(7)
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熊川が会社を辞めたのは、秋の終わりだった。それから、私と熊川は毎日メールをするようになった。
【今度の仕事は、どうなの】
【まだ、よく分からないんです】
そんなメールだった。
熊川が勤めたのは、小さな商社だった。一流大学を出た熊川が転職するには、ちょっと勿体無い気がする。
【今日は倉庫で品物を梱包してました】
【大変だね】
私の心配は当たった。
熊川は、また会社を辞めると言い出した。
【やっぱりダメたいです】
小さな会社で、営業の仕事だけではなく肉体労働も多く長時間の労働が強要される。自分の想い描いていた仕事と、とんどん離れていく現実に熊川は鬱になりかけていた。
そんな小さくて弱い男に「頑張れ」と私は言えなかった。
子供の頃から、ずっと「もっと頑張れ」と言われ、頑張れない自分を責めて成長した。
頑張っているつもりでも、いつのまにか諦めてしまう自分。そんな自分をどんどん嫌いになり、頑張るのが怖くなる。悪循環だった。
そんな私に秋川は「頑張れ」とは言わない。家事をさぼっても、「いつかやればいいさ」と許してくれる。
最初は、その優しさに無理をして疲れていても掃除をしたりしたが、今は甘えてしまう。
これでいいんだ。そう思えるときもあるが、やっぱり駄目なんだと自分を責める癖は抜けない。
だから、熊川には【駄目なときもあるよ】と返信した。
私と熊川は育った環境も性格も違っていた。しかし、何か感じあえるものがあった。
それは、秋川のときには感じることの出来ない。暗く脆い何かだった。
熊川に久しぶりに逢あったのは、十二月の半ばだった。
【ふたご座流星群を見たいんです】
天文ファンでもない熊川が、突然奥多摩まで車で行くとメールしてきた。
【流星が見えるの】
私もインターネットのニュースで流星群のことを知っていた。でも、きっと私はわざわざ夜空を見上げては探さないだろうと、その時は思った。
【奥多摩に行けば良く見えると思います】
真っ暗な空に星が流れ、眼下に街の灯りがきらめくのを想像した。それは、子供の頃に父の運転する車で高速道路を走った時の光景。自分たちが住む町が電球の一粒一粒になり、星と交じり合う。
街が宇宙の果てに繋がっているように思えた。
熊川が運転する車の助手席に座り川沿いの道を登った。秋川には派遣仲間と飲むことになっている。
誰かと飲に行くことの少ない私に「そうだよ、たまには飲に行きなよ」と秋川は快く許してくれた。
別に後ろめたいことをするつんもりなどなかったが、男性と二人でドライブすると言うのは、相手が熊川でも言いにくい。
駐車場に車をめると、秋川は後ろの席から分厚いコートを出して羽織、空の視界が開けた場所を探して歩き始めた。
キャンプさえしたことのない私は、不覚にも薄手のコートを羽織り震えながら熊川と一緒に空を見上げた。
「あっ」流星を見つけた熊川が指をさすが、もうその時には消えている。
「あれ」今度は私が見つけた。
震えながら夜空を一時間も見上げていると、首が痛くなった。こんなとき、秋川なら自分のコートを私に掛けてくれるだろう。それに、もっと首が痛くならないところを探すに決まっている。
でも、熊川はそうしない。自分の首をときどき回し、じっと流星をさがしてばかりだ。
寒さに耐えきれず「車に戻ってていい」と熊川に聞くと、初めてコートを貸してくれそうになったが、冷え切った身体はコートよりも車のヒーターを求めていた。
恐縮しながら車のキーを渡した熊川は、もう少し流星を見ていると言った。
車の中から見る分厚いコートを着た男は上を向いて涙を堪えているように見えた。
きっと、なにもかも上手く行っていないのだろう。辞めようと思っている会社での仕事も、人間関係も。そして、一流企業を辞めてしまった息子と、その家族の間も。
やっと帰って来た熊川に「夜空に昇りそうだったよ」と私は言った。
「待ってたんです。宇宙人が来て僕をつれて行ってくれるのを」
もう、この星には自分の居場所はないと熊川は言った。
「行けたらいいね。自分だけの星があったら」
涙を溜める熊川を私は抱きしめた。私の腕の中で泣く男は初めてだった。