第四章(5)
「姉御ーっ!」
と叫ぶ声が、エリスの意識を現実に引き戻す。
目を開けた彼女が見たのは、高く続く青空だった。
「…………」
「姉御ーっ!!」
ザットの声がより鮮明に聞こえ出す。
仰向けに倒れていたエリスは、むっくりと起き上がった。
「いたた……」
体中がピリピリと痛かったが、とりあえず周囲を見回してみる。
相変わらずの森だ。
ただ先ほどまでと違うのは、エリスのすぐ横に、崖と呼んでも差し支えないほどの急斜面が高くそびえ立っていることだった。
「大丈夫ですかっ、姉御っ!」
声ははるか上方から聞こえている。
見上げてみると、その斜面の頂上にザットの顔がうかがえた。
しかし見えるのは顔だけで、体がある部分は高い草でびっしりと覆われている。彼であれということは、エリスなどは頭が出るかも怪しいところだろう。
そこでエリスは、ようやく自分の置かれている状況を思い出した。
「……落ちたのか」
いくら草が多くて視界が悪かったとしても、あまりにマヌケすぎる。
「ケガはないですかっ!?」
その言葉にエリスは、改めて自分の体を見下ろしてみた。
全身すり傷や切り傷だらけで、恐らく打撲もあり、血も出ていたが、ケガと呼ぶほど大きな負傷はなかった。不幸中の幸いというやつだろうか。
「大丈夫だーっ!」
叫び返すエリス。
それに安心したのか、ザットの声から緊迫感が消えていった。
「今ロープかなにか持ってきますっ! 待っててくだせぇっ!」
この高さとこの急角度。たしかに自力で登るのは困難だろう。右にも左にも、そんな崖じみたものが続いている。
「おーっ、頼むっ!」
ザットの顔が引っ込む。
「……」
エリスはとりあえず、大きく息をついた。
「なんか落っこちてばっかだな」
ガサガサと、草をかきわける足音が聞こえてきた。
エリスはすぐに腰の愛剣に手をかける。
それが崖の上から聞こえたならよかったのだが、あいにくその反対側から聞こえてきたのだ。
音のリズムは早い。その、何者かは走っているのだろう。そして近づいてくる。
エリスは野生動物の姿を想像して、即座に動けるように身構えた。
次の瞬間、草むらから小さな影が飛び出す。
「……!?」
しかしそれは、エリスの想像の選択肢にもないようなものだった。
ひとりの人間……少女だ。
年の頃はエリスの少し下といったところだろうか。体も服も、薄汚れたりしてボロボロだった。
なにやら息を荒くしている少女は、驚いたような目でエリスは見る。
驚いたのはエリスも同じだ。まさかこんな森の中で、人間と出くわすとは思わなかった。
すっと体の力が抜ける。
「おどかすなよ」
と声をかけた瞬間、その少女は再び走り出してしまった。
エリスの前を横切り、また別の草むらの中に入っていく。
姿がなくなるまで、振り返りもしなかった。
「……なんだ?」
その反応に、エリスは首をかしげる。アイサツくらいしていってもよさそうなものを。
とはいえ明らかに、普通の様子ではなかった。
格好もそうだが、なにやらひどく必死な様子だったのだ。
あの表情も、もしかしたら驚いていたのではなく、怯えていたとも取れる。
たとえば……なにかから逃げていたとかで。
……もしそうだとしたら、なにからだろうか。
それほどまでに恐怖するものから?
ピンと、エリスの脳裏にひとつの存在が浮かんできた。
そしてそれは、当たっていた。
再び聞こえてくる、草葉を揺らす音。
先ほどのがかきわける音ならば、それは踏みわける音といったところだろう。
大きく、激しく、そしていくつも重なり合っている。
「!」
やがて少女が飛び出してきたのと同じ草むらから、予想通りのものが現れた。
『モンスター』……!
全身を白い、ふさふさとした羽毛が覆っている。口は尖ったくちばし。目は小さいが鋭い。そして頭頂部には、赤いトサカのようなものが見て取れる。
あえて言うなら、『ニワトリ』に似た外見の種族であろうか。
それが五体。それぞれ刀剣類を手にしている。
彼らの姿を見た瞬間、エリスは迷わず剣を抜き放っていた。
ライトグリーンの刃が、木漏れ日を反射して宝石のように輝く。
「おい」
と『モンスター』のうちの一体が、エリスを目に入れて口を(くちばしを)開いた。
「ガキを見なかったか?」
そして訊ねる。質問ではなく尋問のような口調だった。
意外な対応に一瞬だけ面を食らうエリスだったが、すぐにその答えに思い至る。
彼らが言っているのは、まず間違いなく先ほどの少女のことだろう。
それを追いかけていると。
ならば素直に答えるわけがない。
「さっきカレーを食ったってことですら、てめぇらには言いたかねぇな」
その反応に『モンスター』は「ちっ」とツバを吐き出し、それきりエリスを視界から除外した。
「ハインとタースラーはあっちを探せ! オレたちはこっちを探す! 絶対に逃がすなよ!」
そして『モンスター』たちは二手に別れて、それぞれ左右に走り出した。
不幸なことに三体の組が向かったのが、例の少女の消えていった方向だった。
「…………」
あっさりと素通りされてしまったエリスは、拍子抜けしたように剣を下ろした。
「あいつら……!」
詳しいことはよくわからない。わからない……が、『モンスター』に追われている少女がいる、ということだけはわかった。
つかまったらどうなるのかは想像に難くない。
「……しょうがねぇな」
これがもしレクト辺りであったなら、まず皆と合流してから事態に当たるだろう。しかしそこまで待っていられないのがエリスである。
崖上に一度だけ視線をやってから、エリスは迷わず駆け出した。
例の少女が入っていった草むらへと。
あるいは彼女がもう少しだけ辛抱強い性格であったなら。もう少しだけ優柔不断な性格であったなら。状況は変わっていたかもしれない。
その場にザットが戻ってきたのは、そのすぐあとのことだった。
◆
「本当にここで間違いないの?」 アリーシェは、誰もいない崖下をのぞき込みながら問いかけた。
「間違いねぇです」
ザットはきっぱりと断言してみせる。
その場には、彼を含む全員が集まっていた。いないのは、他ならぬエリスだけである。
彼女が崖から落ちたとザットから聞いた時、アリーシェはひどく肝を潰した。同時に「言わんこっちゃない」という思いにもなったのだが、ケガがないと知りホッとした。
そしてその後戻ってきた彼が、彼女がいなくなったと言った時には、状況が飲み込めずに「どういうこと?」と聞き返した。
恐らく皆もそうだったのだろう。まず「なぜ?」という言葉が飛び交った。
かくして居ても立ってもいられず、急いで現場までやってきたのである。
ここへ来てしばらく経ったが、やはり彼女の姿はどこにも見えなかった。
名前を叫んでも、反応らしい反応はない。
ただよう静寂の中で、ようやく事の重大さが実感できてくる。
この広大な森の中で、エリス・エーツェルは行方不明になってしまったのだ。
「どうしちゃったんでしょう……?」
リフィクが不安げな声をもらす。彼のみならず、全員の顔が心配そうな色に染まっていた。
「もう、勝手なんだから」
パルヴィーが、責めるように呟く。
たしかに勝手で、奔放な彼女ではあるが、こんな状況で無意味に遠くへ行くほど愚かではないだろう。
無意味ということはありえない。この場を離れたということは、必ずそれなりの理由があるはずだ。
「……ケガはしていなかったのよね?」
「へい。大丈夫だ、と……」
遭難するかもしれない危険の中で、あえて動くほどの理由。
それはなんだろうか。
アリーシェは冷静に、エリスの気持ちになって考えてみた。
だが簡単にわかるはずもない。可能性など、それこそ無限に存在しているのだ。
「……もし」
と、ひとつの予測を立ててみる。
「どこか別に、ここへ上がってこられるところを見つけたのだとしたら……」
気休め的な予測だと、自分でも思う。だがじっと指をくわえてもいられなかった。
「彼女はまず、さっきの食事をした場所へ戻るはずよね?」
皆からの答えはない。当然といえば当然だろう。動揺も抜けきらない今、誰もちゃんとした結論を持っていないのだ。
「私は一旦戻ってみるわ。荷物もそのままだし……。みんなも、もししばらくしても変化がなかったら、一旦戻ってきて」
無言の了承を得て、アリーシェはクルリと踵を返した。
歩き出してから、深くため息を吐く。そしてエリスへ、心の中でささやきかけた。
せめて『モンスター』と戦っていない時くらいは心配をかけさせないでちょうだい、と。
そうして皆にどっぷり心配されているとはつゆ知らず、エリスは森の中を疾走していた。
「どこ行きやがった……」
草むらを出たり入ったり、辺りを見回しながらのため速度は抑えめだが、かなりの距離を走ってきたはずだ。
だというのに、例の少女の姿も『モンスター』らの姿も一向に見えてこなかった。
草が邪魔をしているとはいえ、そろそろ追いついてもよさそうな頃である。
「こっちじゃねぇのか?」
すると自然と、そんな疑問にも駆られ始める。
よくよく考えてみれば、だ。彼女が、最初の方向からまっすぐ進んだとは限らないのだ。
むしろ逃げているのだとしたら、逆に不規則なルートを描いている可能性が高い。
そうなったらお手上げだ。手掛かりがまったくなくなってしまう。
そもそも『モンスター』ですら見つけられずにいたのだから、エリスがそう簡単に見つけられるはずはないのだが……。
「……?」
と、そんな時だった。
エリスは不意に、自分の腰元から今まで経験したことのないような違和感が発生しているのに気が付いた。
足を止め、その発生源に目を落とす。
それは剣だった。エリスが『エーツェルソード』と名付けた、アルムス・ドローズ謹製の愛剣。それが、異様な気配を放っていたのだ。
「……なんだ?」
エリスは、その柄に触れてみる。静電気にも似たわずかな刺激が手に伝わってきた。
「…………」
こんなことは初めてだ。
なにが起こったのだろうか?
エリスは反射的に、周囲へ視線を走らせる。
左右に広くめぐらせていた視界の端に、一瞬、木や草ではないなにかが映り込んだ。
「!」
エリスはそれを見逃さず、凝視する。
木々のあいだ。その先に、白い背中が見て取れた。
あのふんわりとした羽毛は、さっきの『モンスター』と同じのものだ!
「あいつらか!?」
それは第一目標ではなかったが、第二目標には違いない。
エリスはすぐさま、そちらめがけて地面を蹴った。
近付くにつれ、あちらの状況が見えてくる。
奴らは三体いた。エリスに背を向けるように、武器を構えて立っている。
立ち止まっているということは、『彼女』が追いつかれてしまったのだろうか。
走るエリスはまだ届かない。
『モンスター』たちが、一斉に動き出した。
武器を振るい、前方へと叩きつける。
最悪の結果が頭をよぎった――次の瞬間。
『モンスター』たちのあいだに、黒い風が吹きあれた。
「!?」
またたくまに『モンスター』たちが斬られ、うめき、血を噴き、そして倒れていく。
三体すべてが地に伏すまで、ものの数秒もかからなかった。
鮮やかすぎる手並み。その光景は、エリスの脳裏にとある記憶を強烈に浮かび上がらせた。
「あいつ……!」
倒れた『モンスター』たちの中心にあったもの。それは、そんな記憶と寸分たがわぬ立ち姿であった。
黒く長い髪をした黒衣の女が、黒い刃をサヤにおさめる。
日の光があまり入らない森とはいえ、その女の周囲は、特にぞっとするほどの冷気を含んでいる気がした。
「見事だよ、リュシール」
かたわらに立つ若い男が、つやっぽくささやく。
するとまるで、それが合図となったかのように冷気は霧散していった。
間近で見ていたユーニア・キュリスは、そこでようやく安堵の息を吐くことができた。
男がユーニアに振り向く。
「まずはその傷を治しましょう」
周囲に『モンスター』の死体と鮮血が飛散しているとは思えないほど穏やかな口調で、男はユーニアの前にヒザをついた。
「……ありがとう」
その時、である。
「おいおいおいおいっ!」
その場に、なにやら無駄に堂々と人間の少女が歩いてきた。
ユーニアは無意識的に、ビクリと身を固くする。
「おや?」
男は、驚いたというよりも楽しむような表情で、その少女へと振り向いた。