(8)
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【迷惑でしたね。もうメールはしません】
奥多摩から帰ったあと、私は熊川のメールに返信しないことにした。特に誘われるような内容のメールではなかったが、これ以上、彼の悲しさに付き合っていたら、一緒にどこかに落ちてしまうそうな恐怖にかられた。
そして、一週間経ち、彼から最後のメールが届いた。
【ありがとうございました】
ありがとうと言う言葉を聞いて悲しくなったのは二度目だ。私は返信したがる指をぎゅっと握りしめた。そうすると、握りしめた勢いで涙が溢れる。
マネージャーは相変わらず忙しく、忙しくても優しかった。休日の短い時間は、私を買物に誘ってれる。
「クリスマスには絶対に休みをとるから」
前々から、彼はクリスマスを楽しみにしていてくれた。
レストランの予約もプレゼントも完璧だった。
「マネージャーが、そんなにクリスマスが好きだとは思わなかったわ」
季節が移ろうのも気がつかないほど忙しい彼。私は、それでもちっとも寂しいとなんて思わなかった。
桜の春には、散りゆく花びらを二人で窓から眺める。
ひまわりが背を伸ばす夏には、入道雲を見ながら二人でビールを飲む。
コスモスが揺れる秋には、二人で衣替えをする。
そして、星の綺麗な冬には、二人で遠くの富士山を探す。
それだけで十分だった。彼がそばにいると、安心出来た。
「クリスマスが好きな訳じゃないけどさ、クリスチャンでもないしね。でも、何かないと僕みたいに無神経な男は、デートすらできないからさ」
本当に彼は色恋沙汰が下手な男だった。優しくて不器用な中年男に私は恋をした。不器用だから年上だから、ずっと私を守ってくれると思ってた。
それなのに、私は彼の話を聞きながら熊川のことを考えている。
元気なの?
仕事は見つかった?
咳は治まったの?
あの時は何を言いかけたの?
昨日、軍畑Dが居眠りをしていたのよ。
君の代わりに入った女の子が、風邪で休んだのよ。
目黒川のイルネーションがきれいなんだって。
話したいことがたくさんある。
そんなことを考えている私に、彼は優しく話しかけてくれる。クリスマスに買ってくれるブーツの話や、来年の春には式を挙げるという話。そして、正月には私の実家に珍しいお酒を持っていく話。
私は、そのどれもに相槌を打ち笑う。でも、こうしてここに居るのは私ではない私。そんな気がする。
だったら、本当の私はどこにいるのか?
熊川のそばにも行けず、どこかを彷徨っている。寒い夜空を彷徨う魂を私は想像した。
クリスマスを間近に控え、会社の中も少しそわそわした雰囲気が漂う中、突然の訃報が届いた。
絶対に死なないと思っていた昭島が自殺した。
脈が速くなり、冷や汗が背中を伝う。貧血を起した私は椅子から落ち床に倒れ込んだ。
「姉さん、私、死んじゃった。恋なんかで悩んだりしないと思っていたのに、苦しくて苦しくて息が出来なくて。姉さん、ごめんね。姉さん、さようなら」
昭島は手を振って月の中に消えて行った。
気がついた私は、医務センターに運ばれ寝かされた。
「ショックで気を失ったのね。少し休めば良くなるわ」
医療センターには常駐の看護士が居て、昭島はよくアスピリンを貰いに行っていた。
「彼女には精神科を紹介したのだけど、行かなかったみたいね」
私より十歳年上の看護士は、カルテを見ながら残念そうに呟いたきり、何も言わなかった。
昭島が言ったとおり、看護士は四十歳とは思えないほど美しく肌にも張りがあった。
「きっと、特別な薬があるんですよ。絶対に聞き出してみせますから」
昭島は、そう言って笑っていた。無神経で自分勝手な昭島の笑顔を思い出すと涙が止まらなくなるのが自分でも不思議だった。
高校の時に、隣のクラスの女の子が事故で死んだ。特別、仲が良かったわけではないが、電車で一緒になると三十分ほどの道のりを話しながら帰った。
その子が死んだときも、私は泣かなかった。悲しくないわけではなかったが、「死んじゃったんだ」という感想しかなかった。
なのに、昭島が死んだと聞いたら気を失うほど驚き、恥ずかしいほど嗚咽が漏れるのは何故だ。
昭島が異動した部署の同僚を好きになったという噂は聞いていた。そして、その男性には大学時代から付き合っている婚約者がいることも社内では有名な話しだ。
「ある意味、不倫より性質が悪いわよね」
昭島を嫌いな女性社員は多い。だから、あの昭島が顔を赤らめながら、その男性とお茶を飲む姿は、格好の餌食だった。
「中神さんも、昭島が居なくなって安心でしょう」そんなことを言われたこともある。
昭島がどんな想いでいたのか私には分からない。その男性とどんな付き合いをしたのかも、噂でしかなく、本当のところはその男性と昭島だけが知っている。
「昭島の、それがあんたの未来だったの?そんな運命しか用意されてなかったの?」
医療センターのベッドに顔を押し付け、私は泣きながら叫んだ。