(2)
(2)
「辞めます」と言い出せないまま半月が過ぎた頃、生意気な彼女が大失敗をした。
メールの送信先を間違えたのだ。それも、大量に。
「やばいな」彼は頭をかかえ善後策を考え、その女性は半べそをかくばかりで、何もしようとしない。
「まずは、相手先に電話しましょう」前に同じような失敗をしたことがある私は、その時のことを思い出した。
「そうだな、手分けして電話しよう。面倒そうなとこは僕が担当するから」
彼は自分の分を割り振ると、他の相手先を私と彼女に渡した。
「大丈夫、私も同じような失敗をしたことがあるから」
泣きべそをかく彼女に「ちょっとだけ休憩していいよ」と言い私は電話機を手にした。
ネチネチと文句を言う相手や、怒鳴る相手もいたが、大方はすぐにメールを削除してくれると言ってくれた。
休憩から帰ってきた女性も、必死で電話をした。
私と女性ができることはそれまでだった。私たちが彼を残し会社を出たのは八時を過ぎていた。
会社を出ると微かに金木犀の甘い香りが漂っている。
「すいませんでした」
彼女は言いにくそうに私に謝った。日頃馬鹿にしている私に謝るのは彼女にとってはよほど屈辱だったのだろう。
その声はいつもより2オクターブも低い。
「いいよ」なんだか彼女が可哀想になって私は精一杯笑顔を見せたが、彼女は顔を強張らせたまま「この借りはぜったいいつか返します」と強がった。
そのセリフがとても芝居がかって聞こえ、私は吹き出して笑いながら「おう、いつか返してもらうじゃけん」と私は変な広島言葉で彼女を笑わせた。
それ以来、彼女は私のことを「ナカガミ姉さん」と呼び、私は彼女を「昭島の」と名字に『の』をつけて渡世ごっこをしている。そして、彼のことは「秋川D」とロボットのように呼ぶようになっていた。
姉さんと呼ばれるのは嬉しくないが、昭島のは、彼のことを良く知っていた。彼に気がある訳ではないらしいが、「やっぱいい仕事をさせてもらうには情報は大事ですから」と上昇志向をひけらかす。
しかし、彼女の上昇志向のお蔭で、私は知りたかったことが分かった。それは彼が一度も結婚していないこと。
「まあ、珍しくはないですけどね」
彼女にとっては、重要な情報ではないようだが私はとても気になっていた。でも、その時は、まだ彼を好きになっていなかったと思う。
相変わらず英語に苦しめられ、ときおり昭島のにもカチンとくるが、まあ、平穏だと思っていた毎日が続き、季節は秋から冬になった。
「実は来月で会社を辞めることになったよ」
金曜の夜に、私と昭島はワインバーに誘われた。昭島のグラスにワインを注ぎながら、彼は苦笑い転職の話を始めた。
ちょっと前にその話を昭島から聞いていた私は、驚くよりも残念な気持ちの方が強かった。
「もう、次の仕事は決まってるんですか?」
黙っている私の横で、昭島は好奇心たっぷりに彼に尋ねる。
外資系企業では転職は珍しいことではなく、むしろ次のステップに進んだ証拠なのだと彼女は話していた。彼も、この会社に転職して入ってきている。
「うん、今度はまったく違う業界だ」
好奇心たっぷりに、次の仕事のことや収入のことを尋ねる昭島に、
「まあ、そんなとこかな」と彼は適当にはぐらかした。
その後は、会社を辞めるとは思えない雰囲気で、スポーツの話や映画の話をして楽しく過ごそうと彼は努力していた。
彼が新しい仕事で実力を発揮することは、彼にとって良いことなのは分かっている。今の仕事は彼にとっては退屈でつまらないだろうことも分かっている。
でも、私は納得出来なかった。
『辞めないでしい』という彼の言葉で、私は仕事を続けていたのに、彼の方が先に辞めてしまうなんて。
翌日から、私は彼に冷たく接してしまった。いけないと思いながらも、どうしても素っ気なく返事をしてしまう。
そんな私に昭島が「ナカガミ姉さんも、案外ドライなんですね」と小声で嫌味を言った。
ドライ。そう言われるのは嫌ではない。ドライになりたいから派遣社員のままでいるのだ。今までも「社員にならないか」と言われたことはあったが、断ったのはどっぷりと仲間に入りたくなかったからだ。
派遣社員だから許されることもある。飲み会も女子だけで行われる悪口大会にも参加しなくてすんだ。
でも、彼に冷たく接してしまうのはドライだからじゃない。