プロ□ーグ
僕は死にかけていた。それを見下ろす人影がひとつ、いきなり視界に映り込んだ。
「ぬし、助けて欲しいかの」
魔女だった。どう見ても魔女だった。
黒いローブに三角帽子。
容貌も声も優しげな美女のそれだ。しかし口調は格好に合わせたように古めかしかったし、謎めいた雰囲気をまとっていたのがありありと感じられた。
勘違いしたコスプレ女の不法侵入――そうだったら、どんなに良かったか。
僕は現実に血を流し瀕死の状態だった。魔女は動じた様子もないが状況を理解している風だった。
泣きたくなるほど現実だった。これが単なる夢であれば、くだらない妄想であれば、この痛みも苦しみも何もかも忘れて目を閉じることも出来た。
彼女はこの住み慣れた一軒家では異物だった。そこにいるだけで明度が落ちるような存在感があった。
屋内では一切の照明が落とされ、気味の悪い暗さが広がっている。さっきもどこかでショートしたような音が鳴った。不安に思うより早くいきなりブレーカーが落ちた。
窓の外から差し込んだ夕日の光は密度の濃い影と混じって家屋の隅々にまでオレンジ色の夕闇が立ちこめている。
黄昏を背に魔女は微笑を浮かべ僕の答えを待っていた。
深く考える余裕もないまま咄嗟に答えようとする。
声は出なかった。喉からひゅうひゅうと音がするばかりでまともな言葉にならない。鋭利な刃物で切断されたせいだ。だから首を動かせるだけの余力も残っておらず今も熱い血が止めどなく溢れ流れ落ちてゆくのを皮膚に感じる。
体中にも穴が穿たれていた。傍目には猟奇殺人事件の被害者だろう。凄惨だ。
他人事のように思う。
普通の人間であればとっくに死んでいた。しかし僕は普通ではなかった。
それもこの小一時間で初めて自覚したことだが。
心臓は動いていた。まだ。
霞む視界の端々に先ほどまで争っていた傷跡が覗ける。
あの大きな柱にはこどもの日に身長を測った小さな傷があった。その傷を抉った巨大な爪痕は比喩ではなく羆に似た怪物の前脚によるもので嫌になるほど現実だった。
部屋中に漂う臭いが死角にあたる廊下側、その四メートルほどの直線が炭化していることを知らしめてくる。
昨日数十分かけて雑巾掛けをしたばかりの廊下だった。
魔女の足下には分厚い木片がある。本来は居間に置かれた木製のダイニングテーブルだったものだ。焦げ茶色で表面が鏡のようによく磨かれていた。家族の団らんが映り込む、生まれてからずっと使い続けた食卓の中心だった。
僕の身体と同じく和室の畳もひっくり返って穴だらけで、さらには部屋と部屋を隔てる壁もほとんど同じだ。
家具の大半が役目を果たせなくなっている。居間に置いてあったテレビの液晶も盛大にヒビが入り、不思議な色合いと模様とが被害の大きさを教えてくれる。
家中どこもかしこも無惨でどこを見回しても血が飛び散っていて、わずか一時間ほどでここまで自宅が荒廃するなど想像できなかった。
支柱も砕けている。いつ家屋が崩壊してもおかしくない状態だった。
枠だけ残った窓から入り込んだ赫赫たる光は、彼女の輪郭を浮かび上がらせた。
やはり魔女だった。
まともな人間なら瀕死の人間を前にこんなにも泰然としていられるはずがない。
ちっとも声にならないが思考は最後まで止めなかった。意識を失って然るべき失血量にも関わらず目蓋を閉じずにいるのは、せめてもの抵抗だった。
魔女の笑みが一層深くなった。
「質問に答えんか。命も時間も有限じゃぞ?」
美しい声で放たれる魔女の口調は作り事の老女のそれだが違和感はなかった。いくらかゆっくりとしたテンポで声はやわらかく澄んでいた。
動かない首を無理矢理持ち上げ精一杯の力で睨み付けた。
手足に力は入らない。身体は動かない。
家の敷地内では、ずっと凄まじい音がしていたはずだ。
どれほど逃げ惑って時間稼ぎをしても無駄で、もはや救急車を呼ばれても手遅れ。僕が理解したのと怪物が手を止めたのはほとんど同時だった。
殺害を終えたと判断したのか、怪物は一顧だにせず消え去った。
残ったのは。
両親が消え無事な場所など一つもない家と死にかけた身体だけ。
隔離されていた。常識では考えられない何かが起きていた。ありえない怪物と目の前の魔女がその証拠だった。
考えるのは思うとおりになってたまるか、その一言だけだった。
「ぬし、随分と失礼よの。ワシは《公平の魔女》じゃぞ。正しく対価が支払われるなら、正当な取引をするのが信条じゃよ。ワシがこうして呼ばれた以上、ぬしには生きる意志があると判断したんじゃが……見込み違いだったかの?」
魔女は見下ろしてくるばかりで手を差しだそうとはしなかった。
「自分の命、その値段を決めよ。妥当なら助けよう。ただし」
魔女は読み取っている。驚く暇もあらばこそ話をどんどん先に進められた。
「無意味に高値を付ければぬしが損する。あまりに安値過ぎればワシは去る」
意識は薄れ体内の血液はどれほど流れ出て命の灯はどれだけ残っているか。半ば意地だけで対峙するには、すでに己の状態も魔女の表情も何も分からなくなっている。
悠長にしている場合ではない。引き伸ばすたび末期が近づいてくる。
「そうじゃな。だが、ヒトを試すのは魔女らしかろう?」
笑った彼女はやはり魔女らしかった。
泡となった血が口内いっぱいに溜まり最後の呼吸を邪魔した。咳き込むだけの体力も残っていない。
「そうか、そうか! 三億円じゃな。死を前に一生を費やすつもりはなく、しかし己の価値を安くは見積もらぬか。その言や良し! この《公平の魔女》が認めようぞ」
僕を抱き上げると魔女は悠々と家から出た。
「じゃがサラリーマンの平均年収を根拠にするとは思わなんだ。およそ二億。きちんと安全策を採ってそこに追加で一億とは……この状態でよく考えたの。生きるのも、金額も、ぬしが選んだんじゃ。忘れるな」
魔女が呟いた。
その瞬間、家屋の周囲を丸ごと包み込んでいた黄金の光は消え失せた。時を取り戻した一軒家は本来あるべき姿として、みるみるうちに崩壊していった。
「怪物に襲われた……では保険は降りんじゃろうな。可哀相に」
これは二年前の初夏の出来事。
彼がまだ、中学二年生だった頃のこと。




