第一話 「箱の前」(上)
1、
凡人が椅子に座り、大きく息をついた。
教室はいつも通りに騒がしかった。隅々まで五月の空気で満ちていた。
一ヶ月前に入学したばかりだ。ようやくお互いの顔と名前が一致した頃合いだった。
クラスメイトたちがホームルームを待ちながら騒いでいる。
登校してきた委員長が窓を大きく開けた。涼しい風が吹き込んで女子たちの和やかな談笑に彩りを添えた。
「ボンちゃん、これ教えてよ」
鞄を机の脇にかけたタイミングで女子が近づいてきて凡人の机に腰掛けた。行儀の悪い姿勢で適当に座った割にスカートの中は見えなかった。
南だった。短めのツインテールが揺れていた。
「待てよ。ヘーボンに聞くくらいなら俺に聞けって」
もう一人来た。自慢の金髪を弄り格好付けている男子だ。
「嫌よ。あんたの説明、すっごく分かりづらいし。ボンちゃんの説明は普通だからいいの。お分かり?」
「ふっ。所詮は赤点常連か」
「うっさい。天才様に用はないのよ。失せろキンキラ!」
「誰がキンキラだ!」
南と小日向の会話は際限なくヒートアップしていったが、凡人は一段落するまで口を挟むつもりはなかった。
クラスを見回せば誰もこの小競り合いに注目していない。
「ヘーボンも大変だな」
杉山だった。凡人は肩をすくめ困ったように笑ってみせた。
「仕方ないよ。僕、そういう立ち位置みたいだし」
「だな。いわゆるモブだもんな、お前」
「ひどいな、杉山君」
じっと見た。杉山は誤魔化すように肩をすくめた。
「悪い悪い。でもさ、あれだろ。入試での点数は全教科平均点だったんだろ。身長も全国平均とほぼ一緒。まさに平凡の鑑だって担任が褒めてたじゃねーか」
「体重はけっこう重いけどね」
当たり障りのない会話の逆側で南と小日向の言い争いは続いていた。
「ハッ。あんたみたいなキンキラ、あたし以外の誰が相手してくれると?」
「ツインテールのくせに意見するのか!」
「髪型は関係無いじゃない! 似非ハーフが調子に乗るんじゃないわよ!」
「そっちこそ髪の色を言っただろ! ツンデレと思って耐えていたがもう我慢ならん!」
凡人の机を挟んで睨みあっている。
「おー。始まった始まった。これだよこれ。一週間に一度は見ないと」
「そろそろ惚気るぜ、あいつら」
他のクラスメイトが集まりだした。ほとんど歌劇を見るような気持ちだろう。
南と小日向はお互いしか見えていない。ツバを飛ばしながら罵り合った挙げ句、小日向が泣きそうな顔をした。
南がやり過ぎたと、ばつの悪い顔をした。
「ごめんキンキラ。言い過ぎた」
「俺も悪かった。ツインテールがどうとか、本当は関係無いのにな」
「あんたに聞くの、ちょっと……恥ずかしくて」
「なるべく分かりやすく教える。努力する。だから南、ちょっと試してみないか」
「いいの? 似非ハーフとか言っちゃったあたしなのに」
「俺が日本人なのも、ハーフのような金髪なのも……事実だからな」
丸く収まった二人の会話を眺めて周囲のクラスメイトたちはニヤニヤしていた。
男子の一部が壁を殴り女子の一部が楽しげに内緒話に興じ始めた。恋バナはいつでも女子高生の心を満たしてくれる清涼剤だった。
「み、見世物じゃないぞ貴様ら!」
「そ、そうよ! なに見てんのよ! あっち行きなさいよ!」
凡人の机から離れると揃って小日向の机へと去っていく。
「あんたのせいよ」
「ふっ、俺がイケメン過ぎるのが罪なのだな……」
「ばっかじゃないの?」
小声で言い争いつつも両者は笑顔だった。胸焼けしそうな雰囲気に教室中が揃ってため息をついた。
「すげー茶番だったな。あれで付き合ってないんだぜ。意味分からん」
「そういうプレイなんじゃない?」
「……かもな」
凡人と杉山は揃って目を逸らした。
「まあ、本人達が満足してるなら大丈夫だろ。変に意識してヤバイもんに手を出すよりはずっと健全だしな」
「ヤバイもん、って」
「あーっと、口が滑ったな。……ヘーボンには関係無いと思うぜ」
「そう言われると余計に気になるんだけど」
杉山はいつになく真面目な顔をした。
「聞いたことないか。それを手に入れると、なんでも願い事が叶うって箱」
「よくある都市伝説とか怪談ネタ?」
「俺も半信半疑なんだが。最近よく聞く。このくらいの真っ赤な小さい箱が出回ってて、願い事をしながら開くと……本当に叶うらしい」
示された幅はおよそ三センチ。大きなサイコロのような正方形だが箱であるからには中身を入れる必要がある。
なんでも叶うのか。凡人の疑問顔に杉山が鼻で笑った。
「ちょっとした願い事だけって話だ。ただ、その赤箱、数を集めるほど叶う願いの規模が大きくなったり、範囲が広がるってことらしいぜ」
「詳しいね」
「ヘーボンだって、ドラゴンボールが実際にあったら気になるし集めるだろ。まあ、願いを叶えてくれるって言っても、それが猿の手だったら音速で捨てるけどよ」
「……うん。世の中そんな都合の良い話は無いよ」
「ヘーボンはそう言うと思ったぜ。何にも困ってなさそうだもんな」
「そんなことはないよ」
凡人はむっとしたように表情を険しくした。杉山はすぐに謝ってきた。彼から赤い箱の話題はそれきり聞かなくなった。
授業終了を知らせるチャイムが鳴った。凡人は手招きされた。
「平並。ちょっといいか」
世界史の担当教師だった。
教壇へ近づくと振り返った教師から段ボール箱をいきなり渡された。
両手で持たなければならない大きさでかさばる箱だった。
「資料、戻しておいてくれ。場所は分かるか」
凡人は頷く。箱の中身は授業で使った地図その他だ。
「本当は俺が戻さなきゃならんのだが、これから三年生の面談があってな」
「分かりました。やっときます」
「頼んだぞ」
教師は悠々と去っていった。
「ボンちゃん、また押しつけられちゃったね」
クラスの女子の一人がかわいそー、と呟きながら怒っていた。
「先生の気持ちは分かるよ。ヘーボンって色々頼みやすいんだもん」
「ひどくない? 山田、頼んだだけで御礼も言わなかったよ?」
「断らなくてもいいからヘーボンも少しは嫌そうな顔しろよ! 山田なんかに良いように使われてんじゃねーぞ!」
世界史の担当教師は山田という。あまり好かれていない教師だった。
「あっちまで行くの面倒だから押しつけたんだろ。あれ」
「仕方ないよ。ボンちゃん、結構便利に使われちゃってるし」
凡人は平均的な成績と態度の悪く言えば特徴のない一年男子だった。
それなりに真面目で運動も出来る。教師からすれば手間のかからない生徒だ。
顔立ちも体格も一般的であまり印象に残らない。個性的な面々が多い一年C組においてはその平凡さが際だっていた。
見た目や立ち振る舞いが平凡なのだ。
「ヘーボンって、名前負けしてないよね。ホントにふつーだし」
「鈴木さあ。褒めてんのか、それ」
「あ、あれ? 誉め言葉のつもりだったんだけど、ごめんねヘーボン」
「大丈夫。気にしてないから」
ここで傷ついた顔をすればまた扱いも違うのだろう。
「ボンちゃんやさしー」
「中村せんせーくらいだよね。ヘーボンに押しつけないのって。せんせー優しいもんね」
「しかもエロいよな、中村先生。美人だし。でも彼氏いんだろ。意味わかんねえ」
「顔が良くてよ、優しくてよ、胸もでかい女教師がフリーなわけねーじゃん。しかもまだ二十代だぜ。あれ? これ……俺らにもチャンスあるんじゃね?」
中村は国語教師で、美人であることも相まって特に男子から多大な人気があった。
「いやいや、根っこから真面目だろ。あの堅物が生徒と付き合うと思うか」
「保体の河内が狙ってるって噂があるけどね」
「あのエロ教師、中村せんせー狙いなの? うっわ、サイアク」
「みーちゃんもセクハラされたの? これだから体育教師は」
他に名前の出た河内は保健体育の担当で女子からの評判は悪かった。
話題の中心は別に移ったようだった。教室の騒がしさは膨らむ一方だった。おかげで凡人は気兼ねなく抜け出せる。
そのまま隣の校舎へと向かった。
2、
玉坂高校には校舎が三棟ある。凡人が先ほどまでいたのはA館だった。
A館には一年生と三年生の教室がある。連絡通路は各棟の二階に接続されている。凡人が荷物を抱いたまま進むとB館入ってすぐの場所は二年生でひしめいていた。
教室の内外に響く話し声は凡人の知る教室に負けず劣らずうるさかった。
凡人は足早に進んだ。やたらと数が多く感じられた二年生の塊も奥に行くほど数が減っていった。やがて階段近くへと辿り着いた。
閑散としていた。遠く二年生達のまき散らす音は継続して聞こえてくる。節電のためか薄暗くされたその廊下にひとの姿は見当たらなかった。
まだ届く喧騒の大きさとは裏腹に、そこはどうしようもないほど静かだった。
「待てよ君咲。なあ、そんなこと言わずにさ。付き合おうぜ」
「手、離して」
耳を澄ませたつもりはなかったが聞こえてしまったのは三階での会話と思われた。あまり遭遇したくない場面だ。
凡人はすぐ引き返して別の階段を使うべきかと迷う。
三階へ上がる階段は二つありどちらも廊下の端にある。
再び上級生の群れをくぐりぬけるか。戻るのも面倒だ。凡人は階段の端に寄った。
「おれって頭も良いし、顔も良いだろ。金だって持ってる。君咲とおれなら、すげーお似合いだと思うんだ。断るなんて、ありえない」
「間島君、あなた、他の人と付き合ってるって聞いたけど」
「あいつは別に付き合ってるわけじゃねえよ」
「ふうん。あいつ、ね」
「あ? もしかして妬いてんのか。大丈夫だって。カノジョじゃねえし。君咲がおれのモノになるんだったら、あいつなんてどうでもいいし」
凡人は嘆息した。顔を見なくても声と雰囲気に含まれた険が分かった。
「もう一度言うぜ。おれのモノになれ。絶対に楽しいし、後悔しないぜ」
「……話にならないわね」
通り道でこんなやり取りをされると非常に迷惑した。せめて人目に付かない場所でやれとも思った。
すぐに納得した。
「なんでだよ。君咲、なんで……」
「ハッキリ言っておくけど、間島君。あたし、あなたに興味ないの」
「嘘だろ? 待てよ、逃げんなよ」
「話は終わりよ。逃げるわけじゃないわ。付き合ってられないだけ」
二年生にとってはここがその人目に付かない場所らしかった。
火曜日の午後、二つ目の授業ではB館三階で行われる授業がないのだろう。
他の生徒が近づいてくることもない。話題に飢えた年頃だし、ことは色恋沙汰だ。同級生に見られたら有る事無い事言いふらされかねない。
両手に荷物を抱えたまま凡人は踊り場に差し掛かった。あと半分。すぐに昇る前に三階の様子を窺った。
フラれた男が追いすがり女が颯爽と去っていく。
困惑しつつ怒りを顔に出した男が間島だろう。無理だと凡人にも断言できた。
間島はブレザーの着方からひどくだらしなかった。ネクタイの締め方も緩すぎてむしろ付けない方がちゃんとして見える。
フった側の彼女は制服の着こなしが完璧だった。
男女の違いがあるにせよ同じ制服とは思えないほどに差がある。
紺色のブレザーとタイ、垣間見える白いブラウス、膝上三センチくらいのスカートの長さ、どれを取っても間島の横に並んでいる姿が想像できなかった。
彼女の容姿は整っていた。
艶やかな黒髪が肩より下までまっすぐ伸びている。横顔からは清楚な印象を受けた。
深窓の令嬢めいていた。一見お淑やかで華奢な雰囲気だった。
体躯は小柄だ。身長をすぐそばにいる間島と比較すると、およそ十五センチから二十センチは低かった。
胸のサイズは慎ましかった。卑猥な気持ちで見たわけではない。凡人が注目したのは胸部に付けられた名札の方だ。君咲と先ほど呼ばれた名字が書いてあった。
会話から凡人が思い描いたイメージとは違っていた。
告白紛いのことをされるのも頷けた。
凡人からすれば年上だが、美少女と呼んで差し支えない印象だった。さぞかし人気があるのだろう。言い寄られるのも初めてではあるまい。
大人しそうな見た目と反して語調に強さが感じられた。声にも厳しさが含まれていた。
間島を見上げるような形になるが媚びるような上目遣いではなく、ただ怜悧な視線を突き刺すように向けている。
間島では完全に脈なしだと彼女は言葉のみならず全身と雰囲気でも主張していた。
恋愛にままある照れ隠しや焦らし、駆け引きやテクニックではない。
無理だ。不可能だ。そうした性質の完全な拒絶だった。
凡人の見た限り間島の顔が致命的に悪いわけではない。むしろ玉坂高校でも上から数えた方が早いくらいには整った顔立ちをしている。
それを踏まえた上で凡人に言わせれば両者は根本的にカテゴリーが違う。何かの間違いを期待する方がそもそも間違っている。それほどの無理だった。
「しつこいわね」
「待てって。落ち着いて考えてみろよ」
南と小日向のような微笑ましさはない。やり取りは見るに堪えなかった。
「一回、一回でいいから試してみろよ。おれの良さを知ってみろって」
「間島君」
「……お、とうとう受け入れる気になったのか? ったく、焦らすなよ」
「それ以上口を開かないで。あなた、気持ち悪いわ」
ここまでの会話で彼女はずっと気を遣っていた。
あれでも同級生だ。出来る限り角の立たないお断りを心がけていたに違いない。
我慢の限界を打ち壊したのは間島のあきらめの悪さだった。ほとんど意地になって引き下がれなくなっている風に見えた。
「な、な」
間島は自分が言われたとは思っていなかったようだ。
きっかりワンテンポ遅れて理解の色が顔に表れた。
「おれ、おれを馬鹿にしてんのか……ッ」
「馬鹿にしてるのはそっちでしょ」
君咲は間島に掴まれた手を振り払えないでいた。
「馬鹿になんかしてねえよ。君咲なら、おれの……」
「女の子を人間扱い出来るようになってから出直してきなさい」
冷徹な口調だった。
にこやかに笑えば花開く暖かさを感じさせるであろう優しげな顔立ちからは想像も付かない声の温度だった。
空気は凍てついた。
間島も口をぱくぱくと開閉し動揺を隠しきれない様子だった。
凡人はそんな君咲を見上げていた。
不釣り合いさの原因にも理解が及んだ。考え方や価値観が違いすぎる。間島は君咲がもっとも嫌悪するタイプの男性だろう。
先ほどの会話だけで地雷を最低二つは踏んでいる。
それに本人が気づいていないのはいっそ哀れだった。日頃の態度や言葉によって決して受け入れられない素地が出来上がっていたことは想像に難くなかった。
凡人は君咲を綺麗だと思った。
その明瞭な言葉に、凛とした横顔に、正しい眼差しに、痺れるほど見蕩れた。
だが凡人もそれ以上の関係にはなれない。
間島とは違う意味で話がかみ合わないだろう。
自分たちは交わらない領域にいて高校という場所で偶然すれ違うことはあるが人生の道のりが重なることはありえない。
階上の対峙はあまりにも無惨すぎた。
論破されるにも知性がいるとは誰の言葉だったか。
間島は眉をひそめ、意味が分からないとばかりに首を振った。
「は? 君咲は人間だろ」
「……手、離して」
「やだよ。そしたら逃げるだろ」
現実はもう少しだけ複雑だと、凡人も知っていた。
誰も先のことは分からない。他人の心も同じだった。
万引きやひったくりの経験を武勇伝のごとく口にする男と、匂い立つような優しげな美女が仲睦まじげに一緒に歩いているのを道ばたに見ることは、ままある。
他者の恋愛は他人がとやかく言うことではないし、幸福の基準は分かりやすく計れるものでもない。
その上で凡人が苦く思うのはただ一つ間島の見苦しさだけだった。
「間島君。あなた、あたしのこと、別に好きじゃないでしょ」
「好きだぜ。超好き。マジ愛してる」
「分かってるの? この状況。いい加減にしないと、悲鳴上げるわよ」
「嫌よ嫌よも好きのうち、ってことだろ」
君咲の最後の優しさは通用しなかった。彼女は凡人に少し前から気づいていた。言い逃れできない状況は着実に作られていた。
理知の色が瞳に覗いた。
証言出来る第三者の存在を確保した今、間島が素早く謝罪することだけがこの場を丸く収める唯一の手段だった。
君咲は宣言通り悲鳴を上げた。
「きゃあああっ――」
間島が咄嗟に手を出した。君咲は身をよじり掴まれていた手を引きはがそうとした。
それが良くなかった。
間島もそうはさせじと動いた。結果、両者はバランスを崩した。
そのまま間島は廊下に尻餅を付いた。君咲は踏みとどまろうとして足を出した。
階段の最上段だった。踏み外した君咲の身体は傾いた。
支えも何も無い階段の中央に受け身も取れず倒れ込もうとしている。
「あ……」
悲鳴の続きではなかった。漏れた声は吐息のようだった。そこには驚きはあったが恐怖になるにはまだ理解が追いついていなかった。
階段から転がり落ちる光景を想像したのか間島は目を閉じていた。
間も悪かった。ちょうど身体を捻ったせいで階段の直角に後頭部からぶつかる危険性が高かった。
手を着こうとしても仰向けだ。頭を強かに打てば最悪の場合死に至る。それは厳然たる事実だった。
墜落する姿が凡人にはスローモーションのように感じられた。
彼女の足がもつれ紺色のスカートが太ももに絡みついた。同時に空気抵抗ゆえか長いストレートの黒髪はふわりと広がった。
痛みに耐えようと口を結んだ顔もどうにもならず悔しそうに目を閉じた表情もそれでも諦めず頭を庇うように手を伸ばした動作も何もかも、この一瞬のあいだに起きた変化のすべてを一つ残らず目にした。
凡人は荷物を取り落とした。




