深雪(1)
コン、コホンコホンコホン、ごほっ、くっ…ゴホンゴホンゼィゼィ、
ゴホン、ゴホンゴホンゴホンゴホンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン…っ、ゼィゼィゼィゼィ…
カリカリと鉛筆を走らせる教室の中、押し殺すような濁った咳が反響した。
肩までの黒髪を白いレースのリボンで結った少女は、厚手のタオルで口元を強く押さえる。物憂げな瞳が、ヒュ――…、という胸の音と共に伏せられる。小テスト中の私語一つ無い教室では、押し殺しす甲斐もなく、咳はより苦しげに響き渡った。
うゥッ…ゴホンゴホンゴホン、っゼホ、うぅ――…!っゼホンゼホンゼホゼホゼホゼホゼホ…
か弱く、澱みくぐもった咳――…それは少女の胸に巣食う病が、昨日今日のものでないことを示していた。
咳き入る度に艶やかな髪が、息苦しく喘ぐ細い肩を滑り落ちる。白いリボンが蝶々が羽ばたくように揺れた。
「大丈夫?深雪……」
隣の席の、髪を顎の辺りで切りそろえた、凛とした少女――小百合が背をさする。
「えぇ…ッゴホ…っ!」
深雪と呼ばれた少女は、頷いて解答を取り続けようとしたが、
ゴホゴホゼホゲホンゲホン、ゼェゴホゴホゴボゲホンゲホンゲホンゲホンゲホン…
咳は立て続けにあふれ出し、狭間には喘鳴がきぅきぅと痛々しく響いた。
咳き入る度に紺色のセーラー襟と白いリボンが揺れた。解答を終えた生徒達も、遠巻きに心配と怯えの混ざった視線を向ける。
螺子の外れた機械人形のように、軋む咳を繰り返す深雪。人形のように美しい深雪。
透けるほどに青白い肌、息苦しさに伏せられる長いまつ毛、夜の湖水のような黒い瞳。
人為的なまでの緻密な美しさなのに、その胸だけがひどく弱いことだけが、唯一の生身らしい欠陥だった。
かしゅっ、
深雪は震える手で、吸入を繰り返す。小百合はうやうやしく、力無くも濁った咳に震える背をさすった。
重い喘息を患う深雪…
僅かな仕草の合間にも小さな咳を零し、少し歩き過ぎればぜいぜいと息を喘がせ、冷たい空気や強い香水、煙草の煙には何時間も咳き込み続ける。
本当なら高等部二年の十七歳だが、入退院を繰り返したため、留年せざるを得なかったほど、深雪の胸は弱かった。
特にここ一週間は毎日のように発作が起き、回を重ねるごとに酷くなり、咳は胸の奥深くから裂けていくような響きになっていた。
ゴホ、ゴホンゴホンゴホンゴホン、コンコンコン…
ヒゥうぅ…ッゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン…
吸入でやり過ごしたものの、肋膜が痙攣するような咳は止まらぬまま、深雪は細い肩を震わせていた。
幼馴染の小百合は、一つ年下にも関わらず、姉のように深雪を庇ってきた。
「もう一度吸入して、落ち着いたら保健室で休みましょう」
かしゅっ、
薄紫色のすみれのような唇に吸入器を差し入れたが、深雪はふるふると首を左右に振った。
本当に身体を省みないんだから……だからこそ一緒に居るのだけど。
小百合のつややかに赤い唇が不適に歪んだ。
二年前、あれは高等部への進級試験の頃だった。深雪は入院による遅れを取り返そうと夜中の二時三時まで咳き入りながら机に向かい、発作の起きた雪の日も小百合に背をさすられながら通学した。
学年7位という成績で進級試験を乗り切った深雪だったが、無理がたたり肺炎を併発して高等部の入学式を待たずに入院した。酸素マスクと点滴が手放せず、横になることもできずガタガタと震えながら恐ろしい咳を繰り返し、咳いては吐き、吐いては咳いて…
休学を余儀無くされた深雪を、小百合は毎日のように見舞った。年齢を気にせず、深雪、小百合と呼び合うようになったのはその頃からだ。
1年遅れで復学したものの、喘息は肺炎によって更に悪化していた。胸の炎症が慢性化し、ゼイゼイと咳を繰り返すばかりの深雪…
クラスの少女達は年上の病弱な同級生に対し、腫れ物に触るように距離を取った。騎士のように寄り添ってきたこの年下の親友は、学校の配慮により、深雪の世話役として同じクラスに回された。
ゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホン、ゼェぇゼィゼィゼィ…っゼほッ!
ゼェぇーー…ッうゥ、ゼホゼホゲホンゲホンゲホンゲホンゼッ、ヒうゥゥ…
胸を咳と喘ぎが貫き、深雪は胸を押さえた。口元にきつくタオルを当て、咳を押し殺そうとする度、う、うぅ、微かな呻きと共に抑えきれない咳が悲鳴のように、薄い胸を裂いて溢れる。教壇の教師も心配そうに歩み寄る。
小百合は忙しなく深雪の背をさすりながら、ペットボトルの水を咳の狭間にあてがう。
「ぅ、うゥ…――、く、ふッ…ぁ、ぐぅ・・ッ、うゥっ――、」
ゼィィ、ゼィゼィゼィ…
肺が嗚咽しているかのような、ゼゴ、ゼゴと鳴る咳。飲み込んだはずの水は、絶え間ない咳にほとんどタオルに吐き出されてしまう。
ゼぉ、ゼごぉォォ、ゼぉぉォーーっ、
尋常ではない咳が込み上げた。気管支が縮み上がり、その隙間を息が通り抜けようとする咳。深雪は端整な眉をきつくゆがめ、タオルに顔を埋めた。
「深雪、しっかり……」
小百合は背をさすったり叩いたりしたが、深雪は最早顔も上げられずに絶え間ない咳に身を折った。病がその粘液質な尾をねっとりと引きずるような咳。肺を水あめのような血痰が満たし、それを吐き出そうと肺が裏返るような、まるで肺からの凄まじい嘔吐のような咳。
「っうゥーー…!ぅ、うゥ…!」
ゴホンゼホンゼホンゼホゼホゼホゼホ…ゼェゼェゼェ…
ゼホゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホゲホゲホゲホゲホゲホ…
ゴヒューぅうぅッぜぉホぉっ!
窒息感に背中を波立たせ、痙攣のように小刻みに咳き込むと、生理的な涙が頬を伝った。
「深雪、みゆき!」
「さ、さゆ…ゼぼっ…ッ!」
深雪は束の間タオルを口元から離し、縋るように小百合を見上げたが、途端に身を折り曲げるほどの咳の波になぶられ
ゲホッゲホげほゲホゲホゼおっ、ゼぇぉォォっゼホゼホゼホゼホゼホぜほッぜほェ、ヒぅゥッぜほォぉェ〝っ、、
ばたばたっ、
苦しみに目を見開き、嘔吐した。
どどどっ、
タオルに受け止め切れなかった吐瀉物が、白い蝋細工のような手と清楚な紺のスカートを染め、未消化の朝食に半透明の痰がねっとりと生々しい臭いをはなった。
「きゃあ…ッ」
取り巻く少女達は咄嗟に目をそらしたが、一方で、これで少し治まるのでは、と淡い期待を抱いて深雪を見やる。汚れたタオルを取り落とし、深雪は数瞬、わなわなと自身の吐いたものに濡れた手を見つめたが、
「っゼほ、ゴホ、ゴホ、ゼホ、ゼホ、ゼホゴホ、ゴホ」
残滓を吐き出すようにまた咳き込み始めた。
「ッ…うゥ…――っ、、」
恥ずかしさか苦しみか。深雪は長い睫毛を涙に濡らし、青褪めた頬を染めながら、嘔吐に汚れたままの手で口元をきつく押さえる。
「ゼホゼホ、ゴホ、ゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホ…」
吸い切らないうちに息は、絶え間ない烈しい咳になり、再び胃を裏返すまで深雪を嬲った。
ゼロっ、、ゼぉゴボぉッッ、、
ばたばたと二度目の吐瀉が両の手から溢れ、袖の中へ落ち、青く血管の浮かぶ腕を伝った。
「深雪、しっかり息して」
ゼホ、ゼホゼホ、ゼホぜほぜほぜほ、ゼェ―――っゼェィゼィゼィゼィゼィ…
「ハあ…あ、ヒ、ぐッ」
深雪の瞳が羞恥と苦悶に震え、ぜェはぁと束の間荒い息をついたが、
ぜぉォォォ――ッゼホゴホゴホゴボゼホンゼホンゼホン、ぜぼっ、ゼヒぃぃィィ――、
ぜィゼゴっ、ゼホンゼホンゼホン…ゼぉッ、ゴっ、、
胸の奥でがぼ、と痰の音がせりあがった。すみれ色の唇が、わなわなと痙攣し、小百合までがぎくりと身を震わせる。
「誰か保健の先生、いえ、救急車呼んで!」
小百合の叫びに、教師ははっと打たれたように内線電話で保健室に連絡し、救急車を呼ぶよう叫んだ。
「さ、ゆ…ッゼほっ、、」
吐瀉と唾液に青く震える唇で小百合の名を呼び、腕に縋りながらも、ゼィゼィ、ごんごんと絶え間なく咳き込み続ける。
がぼ、と再び気道を塞ぐ音。涙に溢れた瞳が、苦悶と羞恥に見開かれた。周囲は、ひっと息を呑み、怯えと困惑の視線を深雪に向ける。
「深雪!しゃべらないで」
「 ゼホゲホゲホっぐッ、ぅえェッ、、吐き、たくなゲホッ、」
ゼィゼィゼィ… ゼェぇーーッゼゴゼホっ、
ほとんど意識を失いながらも、嘔吐の羞恥に咽び、必死で押し殺そうとする深雪。細い背中が幾度もびく、びく、と戦慄いた。
「みゆき!!」
「吐きた、ゼホゼホゴボゴホゴホゼホぉッッ、、くない、のぉォ エほ!ゲボゼホゼホゼほお゛ッ、、」
ぼたたっ、ガぼッッ、、
泣き叫ぶ咳とともに、吐瀉物が弧を描いて、深雪の身体がくずおれた。
咳と嘔吐の濁流に飲まれるように。
「みゆき!!」
抱き起こした小百合の腕の中で、細い首が力なくのけぞる。
ゼぉンゼほゼホゼホゼホ…うゥ、ッぜほっ、ゼひィィぃ…――ゴホンゴホンゼホンゼホゼホ…っ!ゼはっ、
肺からの猛烈な嘔吐のような咳、咳、咳。肺と共に胃が裏返っても、最早チアノーゼに紫がかった唇からは、唾液が力無く滴るばかりだった。
救急車が着き、酸素マスクを宛がわれ搬送される深雪に同乗した小百合。
その唇が不適に歪んでいたことには、誰も気づかなかった。