夏―前編―
あの夏達。ミンミンゼミが鳴きしきる田舎。あぜ道。トンボが飛んでゆく。
太陽を仰ぎ見るのが疲れたのか、下を向いてしまったひまわり。
田んぼで青々と輝くイネ。
縁側でほほえむおばあちゃん。
戻らない夏。
夏―前編―
私は母の実家が大好きだった。
古臭い農家の家はいつ行っても変わることが無く、その空気は私をいつも心地よく包み込んでくれる。
母は長男の家に嫁いだためか、夏にしか実家に帰ることが出来なかった。
父が寒いところが嫌いだったのも理由だったのかもしれない。
だから私は夏のおばあちゃんちしか知らなかった。
暑い夏も風通しのいいおばあちゃんのうちではクーラー要らず。
外に出れば日本の夏らしく蒸し暑くてたまらないが、子供だった私には関係は無く、麦藁帽子をかぶって駆けずり回っていた。
「今年も遠くから大変だったねえ。」
おばあちゃんは4時間車を運転した父にそう声をかけた。
「いいえ。今年は道路がすいてて、楽でしたよ。」
「お母さん。ただいま。」
母はおばあちゃんに軽く挨拶すると、荷物を片手に家の中へと入っていく。
「由香ちゃん来てくれたんだねえ。」
私は車を降りるとおばあちゃんの胸に飛び込むようにそばへ駆け寄った。
「おばあちゃん!久しぶり!元気してた?」
おばあちゃんはうれしそうにニコニコと微笑み、私の手をとってさすった。
おばあちゃんは私に会うと必ず、こうして私の手をさするのだ。
それは私への愛おしさの表れのようで、おばあちゃんのしわしわの乾いた手が私は大好きだった。
「由香!早く荷物、家の中に運んで。」
母に言われ、私は渋々自分の重い荷物を抱え、家の中へと入る。
昔ながらのおばあちゃんのうちは、玄関入ってすぐ土間があり、8畳間が6部屋の平屋だ。
天井は高く梁が見えるその造りは、どっしりとしている。
「こんにちは。」
母の兄、孝一おじさんが居間から顔をだした。
「こんにちは。お世話になります。」
母に言われたとおり、挨拶すると、孝一おじさんは日に焼けて真っ黒の顔に満面の笑みを浮かべた。
「由香ちゃん、おっきくなったね。今年いくつだい?」
「12です。」
「もうそんな歳かい。おじさんも歳をとるはずだわ。」
タバコのやにで茶色くなった歯を出して、がははと笑う。
「お兄ちゃん。これ、おみやげ。洋服と、お菓子。」
母が孝一おじさんと話している隙に私は麦藁帽子をかぶりなおし、外へと飛び出た。
大人の会話に交ざっているのは、正直つかれる。
そんなことよりも1年ぶりにこの田舎を走り回りたい。
「由香ちゃん。どこか行くなら、ポチも連れて行って。」
通りすがり、おばあちゃんは飼っている犬のポチの鎖を私に手渡してきた。
「うん。」
孝一おじさんが去年どこからか拾ってきたポチは野良犬だったため警戒心が強く、1年ぶりの私のことも忘れてしまったのか、うーうーと歯をむき出しにしてうなった。
「・・・おばあちゃん。無理だよ。怖い。」
「大丈夫だよ。ポチは単純だから。」
そう言っておばあちゃんはポケットから袋に入ったクッキーを私に手渡した。
「そのクッキーあげれば、すぐ由香ちゃんの事大好きになるよ。」
恐る恐るクッキーをつまんで、ポチに差し出す。
待っていましたとばかりにポチはクッキーにかぶりつく。
「うわっ!かまれるかと思った。」
「ほら。もう一個頂戴って。」
おばあちゃんの言うとおり、私の手の中に残る数枚のクッキーをもの欲しそうにきらきらと目を輝かせてポチは見ていた。
「はい。」
尻尾をパタパタと振って、クッキーをあっという間に食べてしまった。
「ほら。もう由香ちゃんのこと好きだって。」
もうクッキーは無いのに、私に尻尾をふる。
「ほんと、単純だね。」
「さ。お散歩よろしくね。」
ポチの鎖をつかみ、あぜ道へ出る。
夕暮れを迎えつつある時間。
ヒグラシが鳴く。
涼しい風を感じながら、遠くに見える山や、広がる田園風景を眺める。
風が吹くとイネが一斉に波打ってゆく。
「気持ちいい〜」
思わず言葉がもれる。
「ポチ。気持ちいいね。」
私の言葉なんて無視して、ポチは私を引っ張りずんずん進む。
これではどっちが散歩しているのやら。
「ポチ!引っ張らないでよ!」
ポチの前に出ようと走る私の行為を競走と勘違いしたのか、ポチも勢いよく走る。
あぜ道を彩る夏の花々たちを横目に走る。
「ただいま〜」
「由香!どこ行ってたの?夕飯作るのくらい手伝わなきゃ。」
すでに用意された夕飯がいい香りを放っている。
「由香ちゃんにポチの散歩を頼んだんだよ。」
すかさずおばあちゃんがフォローしてくれた。
「そう。遠くまで行ってたのね。」
「うん。ポチ、すっごい元気なんだもん。」
「さあさ。ごはんをお食べ。おなかすいたろ。」
おばあちゃんに促されて、席に着くと、大きなテーブルに旬の野菜が調理されて並んでいた。
ぐうとお腹が鳴る。
孝一おじさん、孝一おじさんの奥さんの順子さんが座り、母と父も席に着く。
「いただきます。」
普段よりも行儀よく、嫌いなトマトも何とか食べる。
だんだんとお酒が入り、私とおばあちゃん以外はほろ酔い気分で宴会開始。
「つまらないだろう?ごはん食べ終わったなら、お風呂に入ってきな。」
おばあちゃんの助け舟で大人の宴会から抜け出す。
お風呂から出ても、大人達の宴会は続いていた。
「由香ちゃん。奥の部屋に布団敷いておいたよ。」
「うん!」
奥の部屋はおばあちゃんの部屋だ。
毎年毎年おばあちゃんと一緒に寝るのが私の恒例。
私が布団に潜り込むとおばあちゃんは私の横に座って、私の手をいつものようにさする。
「由香ちゃんの手はきれいだねえ。おばあちゃんなんてしわしわだよ。」
「私、おばあちゃんの手、大好きだよ。」
「おばあちゃんも由香ちゃんの手、大好きだよ。」
うれしくて、含み笑いをすると、おばあちゃんも真似して笑う。
「由香ちゃんはどんな大人になるんだろうねえ。由香ちゃんが大人になるまで、おばあちゃんも頑張って生きなきゃ。」
「そうだよ!長生きしてね。」
暑い日差しで目が覚めると横で寝ていたおばあちゃんはもういなかった。
「いつまで寝てるの?!」
母の怒鳴り声でガバっと起き上がる。
「今起きた!!」
「今日はお墓参りに行くんだから、早く準備して!」
「はあーい。」
服を着替え、寝癖だらけの髪の毛を手ぐしで直すと、部屋を出る。
孝一おじさんと順子おばさんは畑に行ってもういない。
冷めてしまった朝ごはんが私の分だけ残っていた。
「早く起きないからよ。」
味噌汁だけは温めなおしてくれたのか、ほくほくと湯気が出ている。
「おばあちゃんは?」
「外でお墓に供えるお花摘んでくれてる。」
おじいちゃんは母が高校生の時に亡くなった。
だから私は会ったこともないし、古い白黒写真でしか姿を見たことが無い。
「おじいちゃんってどんな人?」
「え?そうね・・・子供がすごく好きでね、すごく優しい人だったのよ。」
母が悲しそうに微笑む。
「お母さん、学校がすごく遠くてね、家に帰る頃には真っ暗で。
今みたいに街灯もなかったのよ。
だからいつもお父さんが途中まで迎えに来てくれるんだけど、ほら、高校生くらいだと父親ってちょっとうざい存在だったりするじゃない?
だから毎日帰り道で喧嘩してたのよ。
迎えなんていらない!だめだ!こんな夜道一人で歩くなんてあぶない!って。
今でも、もっと大事にしてあげればよかったって、
何もしてあげられなかったって後悔する。
でもそんな些細な喧嘩も今となってはいい思い出でね。
お父さんの子供に生まれてよかったってすごくすごく思うの。」
「へえ〜」
「由香にはまだわからないかな。」
「ううん。ちょっとはわかるよ。」
夜、おばあちゃんと布団を並べて寝ていた。
明日は帰る日だ。そう思うと無性に寂しくて寝付けない。
「おばあちゃん、起きてる?」
隣の布団がもぞもぞと動き、おばあちゃんは私の方に向き直った。
「寝れないのかい?」
「うん。私、もうちょっとおばあちゃんちにいたいなあ」
おばあちゃんは何も言わず、微笑むだけだ。
「おばあちゃんも私が帰ったらさみしい?」
「寂しいよ。由香ちゃんがいなくなるとね、この家が急にしんと静まり返って、家までもが寂しがってるみたいになるんだよ。
由香ちゃんはね、おばあちゃんにとって”夏”なんだよ。
由香ちゃんがこの家に夏を連れてきてくれる。」
遠くで時間を間違えたせみがみんみんと鳴く。
涼しい風が流れて、私は大きく深呼吸をした。
「夏って?どうして私が夏なの?」
「夏はね、すべてが活気付く季節なんだよ。
木々は萌えて、花は太陽を仰ぎ見る。
目覚しい成長が起こるんだ。
由香ちゃんはおばあちゃんを元気にしてくれるの。
生きる気持ちを強くしてくれる。」
そう言って、おばあちゃんはいつものように私の手をとり、さすった。
「毎年毎年、由香ちゃんがくれる夏がおばあちゃんは待ちどおしいんだよ。」
「私もおばあちゃんといる夏が一番好きだよ。」
おばあちゃんはうんうんと何度もうなづくと、私の布団を整えた。
「さあ、もう寝なきゃ。明日は早いんだから。」
朝、いつもより早く起きると外に躍り出た。
昼前に出ると言うので、少しでも長くこの田舎を満喫したかったのだ。
おばあちゃんちをでて少し行くと、小さな小学校がある。
母が通っていた小学校だ。
母は去年ここに私を連れてきて、教えてくれた。
小学校の校庭の片隅にある、つばき。
母が小学校を卒業する時、母の父、つまり私のおじいちゃんと植えたのだそうだ。
シーズンではないので花は咲いていないが、青々と葉が茂っていた。
「植えた時はこんな小さな苗だったのにね。」
母がそう言っていたのを思い出した。
私のひざくらいまでしかなかった苗が、私の身長をはるかに超えている。
「すごいなあ・・・」
日々成長してゆくすべての生き物。
私もどんどん大きくなってゆく。
すうと深呼吸する。
大好きな空気。
もっともっと成長したいと大きく大きくのびをする。
「忘れ物は無い?」
「うん。」
車に乗り込む。
おばあちゃんが寂しそうな顔で車に近づいてきたので、私は窓を開けた。
「また来年来るね。」
「待ってるね。来年は、もっともっとおっきくなってるねえ」
そう言っておばあちゃんは私の頭をなでた。
「おばあちゃんも、体に気をつけてね!私に会うまで元気でいてくれなきゃだめだよ!」
おばあちゃんはうんうんとうなづく。
「来年も、私が夏を連れてくるよ。」
「由香ちゃんがくれる最高のプレゼントだねえ。」
車はゆっくりと動き出す。
「ばいばい!」
「ばいばい」
手を振り、お別れを言うおばあちゃんの目には涙がうっすら浮かんでいる。
思わず私の目からも涙がこぼれおちた。
2,3歩車を追いかけ、立ち止まり、手を大きく振るおばあちゃん。
来年まで会えないおばあちゃんの姿を忘れないように、私はその姿を食い入るように見つめる。
私たちの姿が見えなくなるまで、そして見えなくなっても、おばあちゃんは私たちを見送っていた。
私が覚えているおばあちゃんとの思い出。
いつも一番に思い出すのは、この別れの瞬間のおばあちゃんだ。
そして、この年の夏が、おばあちゃんとすごした最後の夏になってしまった。