(5)
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一緒に暮らし始めてからも、私はいままで通り派遣の仕事を続けた。成り行きで入籍したものの、私には結婚が意味のある法律行為だとは思えない。
妻であるという理由だけで、彼に保護され扶養されるというのは可笑しな話だと思う。
その話を彼にすると、「そんなに深く考えなくてもいいんじゃない」と言って笑うだけで、特に賛否の意思を示さない。
彼にとって、とうでも良いことは賛否を現さないのが争の種を作らないことだと思っているようだ。
私も同じようなタイプだが、それは時にとてもつまらないと私は感じてしまう。
私が考える結婚は共同生活なのだ。共同生活と言う言葉にはどこか、よそよそしい響きがあるが、そんなことはない。
好きではない人と、共同生活なんて出来っこないのだから。
彼は新しい会社でも、忙しく仕事をしている。朝は七時前に行き夜は十時を過ぎないと帰ってこない。
それは、同じ職場にいたときと変わらぬ彼のライフスタイル。ごくまれに「疲れた」と言ったり愚痴を言ったりするが、それも不愉快になるほど長くは言わない。
私は私で、八時前に家を出て七時過ぎにには家に帰る。単調だが、彼が帰ってくるまでの数時間は寂しさよりも、自分だけの貴重な時間だった。
結婚式の日取りを決めないまま半年が過ぎた。夏までにはと言いながら、彼の仕事が忙しく七月を迎えた。
相変わらず気分屋の昭島は、ついに念願だった異動をすることになった。
「ナカガミ姉さんには、大変お世話になりました」
昭島はサバサバと言いながら、書類の片づけをする。
「良かったね。希望の部署だったんでしょう」私の言葉に、昭島はなんの躊躇いもなく「早くこの部署から抜けたかったんですよ」と言ってのける。
私が派遣されている部署は、確かに営業や企画のような花形の部署ではない。どちらかと言えば、終わった仕事の始末をつける。そんな部署だ。
来週には昭島の代わりに、若い男性が異動してくる。
昭島は、その男性のことを「のんき君」と私に教えてくれた。
「私の一つ下なんですけどね、なにしろやることがノロマなんで、同期の間ではのんき君と呼ばれてるらしいです。
まあ、まだ若いのに企画から飛ばされてくるんだから、仕事ぶりは期待しない方がいいですよ」
事情通の昭島も、彼が何をしでかして飛ばされるのかまでは知らないようだ。
派遣社員として三年が過ぎ、昭島の代わりにのんき君が来る。マネージャーだった人が秋川Dになり、今は「ねえ」と呼ぶ相手になった。
そして、秋川Dの席にはリタイヤDが座っている。
私が失敗をしたわけでも、努力をしたわけでもないのに周りはどんどん変わり、私自身も変わっている。
本当に変わらないものなどなく、未来は予想も想像もしないことが起きるのだ。
「今日努力しないやつに未来なんか来ない」
それは父が飲ながら私に説教するときに必ず言う言葉だった。だから、私はその言葉を信じ、自分には未来など来ないと思っていた。
しかし、それは嘘だった。今、現実は常に変わりそれは努力なんか関係ない。私はなんの努力もせずに、こうして自分が考えもしなかった未来を歩いている。
「送別会やろうか、二人で」
私は私物をダンボールに丁寧にしまう昭島に後ろから声を掛けた。
「いいですよ。もちろんナカガミ姉さんの驕りでしょう」
振り向いた昭島の首筋は白く色気があると思う。
「安いところよ」私が近くにあるイタリアンの名前を出すと、昭島は「そこはつまらないですね」と言って、私が行ったことのない郷土料理の店を指定した。
異動の決まった昭島は、今までよりも二時間早い六時に店を予約し、まだ片付けが途中の私に「行きますよ」と言って勝手にパソコンの電源を切ってしまう。
相変わらず勝手な女だが、二年も一緒にいるとそんな行動にも愛着を感じるようになる。
昭島に連れていかれたのは、男鹿半島の料理が食べられる居酒屋だった。
「へえ、こういう店に来るんだ」
お洒落な店しか来ないと思っていた昭島が、土蔵作りの内装に座布団を置いただけの椅子が並ぶ店を知っていることが意外だった。
「ここだけです」
初めて昭島が秋田の出身だということを知った。勝手に東京生まれの東京育ちだと思い込んでいた。
「東京に来たのは大学の時からです。父親が東京に転勤になったから、家族で引っ越して来たんですよ。
見れば分かるじゃないですか、私が秋田美人だってことぐらい」
昭島の話にカウンターの中で料理を作っていた店主が笑いながら頷き、昭島は店主に指でOKのマークを作った。
「しゅんさいです」
小さな小鉢に盛られたインゲンをゼリーでまぶしたような着き出しに箸を入れた。
「美味しいわね」
ヌルヌルした水生植物は、爽やかな口当たりだった。
「美味しいでしょう。秋田にはなんの愛着もないけど、このしゅんさいだけは忘れられないんです」
昭島は雪ばかりふる秋田県が好きじゃないと言う。私も特に故郷が好きな訳じゃない。でも、そのことを人に言うと驚かれる。
特に東京の人は、田舎者は故郷が大好きなのだと信じているらしい。
「私も東京の方が好きだな」
昭島は意外そうな顔をして「へえ」とだけ言い、焼酎のロックを飲干した。
「きりたんぽって知ってるでしょう。あれも好きじゃないんです。
大学の頃に、秋田出身だって言うとみんなが「美味しいよね」って言うんですけど、本当に食べたことあるのかなって思ってました。
そう思うと、つい「あれが美味しいの?」と言ってしまうんです。なんか、馬鹿にされたみたいで腹が立つんですよね」
さすが昭島だ。私も『ほうとうが美味しい』と言われるのには辟易していた。でも、昭島のようにあえて反論をして場を白けさせる勇気などない。それに、私も同じようなことを他県に言っている。
それから、お互いに故郷の悪口を言い合いながらお酒を飲んだ。
「ナカガミ姉さん」お酒が強くない昭島は、すぐに酔ってしまい眠そうな声を出す。
「どうした昭島の」久しぶりにそう呼んだ。
「借りは返しましたからね、分かってますか?」
昭島は女どおしでキスしてしまうほど顔を近づけて絡む。こんなことは初めてだ。
「なんの話よ」お酒に強くない私は、熱いお茶をもらい飲む。夏でもふーふーと息を吹きかけて飲むほうじ茶は、気持ちを安らかにしてくれる。
「私がメールの誤送信をしたとき、姉さんが助けてくれたでしょう。
あの時、すごく悔しかったんです。こんな派遣の女に笑われたって思って。だから、絶対に借りは返すって誓ったんです」
昭島というのは、本当に人を不愉快にさせる言い方を平気でする女だ。付き合わなくてすむなら付き合いたくない部類に入る。
「でも、私は倍にして返しましたよ」
酔っているとはいえ、険のある言い方だ。
昭島には分かっていたらしい。
私が彼を好きだと言うことが。それは、私が気が付く前から、この二人はきっとお互いに好きなのだと。
そして、不器用な二人は、このまま自分たちの気持ちを言うことも出来ずに、少しずつ忘れるのだろうということを。
「あの時、デートをアレンジしたのは私ですからね。あれがなければ、姉さんと秋川Dは結婚どころかキスも出来なかったんですからね。きっちりと借りは返しました」
昭島の言うとおりだ。私が昭島にしたことは、昭島を思ってしたことではない。ただ、身の周りに起こった出来事にちょっと手を貸したに過ぎない。
でも、昭島は違う。しなくても良いことをしてくれた。
「そうだね。感謝しなくちゃね」
私は改めて昭島に出会った意味を知った気がする。人は好きな人や嫌いな人に出会うのではない。出会うべき人に出会うのだと思う。
その意味が分かる人も分からない人もいるが、昭島に関して言えば出会った意味が分かった気がした。