第二章(19)
エリスを小脇に抱えたまま、トュループがふわりと地面に降り立つ。
その体には、先ほどにはなかった傷が刻みつけられていた。胴体を斜めに走った、火傷を伴った大きな斬傷。そして右腕にも小さいものが見受けられる。血が流れてはいるものの、どちらも重傷という気配はなかった。
皆一様に、息を呑んで彼の姿を見つめている。
手を出すどころか、声を出すこともできない。これからどうなるのか、ただ眺めているだけしかできなかった。
抱えられたエリスは、ぐったりとしたまま動かない。意識を失っているのだろうか。
そんな彼女を、トュループは自分の前へと放り捨てた。どさり、とわずかに砂ぼこりが舞う。
「なんて言っていたかな?」
トュループの問いかけに、誰もすぐには答えられなかった。
気圧されているというのもあるが、問われた質問があいまいすぎてわからなかったのだ。
そこをトュループが、自分自身で補足する。
「彼女の名前」
「……エリス・エーツェル」
声を絞り出すように、レクトが答えた。
「そう」
トュループは微笑みながら、眼下のエリスと、自分の体の傷とを交互に見た。まるで楽しんでいるかのように。
「覚えておくよ」
そしてそれだけ言うと、再び大きく翼を開いた。
はっと身構える一同を尻目に、くるりと背中を向ける。トュループはそのまま、どこかへ向かって飛んで行ってしまった。
トュループが空の彼方に消えた頃には、頭上にただよっていた暗雲は消え去り、青空が戻っていた。
奴の姿が見えなくなってからようやく、固まっていた皆の心にも平常が戻り始める。
しかし無事に生き延びることができたという喜びは、あまり感じられなかった。悪夢から覚めた直後のように、後味の悪いものが胸にこべりついている。
生きた心地がしないとは、こんな時に使う言葉なのであろうか。
「……まさか本当に、なんとかしてみせるとは……」
ラドニスがエリスを見ながらしみじみと呟いた言葉を、近くにいたアリーシェだけが聞き取った。
◆
なぜトュループがいきなり去ったのかは、この際どうでもよかった。他のことで頭が一杯で考えている余裕などなかったからだ。
エリスたちから出た犠牲は、ほとんどないと言っていい。
あるとすれば、馬が一頭。預けた武具屋もろとも、光の中に消え去ってしまったのだ。幸いにも借りた宿屋のある区画は無事だったので、もう一頭とその他の荷物はことなきを得ることができたが。
しかし住人たちの犠牲は、その程度では済まない。
町のおおよそ八割が、無惨にも消滅してしまったのだ。
知り合いもいただろう。恋人、家族もいただろう。直前まで世間話を交わしていた者すら、もういない。
その事実が知れ渡った時の混乱と怒りと悲しみは、想像を絶するものがあった。
阿鼻叫喚のるつぼ。
エリスたちは最低限の休息を取ったあと、そのただ中へと足を踏み出していった。
破壊された部分はまさに灰となったようにキレイになくなってしまっているので、無事な部分との境目が一番の被害地と言える。
衝撃と余波で建物はほとんど倒壊しており、ケガを負った人や生き埋めになってしまった人がいるという声があちらこちらから叫ばれた。
『治癒術』の使えるリフィクとパルヴィーはケガ人の治療につとめ、それ以外のエリス、レクト、ラドニスは、ガレキの除去を手伝う。
心身共に力を使い果たしていたアリーシェには、まだ少しの休息が必要だった。
「こんにゃろーっ!」
妙な叫び声を発しながら建物の破片を片付けるエリスを、周りで同じ作業をする住人たちが奇異の目でチラチラと見ている。
彼女は少々虫の居所を悪くしていた。
その原因は、やはりトュループである。
こうして破壊の限りを尽くしたこともそうだが、自分が気を失っていたあいだのことも、なんとも腹立たしかった。
他の皆の話によると、奴は自分を助けた上に、その場を見逃してどこかへ行ってしまったというのだ。そういう見下されたような、情けをかけられたような態度が、非常に鼻持ちならないのである。
気に入んねー。
気にくわねー。
「あの薄ら笑いヤロウ……今度会ったら……」
エリスを力を込めるように低く呟きながら、新たなガレキに手をかける。
「ギッタンギッタンのコテンコテンにしてやるからなぁーっ!!」
物騒なセリフを吐きながらガレキを持ち上げる彼女を、もう周りの人間は見ないようにしていた。
アリーシェが宿屋から出たのは、諸々の作業が一段落ついたあとだった。
彼女は重い足取りで、町の様子を見て回る。
さすがに一時の混乱からは立ち直ったようだが、それでもまだ、住人たちの怒りや悲しみが形を持ったように周囲に渦巻いていた。
崩れた建物の跡に座り込み、泣きむせぶ女性がいる。アリーシェはその光景を少しだけ見つめたあと、痛みに耐えるようにまぶたを閉じた。
多くの犠牲者が出てしまったが、中には被害を免れた者もいる。それを直接的に守ったのは他ならぬアリーシェだ。
これだけでも守れたと喜ぶべきか、これだけしか守れなかったと嘆くべきか。
彼女は後者を選んだ。
「……なんて無力な……」
その場に立ち尽くし、血を吐くように呟く。しょうがなかったと片付けることは、彼女にはできなかった。
「……アリーシェさん」
そこへ声をかけたのは、レクトだった。口調は重く、暗い。
アリーシェは目を開け、背後を振り返る。
「すみません」
それと同時にレクトが第二声を発した。その表情は、声と同じ暗さを秘めている。
「俺が勝手な手出しをしなければ、もしかしたらこんなことには……」
伏し目がちに続けられた言葉から、アリーシェは彼の心境を汲み取った。
トュループと最初と対峙したのはレクトである。こんな結果に直面してしまえば、もしあの場面でなにもしなければ……と思わずにはいられないのだろう。
そしてその憂いを、どこかに吐き出したかった。アリーシェに詫びることでもないというのは、彼もわかっているはずだ。
「……同じことよ」
アリーシェはゆるやかに首を振る。抑揚の弱い声だった。
「相手は『モンスター』……言葉も聞かない殺戮者だもの。なにもしなければ無事で済むなんていうことは有り得ないわ」
彼女の鋭敏な瞳が、レクトを射抜く。
「私たちにできるのは戦うことだけ。灰のトュループという脅威にいち早く対応できたのは、あなたがいたおかげよ」
戦わなければなにも守れない。奪われるだけ。そして、泣き寝入りをするしかなくなる。
だから戦って抗うしかない。アリーシェの瞳は、雄弁にそれを語りかけていた。
「戦い続けましょう。その後悔すらも力にかえて、脅威を断ち切るのよ」
「……はい」
レクトは重く、しかし先ほどよりは少しだけ軽く、そううなずいた。