断章「inwardly」
ルーニー・マットソンは、幸福だった。
高原の村『オーレリア』。牧場を営む家に生まれた彼は今年で十九になる。
小さい頃から家業を手伝わされていたおかげか、自然と自分がこの仕事を継ぐのだろうなという意識があった。
動物と接するのは嫌いではなかったし、ひとり息子であるということもそんな思いを強くさせていたのだろう。
父母、祖父母、離縁して出戻ってきた叔母。ルーニーを含めた六人で経営しているマットソン牧場には、近々もうひとり家族が増える予定があった。
ルーニーが結婚するのだ。
相手の名は、アリーシェ・ステイシー。ルーニーと同じ十九歳である。
出会ったのは、今より一年半ほど前。村長の付き添いで近くの村に行った時だった。
村長が出かける際、護衛代わりに付き添うことはよくあった。特に武術の心得があるわけではないが、のどかで若者の少ない村のため、自然とルーニーが候補に上がるのである。
その時に訪れた村の、村長の娘。それがアリーシェだった。
もしかしたら一目惚れだったのかもしれない。
彼女は、咲き誇る花々よりも美しかった。
つややかに長い髪。新雪を思わせる白い肌。恐縮しない程度に上品さを備えた立ち居振る舞い。そして知的な物腰。
そんなすべてが彼女の魅力となって表れていた。
村長同士が話し合いをしているあいだ、彼と彼女もまた、少しだけ話をした。
その時どういうことを話したのか、ルーニーは覚えていなかった。ただ、もし現実に女神がいたらこんな感じなのだろうなと、本気で思ったことは覚えている。
それを彼女に言ったら、恥ずかしそうにして笑われたが。
その後もルーニーは、なにかしらの理由をつけてはアリーシェに会いに行った。彼女としても、それを歓迎してくれた。
逢瀬を重ねるたびに、ふたりは関係を深めていった。
◆
青空の下、ルーニーは村の中を走っている。
たずねてくる彼女を出迎えに行くためだ。
アリーシェがマットソン牧場を訪れるのは、これで五回目ということになる。家族との関係も良好で、牧場の仕事もどうやら気に入ってくれているようだった。
順調だ、と思う。
軽快に足を運んでいると、着いたばかりの定期馬車から降りてくる彼女の姿が目に入った。
「アリーシェ!」
はやる気持ちに逆らわず、叫ぶように呼びかける。
彼女も彼に気づいたらしく、手を振ってそれに答えた。
「マトンのミートパイを作ってきたの。今回のは自信作よ」
「今回のは? てっきり、いつも自信作だと思ってたけど」
先ほど走ってきた道のりを、今度はふたりで並びながら歩く。
ルーニーの片手にあるバスケットの中身が、どうやら話題のそれらしい。
「そのつもりだったんだけれど。この前のは、ジェイミー叔母様があまり良い顔をしていなかったから」
「ああ……叔母さんは肉嫌いだからね」
ルーニーの苦笑いに、アリーシェは「そうなの?」と立ち止まって聞き返した。
「たぶん、せっかく君が作ってきてくれたからって我慢して食べたんだよ。こっそり、好き嫌いのことは黙っててって言われてて」
「……どうしましょう……」
心底困ったように下を向くアリーシェ。
そんな彼女に、ルーニーは「まぁ、今日はその心配はないよ」と言葉をかけた。
「そのパイは僕がひとり占めすることになるから」
「……どういうこと?」
ピンとこない表情のアリーシェへ、一拍だけ置いて答え合わせをする。
「『ファルシャング』がやってるだろ? 家族みんなでそこに行っちゃったのさ。牧場のことを全部僕らに押しつけて」
『ファルシャング』とは、近くにある村の伝統的な祭りのことだ。
「きっと、僕らに対する意地悪だね」
アリーシェは「まぁ」と目を丸くしたあと、噴き出すようにして微笑んだ。
「望むところよ。ゆくゆくは、本格的に手伝うんだもの。今のうちに大変な思いを経験しておくのも悪くないわ」
「その前向きさには、いつも感心するよ」
「別に普通よ。だって後ろを向いていたら、歩きづらいもの」
ふたりのあいだに笑みがこぼれる。
周りを行く住民たちは、そんな彼らに暖げな視線を向けていた。
広大な牧草地で、馬、牛、豚、羊、ヤギなどが伸び伸びと過ごしている。さらに牧羊犬、小屋の中にいるニワトリなどを合わせたすべてが、マットソン牧場の仲間たちというわけである。
ルーニーは作業量にうんざりしつつも、同じ仕事を彼女と一緒に取り組むということに、言いようのない充足感を覚えていた。
共に生きるというのはこういうことなのかと、ぼんやりとだがわかった気がした。
「見て。バーサとダーシーが一緒に草を食べているわ」
一段落ついて、休憩中。なだらかな斜面に腰を下ろしたアリーシェが、二頭の仔牛を指差しながら弾んだ声で言った。
「前に来た時は、とっても仲悪そうにしていたのに」
「すごいね。もう見分けがつくようになったんだ」
ルーニーは仔牛ではなく彼女を見ながら、参ったというように漏らす。
「僕は先月まで、どれが誰だかわからなかったのに」
うそぶく彼に、アリーシェはクスクスと笑いをこぼした。
穏やかに流れる時間。こんな毎日を送れたらどれだけ幸せだろうかと、ルーニーは心の奥で噛み締めた。
異変が起きたのは、そんな時だった。
牧草地の向こうから、ひとりの男性が走ってくるのが見えた。
「……?」
見知らぬ顔である。
その表情は、必死と表現できるものだった。
走る姿にしても、なりふりかまわず、といった不穏な様子が伝わってくる。
胸騒ぎがした。
「助けてくれ!」
男性の叫びが、そんな不安を現実のものにした。
「どうしたんです?」
息を切らせている男性へ、ルーニーが慌てて問いかける。
男性はすがりつくようにルーニーの腕をつかんだ。
「『モンスター』に追われてる!」
「……!?」
まるで言葉そのものが凶器であるかのように、聞いたふたりの体をすくませた。
「かくまってくれるだけでいい! 頼む! 助けてくれっ……!」
男性の懇願は、まさしく心からの命乞いのように思えた。事情はわからないが、それを断ることは、ルーニーにはできなかった。
「……わかりました。えぇと……母屋へ」
目線で知らせると、男性は「ありがとう、ありがとう!」と何度も言いながら、母屋のほうへ走っていった。
「ルーニー……!」
アリーシェが、抱きつくような距離で困惑の表情を向ける。
「この村は、『モンスター』と『取り引き』を交わしてる。だから奴らもそう乱暴なことはしないはずだ」
ルーニーはアリーシェの肩に手を置き、落ち着いた口調で言い聞かせた。
「だけど万が一ってこともある。アリーシェ……君は今すぐ、村を離れて……家に帰るんだ」
「ルーニー……!? あなたは……!?」
「……誰もいなくなると不自然だ。だから僕は、ここに残る」
「そんな……! かくまったことがもしバレたら、あなたも……」
それ以上は言えずに、アリーシェは今にも泣き出しそうな顔をした。
「大丈夫。バレないために、残るんだ。それにあの人だって見捨てるわけにはいかない」
「それなら私も一緒に残るわ」
「ダメだ!」
ルーニーは断固とした声で即答する。
「どうしてっ!?」
「……君は、ウソをつくのが下手だからね。一番足を早い馬を貸す。乗り方は知ってたよね?」
彼女に反論するヒマも与えず、たたみかけて言っていく。
「いつ奴らが来るかわからない。急ぐんだ、アリーシェ」
「……ルーニー……!」
「明日にでも、会いに行くよ。今度は僕らがサボる番だ」
ルーニーは奪うようにして、別れのキスを済ませた。
「さぁ行って」
アリーシェは最後まで迷いながら、断腸の思いで彼の言葉に従った。
それが最後の別れだった。
◆
アリーシェが事の顛末を知ったのは、翌日のことだった。
周辺住民が、マットソン牧場でふたつの死体を発見した。
ひとつは、牧場のひとり息子であるルーニー・マットソン。
もうひとつは、村民ではない余所者の男性だった。
身元は不明だが、死体を調べて、とあることが発覚した。
その男性は、人間ではなかった。
『モンスターリゼンブル』だったのだ。
◆
アリーシェは、胸が張り裂けそうという言葉の意味を、その身をもって思い知らされた。
体をまっぷたつに引きちぎられ、切り裂かれ、えぐられ、打たれ、絞められ、焼かれたとしても及ばない痛みが、心の中をのたうち回っていた。
涙がとめどなく溢れる。血を吐くような嗚咽が漏れる。許容量を超えた悲しみと苦しみが、頭の中を真っ黒に染め上げる。
アリーシェは、来る日も来る日も悲しみ続けた。
涙が涸れるまで泣き暮らした。
そして、いつしか。
絞り尽くした涙の底――からっぼになった心の奥底に、小さな炎が、芽生えていた。




