断章「ありがとうと彼女は言った」
僕はひとりだった。
理由はひとつ。『モンスター・リゼンブル』だからだ。『モンスター』と人間との混血という呪いを受けて、この世に産み落とされたからだ。
もし彼女に出会わなかったら、きっと今頃はその呪いにとり殺されていたかもしれない。
まだ少年……子供と呼べる年齢だったが、僕はひとりで生きていた。
大きな町の片隅で、まるで人とは思えない、野良犬に毛が生えたような生活だった。
喜びも楽しみもない、ただ生きることに必死な日々。
もう少し年齢を重ねていたら、自ら死を選ぶという考えも浮かんでいただろう。それをしなかったのは、単にそれを知らなかっただけのことだ。
知らなかった故に、苦しみも大きかった。
光などどこにもない、闇に包まれた世界。
たとえて言うなら、僕の心はそれだった。
その生活に変化が起きたのは、ある日のことだった。
町の人間が、なにやら道端に集まっていた。
僕は少し離れたところから、その人だかりの中心をのぞき見る。
一両の馬車。
荷車に載った木製の檻。皆の視線は、その檻の中に注ぎ込まれていた。
僕の目にもそれが映る。
少女だった。
僕と同じほどの年齢の、黒い髪をしたひとりの少女が、檻の中に入れられていた。
それが彼女との出会いだった。
彼女の姿を見た時、僕の中に得体の知れない感覚が走った。
その感覚の正体を知ったのはずいぶんあとのことだった。『モンスター・リゼンブル』には、皆、第六感的に同胞を見分けられる能力が備わっているのだ。
彼女も混血種であった。
恐らくそれがバレて、どこかで捕まえられたのだろう。
馬車を取り囲む人々が放っているのは、敵意と嫌悪の眼差し。そして罵声。
僕は知っていた。人間は『モンスター』にひどく苦しめられている。彼らを憎んでいる。故に、その『モンスター』との混血など、人間は決して認めない。
消される。まるで腹いせのように、皆の前で、殺される。
かすかに記憶に残っている、兄と同じように。
彼女を乗せた馬車は、この町の町長の敷地内へと入っていった。
決行されるのは、明日か明後日か。そう遠くないうちだろう。
僕はその未来を想像し、恐怖した。
血にまみれた兄の顔がよみがえる。自分もいつかそうなるのではという不安がわきあがる。
しかし恐怖と同時に、僕の中にはある感情が芽生えていた。
彼女を助けたい。
理由もなにもなく、ただそうとだけ思った。
その日の夜。住人が皆寝静まった頃。僕は町長の敷地に忍び込んだ。
すぐに、裏庭で馬車を発見する。荷車も昼間のままだった。
僕は檻に駆け寄る。彼女がいた。
近くで見ると、彼女の体は傷だらけだった。髪も服もボロボロで、いたるところに乾いた血がこべりついていた。
僕は少しだけ息を呑んでから、彼女に声をかけた。
「逃げよう」
しかし反応はなかった。
彼女は座ったまま、まるで人形のように表情も変えず、ただ一点を見つめているだけだった。
「……ここにいちゃダメだ」
僕は構わず、木製の檻に手をかける。人間の子供には無理でも、『モンスター』の力を継ぐ子供には、そんな檻など造作もない。
彼女の手をひっつかみ、僕はすぐさまその場から逃げ出した。
敷地から出て。町からも出て。森に入っても。夢中で逃げる。
彼女は僕に引っ張られるまま一応走っていたが、やはり表情は変わらなかった。
町の明かりも見えなくなり、月明かりも消えた、真っ暗な森の中。
そこでようやく、僕は走るのをやめた。
荒くなった息を整える。
ふと、気付いてしまったのだ。
太い樹の根元に、並んで座る。周囲は完全に近い暗闇に包まれ、すぐ隣の彼女の顔がかろうじて見える程度であった。
その彼女は、いまだ仮面のように表情を変えない。言葉も発さず、必要以上に体も動かさず、ただそこに存在しているだけだった。
僕は深くため息をつく。
気付いてしまった。これから、どうすればいいのかわからない……ということに。
どこまで逃げる? どこに逃げる? 逃げた先でどうする? どう、生きる?
すべてがわからなかった。考えていなかった。途端に、底知れない不安が襲いかかってきた。
「……ごめん」
僕は彼女に、正直な気持ちを告げた。面と向かう勇気はなかったので、うつむいたままで。
「このあと、どうしていいのかわからない。どこに行くとか、どうするかとか、ぜんぜん考えてなくて……」
風で草葉が揺れる音。どこからか響く獣の遠吠え。ささやかな虫の鳴き声。
取り巻くすべてが自分の脅威に思えた。
「でも、君を放っておけなかった。あのまま殺されるかと思ったら、いてもたってもいられなくて……君の気持ちも聞かずに」
自分の思いはどうあれ、彼女の意志は違うのかもしれない。こんなこと望んでいなかったのかもしれない。
そのことにも、気付いてしまったのだ。
「だから……ごめん」
震えた声で伝える。声だけでなく、体も震えていた。
――その時。
震える手に、そっと温もりが覆いかぶさった。
僕はハッとして顔を上げる。
僕の手に置かれていたのは、彼女の手。そして彼女は、僕の顔を見つめていた。
目と目が合う。
唇が動く。
ありがとうと彼女は言った。
そのささやきを聞いた時、僕は泣き出していた。
僕の中のなにかが決壊した瞬間だった。
ずっと闇の中にいた。誰もいない、なにも与えられない、支えになるものすらない、暗闇に包まれた孤独な世界。
そこに、一筋の光が射した気がした。
手に伝わる温もり。かけられた言葉。
底知れなかった不安が嘘のように消えていく。夜の森も、もう怖くはなくなっていた。
誰かが隣にいてくれる。存在していてくれる。それだけのことが、なによりも嬉しかった。
誰かと触れ合える。見つめ合える。言葉を交わせる。その喜びを、彼女が与えてくれた。
光で心が満たされていく。
この光があれば。この光さえあれば。不可能なことなどないように思えた。
この光のためならば、他のなにをも犠牲にできる。
他にはなにもいらない。君だけでいい。
それがその時から僕の中にある、たったひとつの変わらない思いだった。
そして夜闇が去り、太陽がうっすらと顔をのぞかせる。
「生きよう」
僕は彼女と向き合って、再び率直な気持ちを口にした。
「まだなにもわからないけど……でも、ふたり一緒なら、なんとかなりそうな気がするんだ」
夜の時とは違って、陽光が彼女の姿を鮮明に照らし出す。
あまりキレイな格好とは言えなかった。しかしそんなことは、どうでもよかった。
「だから生きよう。僕と一緒に」
僕は言葉と共に片手を差し出した。
幼い手に、もうひとつの幼い手が重なった。
そして再び。
ありがとうと彼女は言った。