第九話 「パンドラの箱」(閉)
3、
この場ですべきことは終わった。そう判断し凡人は振り返った。下着姿の加々見は姿勢正しく立ったままその場から動くことはない。
加々見の身を案じるが凡人に出来ることは忘れさせることだけだ。ただ記憶を封じ込めたところで外からの力で歪んでしまった心の形は完全に元通りになることは無い。
それでもやらないよりはマシだ。
加々見に近づいた凡人は深々と頭を下げる。たとえ当人に通じなくとも数時間前までの加々見ではなくなったとしても目の前にいるのは君咲加々見だったからだ。
「ごめん、君咲さん。間に合わなかった……」
「それより凡人くん。こういう場面でこそ名前で呼ぶものよ」
聞こえた声に凡人ははっとして顔を上げた。
「え?」
「それはそれとして。凡人くん。助けてくれてありがと」
それまで彫像のように動きを止めていた加々見が、はぁと大きく息を吐いて分かりやすく伸びをした。その表情には少し疲れてはいるが以前通りの笑みが浮かんでいた。
「さすがのあたしも、もうダメかと思ったわ」
凡人は固まった。
加々見は凡人の視線に思い出したかのように腕や手で身体を隠した。
その途端、これまで全く気にならなかった加々見の下着姿がひどく扇情的なものに見えてきた。
彼女の表情がハッキリするにつれ、頬や首筋、耳などに仄かな朱が差し恥ずかしそうに口を結んだ。
「あ、ちょっとあっち向いてて」
言われたとおりに従うと制服を着直す衣擦れの音が聞こえてきた。
加々見の着替え中は顔を背けた。しかし気配は窺っていた。
油断はしない。妙な動きをすれば分かる。
もしかしたらこれは願い箱を用いた間島の企みかもしれない。
その懸念が残る以上、凡人は素直に喜ぶことも安心することもできなかった。
「はい、こっち向いていいわよ。……あ、もしかしてもっと見たかった?」
からかうような口調に凡人は加々見が元のままだったと内心安堵した。加々見の肩越しに倒れたままの間島と中村が覗けた。ぴくりとも動かない。
レテの水で忘れさせた内容に比例して眠りの時間は長くなる。どれほど短くとも二人ともあと数時間は目覚めないだろう。
「どういう、こと」
「途中で従ったフリをしたのよ」
それでも疑問は残る。加々見が屈服したと間島は確信していた。
凡人にも手遅れだったとしか思えなかった。演技で欺いていた風ではなかった。
加々見は疑問に答えるように話を続けた。
「空き教室に入ってからは自由に動けなかったし、耐え続けるにも、十個以上使われた時点で物量には勝てそうにないことが分かったわ。まあ、アレが戦力の逐次投入――本人は波状攻撃のつもりだったみたいだけど――をしてくれたおかげで、ギリギリ耐え切れたの」
耐えきったからさらにもう一個願い箱を使う。間島がこうした繰り返しをせず一度に十個まとめて使われていたら無理だった。加々見の主張は分かりやすかった。
「で、とりあえずあたしも願い箱に勝てなかった、ということにしたわ。アレに下着姿を晒したのも虫に見られたようなものだし……」
本心かどうか凡人は追求しなかった。加々見は普段よりも早口で饒舌に語っていた。
「アレが強引に貞操を奪おうとしなかったのは慮外の幸運だったけどね。それ以外は計算尽くだったわ。逃げるのも無理だったから、ひたすら時間稼ぎに徹したのよ。制服を脱ぐのを思いついたのは良い手だったわ。手足が自由になった分、ストリップショー仕立てにすれば一枚ごとに時間を掛けられるし」
あの時点では加々見は助けを期待できる要素は何一つ持ち合わせていなかった。加々見からすれば凡人が助けに来る可能性はゼロに近いと理解できたはずだった。
「時間稼ぎをしたって、助けが来る可能性なんてなかったはず」
「凡人くんが来たじゃない」
あっけらかんと言われた。勝ち誇った顔だった。
「ちなみに演技は凡人くんを参考にしたわ。普通の仮面をかぶってるときの、自分を客観視して操り人形のように動かしている、そんな凡人くんをね」
ぎょっとした。凡人は加々見の顔を数回瞬きをして覗き込んだ。
「図星でしょ?」
「……なぜ、それを」
自然と問いかける声は低くなった。
魔女は天災の一種だ。だとすれば、それと日常的に触れ合い続けている凡人もまた決して普通とは言い難い存在だった。
普通であろうと己を常に制御しているのは、それを解消するためもある。
加々見には初見で見破られた。取っつきにくいだとか壁がある。そうした消し得ない雰囲気の問題ではなく凡人という人間――魔女に命を買い上げられ、所有され、その上で学校生活を送るために『己』を一時的に返却されている存在――の本質的な部分に辿り着かれてしまった感がある。
凡人の問いには様々な意図が含まれていたが加々見に笑い飛ばされた。
「好きって、そういうことでしょ?」
答えは至極鮮やかなものだった。
この場でする必要は無いかもしれないが、疑問は解消すべきだ。凡人と加々見の意見が一致したため状況を理解するための話は続けられた。
「アレの願いが『おれのモノになれ』だったのは、良かったのか悪かったのか。他の願いならそもそもこんなことになってないけど」
凡人は気になった。十個以上使われて耐えるなど普通の人間に出来るのか。
加々見は実際に耐えきった。さらには間島を欺き通して見せた。しかし単純な精神力の問題にしては使われた数、耐えられた数が多すぎるように感じられた。
「あれが『おれを好きになれ』だったら別の結末が待ってたかもしれないわね」
こうも付け加える。
「あたし、好意には好意で返すわよ。アレはそういう意味で問題外だったけど。……そう考えると前提からしてありえない未来だったわね」
加々見は意味深に笑った。
「凡人くんのこと色々と知れて良かったわ。詳しく聞かせて欲しいことも、いっぱい残ってるけど」
凡人は言葉に窮した。追撃された。
「でも、一番は……あたしのために怒ってくれたことね。すごく嬉しかった」
「君咲さん」
「加々見って、呼んで」
「でも」
「本当は心の中で、もう呼んでない?」
加々見の狙い澄ました言葉に、凡人はついに負けた。
「……お見それしました、加々見さん」
「ふふん。よろしい」
魔女の話や願い箱について問い詰められるよりはこうした楽しげな話題で攻められる方が幾分マシだった。
そのときだった。
加々見の表情が焦りに歪んだ。
「凡人くんっ!」
切羽詰まった声だった。何かが飛来してくる。先に気づいた加々見が飛び出した。その姿が見えていた。
撃ち出された何かが直撃し加々見は倒れた。床にうずくまり動かなくなった。
加々見を挟んだ向う側に敵がいた。
眠らせたはずだ。忘れさせたはずだった。
中村早苗が身体を横たえたまま指鉄砲の形を作り凡人に指先を向けてくる。
遊んでいるような笑顔で楽しげに指を振る姿は見知った優しい国語教師でも先ほど憐憫を込めて見ていた間島の奴隷でもなく人間のかたちをした災厄だった。
片手は銃口の狙いを定めながらもう片方の腕は間島にしなだれかかっている。
中村の豊満な体つきを見せつけ弄ぶようにゆっくりと動きながら、しかし決して凡人から視線を外さない。
「……魔女、だと」
「えへへ。油断大敵だゾ!」
普通の人間だったはずだ。哀れな被害者だったはずだ。
しかしその絡みついてくる視線が凡人に安易な楽観を許さなかった。
「中村先生は」
「もらっちゃったモノをどうしようと、アタシの勝手なんだゾ?」
舌をぺろりと出して可愛らしく誤魔化し笑いをする。
身体をくねらせる仕草ひとつ取っても違和感しかない。
舌っ足らずな喋り方と無邪気そうな笑顔が緊迫した雰囲気に一石を投じた。
しかしその声も顔も身体も中身以外すべて中村早苗のものだった。
「《欲望の魔女》パンドラか」
「そうだゾー? せえぇっかく公彦クンが良い感じに仕上がってきたのに、こんなタイミングで邪魔されるとは思ってなかったゾ? もしかしてもしかして、平並凡人クンってー、こわいこわーい別の魔女の手先だったりするのかナ?」
所長とよく似てしかし全く異なる気配を感じた。まっとうな人間ではありえない超常と理外の存在。
敵から目を逸らさず離せず、しかし加々見を連れて逃げなければならない。
「こっちのことは知ってるってわけか」
「早苗チャンの記憶にあるんだゾ。うーん、こっちも、驚いちゃったゾ?」
誰が台風や地震、津波や竜巻と戦って勝てるというのか。
勝ち目はないことは分かっている。加々見を抱きかかえ逃げる算段をしているとパンドラが楽しそうに指鉄砲を向けてきた。
指先から無色の弾丸が放たれる。
先ほど狙われ、加々見がその身に受けたのはこの目に見えない何かだった。
「ガンド撃ちか!」
「勉強してるコ、好きだゾ?」
人を指さすことで発動する呪いだ。一発二発当たったところで死にはしない。若干体調を崩し風邪を引く程度だ。
数十発と直撃すれば話は別である。下手をすれば衰弱死もありうる。
パンドラがはしゃぎながら弾丸をバラ撒く。倒れた加々見に流れ弾が当たらないよう注意していることも相まって凡人の逃げ場がどんどん減っていった。
遠い側のドアに辿り着くと呪いの弾丸ではなく言葉が追いかけてきた。
立ち上がった彼女が部屋の中心から声を掛けてくる。
「凡人クン。後悔したくなければ、逃げていいんだゾ?」
「どういう意味だ」
魔女の言葉を正面から受け止めてはならない。それを知っていながら凡人はパンドラを無視出来なかった。
「加々見ちゃん、ガンドくらいで意識を失うなんてひ弱だゾ?」
はっとして加々見に目を向けた。
ガンドの一撃はそれほど強力な呪いではない。
「教えてあげるゾ?」
素直には頷きがたい。しかし手遅れになる。その恐怖を先ほど知らしめられたばかりの凡人には罠と分かっていても耳を傾けずにはいられなかった。
加えて理由を挙げるならば魔女の言葉は聞いても聞かなくてもヒドイ目に遭うと相場が決まっているのだ。
「公彦クンが倒れただけで、願い箱が無効になったワケじゃないんだゾ? 加々見ちゃんはよく耐えてたみたいだけど、身体と心は表裏一体、どんなに心が強くても、どれほど頑張って耐え続けても、身体が弱まれば、それだけ抵抗力が落ちちゃうんだゾー?」
つまり。
まだ何も解決などしていなかったのだ――
4、
そしてパンドラは魔女らしく言を弄する。
「加々見ちゃんを助ける方法は、ちゃーんとあるんだゾ?」
魔女は甘い言葉を使い人間の弱った心、脆い精神の隙間に入り込んでくる。
加々見が無事かあるいは完全に手遅れであるのなら一切聞く耳を持たなかった。全速力で逃げ出した。しかしまだ救うための可能性がある。
希望がある。そうと知れば迷わずにはいられない。
禁忌であると分かっていながら開けてはいけない箱に手を掛けてしまう。
これこそが人間の愚かさの象徴とも言える。《欲望の魔女》パンドラは終始ふざけていた笑みを一度引っ込めた。
恐ろしく冷たい目で人間を見下している。
「好きと言い続ければ、たとえ本心でなくとも、心は好意へと傾いていくかもしれない。それが偽りであっても、愛情の真似事を繰り返せば、やがて本物へと近づいてゆく。亡霊の真似をすれば亡霊に、狂人の真似をすれば狂人へ。たとえ願い箱によってすり込まれた価値観や認識であっても、一度組み込まれれば、やがて彼女の心を矯正してゆく」
それまでの幼さを貼り付けた喋りより低く小さな声だった。
「夢を叶えるための努力は素晴らしい。可能性はこんなにも満ちている」
虚無の声だ。
人間を飲み込もうとする空虚で絶望的な空っぽの声だった。
「他人の意志や行動を捩じ曲げるのが、夢?」
間島の行動を肯定している口ぶりに凡人は反射的に口を挟んだ。
パンドラは笑みを元に戻した。
「ねえ凡人クン? 夢を叶えることは、他人を押しのけることなんだゾ? 誰か好きな相手と結ばれることは、そのひとを好きな他人の好意や夢を無視して、潰して、見捨てて、ゴミみたいに捨てちゃうコトだゾ? ほら、凡人クンにも叶えたい夢があるはずだゾ? やりたいコト、果たしたい願い、実らせたい恋……。それはとっても素晴らしいコトで、誰かの顔色を窺ったり他人の都合を気にしていたら、いつまで経ってもたどり着けない場所にあるんだゾ!」
それから優しい笑みを浮かべた。
「みーんな苦しんでる。悲しみに囚われてる。世の中はいつだって、なんにも思い通りにならないってもがいてる。だから……アタシはそんな頑張ってるコの手助けがしたいだけなんだゾ!」
魔女とは思えないほど慈愛に満ちた微笑みだった。
「公彦クンが持っていた願い箱は、今は凡人クンの手の中にあるんだゾ。ほら、それだけの数があれば、凡人クンの本当の願いは叶うかもしれないゾ……?」
「僕の願い?」
凡人の記憶を、思考を、心を見透かすようにしてパンドラは頷いた。
「そう! 凡人クンの願い! 《欲望の魔女》であるアタシには分かっちゃうゾ! 行方不明になった両親の居場所を探す? 《公平の魔女》から自分を買い戻す? 借り物ではない自分として振る舞う? 君咲加々見の好意を素直に受け取りたい? どれを願っても良いんだゾ! なんなら全部でも構わないゾ! だって君は公彦クンみたいに絶対に無理な願いをしているわけじゃないゾ。どれも凡人クンが本心から望めば容易いコトばかりだゾ」
パンドラの誘い。回収した袋を突っ込んだポケットに自然と視線が向かう。
「加々見ちゃんを助けるコトだって、ぜんぜん難しくないんだゾっ」
凡人が攻撃するとは考えていないのか、ゆっくりと近づいてきたパンドラは、凡人の身体にぴったりと寄り添うようにして、その身を絡めてきた。
相手は魔女だ。凡人が全力で殴りかかっても大したダメージは受けないだろう。
加々見を抱きかかえたままの凡人は抵抗の無意味さを知っているために、その場から遠ざかることすらしなかった。
パンドラの手が凡人の制服のポケットに伸びてきて願い箱の入った袋を取り出される。
奪い返されたわけではない。
パンドラは袋を開くとそのまま凡人の腕の中にいる加々見の胸のあたりに滑らかな手つきで中身を取りだしいくつもの願い箱を丁寧に並べていった。
「奇しくも、さっき公彦クンが言ってたゾ。同じ対象に願い箱を使うんだゾ。ひとつの可能性を結実させることは、他の可能性を潰すってことだゾ? さあ、彼女の心を間島公彦に奪われたくないのなら、凡人クンが願うんだゾ!」
クスクスと笑うパンドラの声は馬鹿にするものではなかった。
他人の甘やかな恋物語を眺めその結末を見守る隣人のような労りに満ちていた。
「幸い、元から加々見ちゃんは凡人クンにぞっこんみたいだゾ? なら気にすることなんかないゾ。願い箱なんて使わなくても、結果は同じだゾ。そのあり得べき未来を守ろうとすることはとっても正しくて、ぐずぐずしている暇なんて無いんだゾ?」
凡人は加々見の胸の上に置かれた、小さな赤い箱をじっと見た。
「急いだほうがいいんだゾ。今ならまだ彼女の心を取り返せるゾ? 心を捩じ曲げられるってコトは処女膜を破られるのと同じだゾ。もし一度そうなってしまえば二度とは元に戻らない大事な大事なコトなんだゾ。凡人クンが加々見ちゃんを大切に思うなら彼女の意志や心を大事にするためなら、ここで躊躇している暇なんてこれっぽっちも無いんだゾっ!」
動かない凡人の後押しをするようにパンドラは明るく続けた。
「心配は要らないゾ? 必要な願い箱の数は、これで足りてるんだゾ。凡人クン。君の望みは誰にも咎められたりしない正しいことばっかりだゾ。君の正しさは、この《欲望の魔女》パンドラの名に置いて保証してあげるゾ。アタシのなけなしの善意、たったひとつだけ残った矜恃で凡人クンを偽るコトはないと誓うんだゾ。さあ、凡人クン! 手遅れになる前に!」
恐ろしいことにパンドラは本当に善意で言葉を尽くしていた。
それが痛いほどに分かる。魔女の取引の意味を凡人は知っていた。
凡人は手を伸ばした。抱きかかえた加々見の身体を片手で支える。
十個以上の願い箱。願えば、加々見の心は凡人への好意に固定されることになる。
とっくに決めていた。凡人は伸ばした腕を振って加々見の胸の上にあったすべての願い箱を床にはじき飛ばした。
「使わない」
パンドラが固まった笑顔のまま、こてん、と首をかしげた。
「加々見ちゃんの心が公彦クンの願いに汚染されて、穢されて、もう二度と完全な形に戻ることはないんだゾ。それを分かった上で使わない? でもでも凡人クン! アタシには分かっちゃうんだゾ! それが強がりかどうかなんて。ちゃんと理解しているのかどうかも。……え……まさか……そんな……」
パンドラの瞳から一切の光が消失し虚無が膨らんだ。
「信じることに、したんだ」
ありえないものを見るようにパンドラが凡人から押しつけていた身体を離しよろめきながら遠ざかる。
「この期に及んで、ようやく分かった。どうやら、僕は加々見さんのことが本当に好きみたいだ」
「……何を」
「好きっていうのは、それについて知ろうとする――知ってるってことだ」
「意味が……分からない。助けることは良いことなのに……救うことは善いことなのに……。アタシは正しいことを薦めている……決して間違いなんかじゃない……なのに、どうして。ねぇ、どうして……?」
パンドラの声は枯れ果てた老婆の嘆きに似ていた。
「ここで僕が願い箱を使ったらさ、加々見さんに顔向けできなくなるんだ。……開けちゃいけない箱は、やっぱり開けない方が良いんだよ。本当は不安だけどね。だからこそ我慢しないと意味がない」
パンドラの箱、すなわち使ってはいけない願い箱。
使うべき状況が用意されてどちらを選ぶか。神話におけるパンドラにもここにいる凡人にも二つの選択肢が用意されていた。
好奇心と義務感。欲望と正義。身勝手と必要。状況も意志も異なっているが選択すべき行為はどちらも同じだった。
パンドラは開けた。凡人は開けなかった。
「そんな」
凡人の言葉を受けたパンドラはそれが本気であり本心であり決して曲げられることがないと理解したようだった。
崩れた。
身体が。顔が。声が。欲望が。ここに存在する何もかもが。すなわち《欲望の魔女》パンドラを構成する、ありとあらゆるものが崩れていった。
「そんなああああああああぁ……」
ありえないものを見た顔だった。なにもかもを失った顔だった。
「あ、ああ、ああああああああああああ……嘘……嘘だ、あた、あた、あたしが……こんなの嘘だゾ……あ、アタシはただ、みんなに希望をあげたかっただけなのに……どおして、どおしてよおおおおおおおおぉ……」
一瞬、パンドラは寂しげな笑みを浮かべた。
それから嬉しそうな、悲しそうな、つまらなそうな、何もかもを凝縮した表情をして震えながら数歩後ずさると中村早苗の身体から黒い靄のようなものが抜け出てぐにゃぐにゃと歪み、たわみ、うねり、そのうち空気に融けるようにして消えていった。
「え?」
凡人の見ている前で魔女は滅びた。信じられないほど呆気ない終わり方だった。
何かの策謀かと凡人は疑ったが、その答えは思いの外早く与えられた。
「これは、どうしたことじゃ」
振り返ると空き教室の後方ドアから所長が顔を出していた。事務所で見たサマーセーター姿ではなく凡人が一番最初に出逢ったときの魔女めいた格好をしていた。
所長がここに来た理由について想像は付いた。
仕事の振り分けで凡人は願い箱の回収という名目で加々見の救助に来たし所長はパンドラの居場所を探していた。
ようやく気配を表した《欲望の魔女》を察知して慌てて駆けつけたのだ。
呆れたように室内の状況を眺めて凡人の腕の中にいる加々見を見やりそれから所長は胡乱な目をした。
「魔女が出たら逃げろと言ったはずじゃがな」
「すみません、所長」
凡人は頭を下げた。何を口にしても言い訳にしかならない。
「無事じゃったようだし、まあ良い。それより何が起きたかの?」
「僕にも何が何やら。所長、彼女を診てもらえませんか」
「ん? これは……」
所長は表情を険しくした。
「ぬし、詳しく状況を話せ」
凡人はおおよその流れと最後に交わした会話の内容について語った。
5、
所長は話を聞き終えると深々と息を吐き出した。
「そうか、《欲望の魔女》は逝ったか……」
感慨深そうに言われても凡人にはその納得の理由が分からなかった。説明を求めるつもりで視線を向けると所長はふむと目を細めた。
「ワシとしては構わんがな。その娘御にも聞かれるが」
「え?」
加々見に目を向けた。目は閉じられている。体重のかかり方、重心の位置は抱き上げた時点からずっと変わっていなかった。つまり途中で意識を取り戻したわけではなかった。
「最初から意識を失って、なかったとか?」
たははと笑って加々見が目蓋を開いた。若干は申し訳なさそうな表情だが凡人は気づかなかったことに愕然としていた。
平素の凡人であれば意識の有無など触れていなくとも明確に分かるはずだった。
先刻の中村の場合は確かに一度気を失いその上で潜んでいたパンドラが表に出てきた。だから見逃しても仕方がないと慰めがついた。
加々見の場合は違う。本来分かるはずのことを完全に見誤っていた。
「ぬし、相当に動揺しておったようじゃな。修行が足らん」
「……加々見さん?」
「ごめんなさい」
丁寧な手つきで床に降ろすと加々見は自分の足で立った。
パンドラの話では深刻な状態と思われたがどうやら平気そうだった。願い箱が操作した可能性、その強制力との主導権争いに加々見は完全に打ち勝ったのだろう。
安心すると凡人の身体から力が抜けた。
凡人の目の前にいる加々見はいつも通りの笑顔を浮かべた。
「いつから」
「あの変な攻撃を受けて一瞬意識は飛んだわ。話は聞こえてたけど、夢を見ているような気分だった。……どうせ色々耳に入っちゃったし、この際全部聞かせて欲しいわね」
「全部、って」
「『どうやら、僕は加々見さんのことが本当に好きみたいだ』とか。あのパンドラとか言う変なの相手じゃなくて、ちゃんと、あたしに向かって言ってほしいかな」
凡人は震えた。雰囲気の変化をせき止めたのは所長だった。
「ぬしら、ラブコメなら他でやれ」
「あはは……」
所長の声は冷たかった。
「で、どうするんじゃ凡人。先も言ったが、ワシは構わんぞ。こうなった以上、どちらでも同じじゃ。ただし、《公平の魔女》たるワシとしてはあの《欲望の魔女》が本当に滅びたかどうかをこの場で調べねばならん。ただ、その作業は話しながらでも出来るのでな」
加々見は巻き込まれた被害者に過ぎない。もはや元凶は去った以上、深い納得を求めさえしなければ魔女や願い箱について教える必要はなかった。
凡人がそう判断すれば加々見は不満を口にはしても素直に従うだろう。この際だ。語れることはすべて吐き出してしまった方が都合が良い。
所長は本当にどちらでも良いのだろう。凡人の答えを待っていた。
「じゃあ、所長。加々見さんの疑問に答えてもらえますか」
凡人の過去について魔女その他すべてをこの場で語るには煩雑だ。手間を惜しみ所長は加々見の質問に答える体を取った。
「娘御、何が聞きたい」
「そもそも……あなたは誰なのかしら」
凡人と所長は顔を見合わせた。加々見の疑問はもっともだった。
所長の自己紹介はざっくりとしたものだった。
「ワシは《公平の魔女》バランサー。凡人の雇い主じゃ。分かるとは思うが……バランサーというのは人名ではないぞ。《欲望の魔女》パンドラも似たようなものじゃな。呼びづらければ所長と呼ぶがいい。凡人はそれで通しておる」
加々見の問う声に戸惑いは少なかった。
「まず、魔女って何?」
「自然現象の一種と捉えよ。吹雪や台風、地震に洪水、津波……そうした天災は地球が引き起こしておるな。ま、災害の一部は、元を辿れば異常気象が原因であり、さらに人類の環境破壊が元でもある……という理屈はさておくぞ。概念として似ていると言いたいだけじゃ」
加々見が眉をひそめた。凡人は口を挟まなかった。
「魔女は一過性の災害って言いたいの?」
「地球は全部繋がっておるからの。地面の中に変化があれば、それは地震や津波となる。空の上で変化があれば、それは大雨や吹雪、台風となる。人間の中に変化があれば、それは魔女となる。こうした分類じゃよ。ま、そういうもんと理解せい」
「あんたも?」
「人間が持つ、災厄を引き起こす要素。どれほどあるのかは知らんが、欲望も公平も、使い方によっては天災より余程悲惨な結末を引き起こすじゃろう」
「でも《公平の魔女》である以上、他の魔女のブレーキ役にならざるを得ないと」
「うむ。低気圧や高気圧が自由意志で動いているわけではない、と説明しておくぞ」
「魔女同士は争っているわけじゃなく、そうと定められた概念に従って動く。結果として他の魔女とぶつかることがある。そういう理解で良いのね?」
「話が早いのう。ちと物わかりが良すぎる気もするが」
自然現象の一種である以上、災害という側面だけではない。
その分かりやすい姿が所長の在り方だった。
極端であれば災厄だが、小規模なものは恵みともなりうる。大雨は困るが普通の雨はむしろ時々無いと植物が育たない。
「仙人みたいなもんね。人間とは別のルールで動いているから味方にも敵にもなる。魔女って言葉のイメージとは若干ニュアンスが違う気もするけど」
「聡いのう。凡人と違って」
所長は意地悪そうに笑った。
「パンドラには欲望を肯定しなきゃいけないってルールがあった。だから願い箱を使って、アレみたいなのを引っかけたと。神話に出てくるパンドラ本人じゃ……ないわよね?」
「さて、名前が先か、行いが先か。そこまでは分からん。似た事例があれば真似する方が楽じゃしな」
所長は注釈を付けた。願い箱はパンドラの箱に似た何かであり本物ではない。但し開けば災厄をまき散らし手元に希望が残る。この逸話を鋳型とした道具だったはずだと。
「大抵の魔女にはな、古い伝承や逸話、伝説や神話に基づいて、それを再現したがる習性があるんじゃよ」
「他にもいるの? あんなのが」
「無論、おるよ。ただ、今回の《欲望の魔女》はかなりの小物じゃったな。大仰な神話にあやかったわりに凡人の言葉で自滅したあたり、欲に振り回されたんじゃろう。それと凡人、危険手当については期待して良いぞ。ぬしのため、ワシなりに適当な報酬を考えておく」
凡人は頷いた。
「魔女と正面から戦うのは大規模災害を止めに行くのと同じで無理筋じゃが、代わりに行動の根幹を突き崩されると弱い。……気温が高くなれば吹雪は起こらんじゃろ?」
加々見は何か言いたげだったが質問を優先したようだ。
「自分で動かず、凡人くんを使っているのはどうして?」
「ワシは《公平の魔女》じゃ。相応にしか動けん。結果を確定しない程度に口は出せるが、手を出す場合には、相応の代償、同等の対価がなければ公平の原則から外れるのでな」
「公平性は機会だけね。結果についてはノータッチと」
「本当の意味で公平を実現させるなら人類を悉く滅ぼすしかないからの。皆が公平に幸福になる手段が存在しない以上、公平に全員を不幸にさせるしかない。しかし不幸の捉え方すら人それぞれじゃ。とすれば、一切が不幸とすら感じぬように取り計らうのみ」
所長は楽しげに語った。
一通り説明を終えて所長は相好を崩した。加々見も笑った。
「とまあ、こんなところで良いかの」
「理解したわ。これだけ聞ければ、魔女についてはもう十分よ」
今のやり取りのどこに笑う要素があったのかと凡人は一人で目を瞬かせた。
「で、凡人くん」
「なにかな」
「大丈夫だと思ったんだけど、もう限界みたい。ごめんね」
テンポ良く所長と喋っていた加々見が笑顔のまま突然膝から崩れた。力が抜けてぐったりと床に伸びた。
咄嗟に身体を受け止め所長に目を向けた。
「随分無理する娘御じゃと思ってはおったが、やはり耐え切れんかったか。願い箱の影響じゃろう」
「打ち勝てば大丈夫なんじゃ……」
「行動と精神を弄るために二十個近く使われ、よくもまあ普通の顔をしていられたな。願われた内容に対し、可能性がゼロであるとして防ぎきったが、それだけのエネルギーが行き場所を失って渦巻いておる。このままでは暴走するのう。あるいは……死ぬかもしれんな」
所長にはあるべき切迫感が見当たらなかった。
「さて凡人」
こういうところが魔女なのだと凡人は嫌な予感を顔に出した。
「願い箱による影響、ワシなら取り払うことは出来る。しかし《公平の魔女》である以上、これには代償を、あるいは対価を必要とする。ぬしは分かっておるな?」
パンドラから突きつけられた選択よりは幾分マシだ。しかし嬉しくはなかった。
こうなった以上どちらでも同じ。
所長が言った意味がようやく理解できた。
「こうなること、分かってましたね」
「ふふ、ぬしを助けたときのことを思い出すのう」
「あの日、僕が怪物に襲われて死にかけることを、所長は前もって知っていた。だけど守ることはしなかった。ただ、命は救った。その意味は分かってます」
状況は似ていた。所長が《公平の魔女》であるゆえに出来ること出来ないことがあることも分かっていた。
「加々見じゃったな。その娘御の名は」
「ええ」
「これほど巨大な因果の歪みを取り払うとなれば、やはり代償は相応の記憶じゃ。その娘から凡人、ぬしについての記憶を奪うこととする。まさか否やはあるまいな?」
凡人は頷いた。
「魔女と願い箱、そして一連の出来事についても忘れさせるぞ。それで良いな」
所長がこうした言い方をする場合、最善を尽くしていると知っていた。
貸与されていた香水の瓶を返却すると所長は瓶の中に詰められたレテの水を意識を失い苦しげにしている加々見の口に一滴だけ垂らした。
レテとは黄泉の国を流れる川でありその水は忘却の力を持つ。
所長のことだ。後ほど不都合が出ないように上手に整合性も取るだろう。
「パンドラの箱について、ワシなりの見解をひとつ言っておくぞ」
凡人は首をかしげた。今更な話を持ち出されて不思議な気がした。
三角帽子を指で持ち上げ、いつかのように魔女は微笑んだ。
「ひとたび開け放てば、中に詰まったあらゆる災厄が飛び出してくる。慌てて閉じれば、得体の知れない希望が残る。その箱とは……つまり人間そのものじゃよ」




