣って横たえてやった。

 凡人は嘆息した。

 

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