終章(22)
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アルドリッジに帰還した際、レーミットがまず向かうのは墓地だった。
外壁にほど近い原野部。市街部からも畑からも遠く、生い茂った木々により日の光からも遮られた隔絶された場所。
荒れた地面に小さな墓標がいくつも並んでいた。
レーミットはそのうちのひとつの前で立ち止まる。
その下に眠る獣人の少女の顔を、今でもはっきりと思い起こすことができた。
この街には墓地が二カ所ある。
もうひとつはもっと目立った場所にある。
市街部にも近く、華やかに彩られたそこは、同胞リゼンブルたちの埋葬された土地だ。
そしてレーミットの立つこの陰々とした場所には、それ以外の者が葬られている。
かつてのアルドリッジは人間と獣人とリゼンブルが共存するごく平凡な街だった。
ある時、人間と獣人の間で小さな諍いが起こった。
クイーンの影響力によって、人間たちが『モンスター』の脅威を忘れかけた頃だった。
一方でクイーンの影響力も完璧とは言えずに、牙を残した獣人もまだまだ存在している頃だった。
小さなヒビは見る見るうちに大きな亀裂へと変化し、人間側と獣人側、街を二分する争いにまで発展した。
多くの犠牲者が出た。
しかし争いは長くは続かなかった。
両成敗という形で争いに幕を引いたのは、のちにハイブリードと名乗るリゼンブルたちであった。
街は平和になった。
人間と獣人のすべてを排除し、リゼンブルだけの街となったアルドリッジは、以前よりもずっと平和になったのだ。
その時のレーミットは、まだ少年と言えた。
すでに戦う力を有していたがどちらの味方もしなかった。
正確に言うならば、する気がなくなった。
その争いに巻き込まれてひとりの少女が死んだからだ。
空虚な世界が訪れた。
人間と獣人は、違う存在だからこそ争うのだと思った。
異物はどこまでいっても異物。争わざるを得ないさだめなのだと思い知った。
しかし両方の血が流れる自分たちは違う。
半身は同じ存在だ。だからどちらとも争わない。争う理由がない。
争いは空虚を呼ぶ。その争いを静めたのは、他ならないリゼンブルだ。
リゼンブルは争わない。
リゼンブルの世界に争いは無い。
彼の心を空虚から立ち戻らせたのは、やがてハイブリードと名乗る者たちが言った、そんな言葉だった。
街のちょうど中心にあたる場所に一際大きな館がそびえ立っていた。
かつて起きた、街を二分する争いに終止符を打った英雄。そしてハイブリードの総統であるバジェル・バーグソンの邸宅である。
三階建ての大豪邸はそのままハイブリードたちの活動拠点にもなっていた。
「――そのスパイとやらは?」
「懲罰室に入れられるのを見た。他にも仲間がいるらしいが、なかなか口を割らないみたいだな」
「エーツェル騎士団だって?」
仲間たちの会話を聞くともなしに聞きながらレーミットは邸宅の廊下を歩いた。
階段を登って最上階へ。総統の執務室の扉をノックした。
「失礼します」
街に帰還したハイブリードは必ず総統バーグソンに顔を見せて活動の報告をする決まりになっていた。
レーミットはいつも墓地に寄り道をしてから来るので、大抵は皆が去った後ひとりでこの部屋を訪れることになる。
しかし今回は少しだけ様子が違った。
レーミットは入室して眉をひそめる。
「おお。戻ったかレーミット。子細ないようで良かった。無論お前のことだから心配はしていなかったがな」
執務机の前に置かれたソファセットからバーグソンがにこやかに迎え入れた。
撫でつけた髪はほとんどが白髪。皺の多い顔は作りとしては厳めしいが、日頃からの明るい表情がその印象を中和している。
普段と同じ光景だ。
彼の後ろにブリュックナーが立っていることも、そうおかしくはないだろう。
彼も報告のためにいたのだとわかる。
しかしバーグソンの対面に座るひとりの少女が、この空間を見慣れる光景へと変えていた。
肩まで垂れ下がった黒髪に銀の髪留め。おとなしげな顔は、レーミットを見てぎょっとしたようだった。
「彼女は……」
リータレーネといったか。
戻ってくる時に門の近くで顔を合わせた。
なぜ彼女がたったひとりでここにいるのか。民間人が立ち入ることなどない場所のはずだ。
「レーミット、悪いが少し待て」
「如何ようにも」
レーミットは扉のすぐ横に控える。
バーグソンはリータレーネへと顔を戻した。
「さて、どこまで話したか」
その表情は朗らかだ。さながら幼い孫娘に面した祖父のように。
しかし奥底から滲み出る物々しい雰囲気はどうにも隠し切れていなかった。
「リータレーネ君。なにも荒事をしてもらおうという話ではない。我らがハイブリードの同志となって、活動の手助けをしてもらいたいのだ」
「それは……他の街を襲う手助けですか」
うつむいて、消え入りそうな声で言う。
バーグソンは、いや、と首を振ってみせた。
「たとえば、そうだな。我らが活動を続けていたら、いずれクイーンと接触することもあるだろう。その時に、我らと彼女らとのパイプ役になってもらいたいのだ」
「エリスさんと……」
「クイーンの右腕――ハーニスの娘である君にならできるはずだろう?」
「……それは」
「できる、はずだろう? リータレーネ君」
「……できる、かもしれません……けど」
ハーニスの娘。それを聞いても、レーミットに特段の驚きはなかった。
彼女と親しいらしいエイザーは、なにやらハーニスとも顔見知りのようだった。
そしてエイザー・エーツェルという名前。
示唆するものはあった。
「パイプ役とはいっても難しい仕事は無い。ただそばにいてくれれば良いだけだ。我らと彼女らが顔を合わす場で、我らの同志として、その場に同席してくれるだけでいいのだ。それだけで話がスムーズに進んでくれる」
ハーニスの娘となれば人質として申し分ない。
正義の味方ぶったクイーンにはさぞ効果的に使えることだろう。「簡単だろう? 引き受けてくれるかね?」
「……だけど……」
「同胞の頼みだ。同じ血を分けた者として、力になってほしいと言っているだけなのだがね」
「…………」
リータレーネは口をつぐみ、なにかに堪えるように目も伏せた。
自分が今どんな状況にあるか、もちろん自覚しているのだろう。
だが元より気弱そうな女だ。
押し切られるのも時間の問題に見える。
レーミットはそれに対して何も思うことはなかった。
ハイブリードのためになるならどんな協力も惜しむべきではない。
ただそれだけだ。
「もちろん私としても無理強いをするつもりはない。君が納得するまで、じっくりと、好きなだけ考えるといい。……この部屋の中で」
そこからしばらくは沈黙の時間となった。
バーグソン、ブリュックナー、レーミットの男三人の視線がリータレーネへと注がれる。
無言の圧力は時として言葉よりも力を発揮する。
バーグソンはただ黙って、縮こまるリータレーネを眺め続けた。
彼女が頷くまでこの時間は終わらない。
そう思われた。
変化が現れたのは突然だった。
まるで針で刺されたように、リータレーネはピクンと頭を上げた。
「……!」
一瞬の間が空く。
彼女の顔にひとしずくの決意が浮かぶ。
次の瞬間、リータレーネは弾かれたように部屋の外へ向けて駆け出した。
「レーミット取り押さえろ!」
先ほどまでの柔和さをかなぐり捨ててバーグソンが叫ぶ。
扉の横に立っていたレーミットには容易い指示だった。
リータレーネの片腕を掴み上げる。
「あっ……やっ!」
しかしそれで諦めてはくれず、手を振りほどこうと暴れ出した。
「いやっ……!」
「大人しくしていろ!」
片腕を持って壁際へ押し付ける。
「うっ……」
さすがに力比べをするつもりはないらしく、やおら抵抗は収まった。
しかし……なぜいきなり逃げ出そうとしたのか。
さっきの様子からすると、なにかのきっかけがあったのは間違いないのだが。
ふいに、先ほど聞いたスパイという言葉が頭をよぎった。
もしや何者かからの合図でもあったのか?
「……エイザーくん……!」
そんなレーミットの疑問は、リータレーネの口からかすかに漏れた呟きによってかき消された。
ともすればレーミットでさえ聞き逃してしまいそうな、口惜しげなうめき。
「まさか」
ひとつの可能性が思い浮かんだ。
「奴が来ているというのか。この街の近くにまで」
レーミットが問い詰めると、リータレーネはせめてもの抵抗か顔をそむけた。
それは肯定と同じだった。
リゼンブルには他者の気配を察知する第六感がある。そしてそれは相手との関係が親密であるほど、より遠くまで、より明確に感じ取ることができる。
一度か二度顔を見ただけのレーミットには感じ取れないものを、彼女は感じ取ったのだ。
接近するエイザーの気配を。
だから逃げ出そうとした。
「――ふっ」
レーミットが一息だけこぼした笑みは、何の笑いだったか。
嘲笑か。感嘆か。自分でも定かではなかった。
その時。慌ただしい足音が聞こえてきて、勢い良く扉が開けられた。
「緊急報告!」
ひとりの同志が駆け込んでくる。ひどく焦った様子だった。
「南門より、エーツェル騎士団が現れました! 各個の判断により応戦。すでに戦闘が開始しています!」
「なぜ接近に気付かなかった!」
バーグソンが声を荒げる。
「遠距離からの第一撃で門を破壊され、足の速い『モンスター』によって奇襲された模様です……!」
レーミットは壁掛け時計に目を走らせた。
門番の人員交替の隙を狙われたか。
そのためのスパイだったというわけか。
「そ、それから、奴らの中に、クイーンの姿もあるとのことです!」
部屋の中を静かな驚愕が駆け巡った。
うなだれていたリータレーネも驚いたように顔を上げた。
「そうか、本人直々に、やってきてくれるとは」
状況が明らかになるにつれ、逆にバーグソンは冷静さを取り戻していくようだった。
ソファからゆっくりとリータレーネのもとへ歩み寄る。
レーミットが拘束を解いても、彼女はもう逃げ出そうとはしなかった。
「リータレーネ君」
バーグソンの声には柔和さが戻っている。
しかしその表情は、レーミットから見ても、不穏なものが一杯に満ちていた。
「どうやら君に手助けをしてもらう時が存外早くきたようだ。もちろん、協力してもらえるね?」
彼の言葉は最後まで聞かないうちにレーミットは部屋をあとにしていた。
ざわめきが響く廊下を横切ってアーチ型のガラス窓を押し開ける。
窓枠に足をかけて、身を乗り出し、屋根の縁をつかむ。
そして鉄棒で逆上がりをする要領で軽やかに屋根の上へと移動した。
バーグソン邸の三角屋根の上からは、360度すべての街並みが見渡せた。
南へ目を凝らす。
破壊された門。削られた外壁。内側の原野部で多数の人間、獣人、リゼンブルが入り乱れている。
はるか遠くで繰り広げられている光景だったが、レーミットの目にはそれを捉えることができた。
たしかに戦闘が始まっているようだ。
その中にひとり……銀の剣を振るって炎の技を放つ人間の女がいた。
あれがクイーン・エリス・エーツェルか。
この目で見るのは初めてだがおおよその特徴と合致する。
「しかし……どこだ?」
その乱戦をいくら凝視してみても、エイザーの姿を見つけることはできなかった。
「いないだと……? そんなはずは」
思い違いだったのか?
リータレーネが感じ取ったのは、果たしてクイーンの気配だったのか?
……いや、来ないわけがない。
妙な確信があった。
あの橋の上で、最後に見た奴の目には、まだ執念の炎が灯っていた。
来ているはずだ。
あの戦火の中にいないとするなら――
「クイーンを陽動としたか」
レーミットは白装束を翻し、残る三方の門へと目を走らせた。