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終章(20)

 

 いろいろと教えてくれた女性には散歩するとだけ言って、トレイシーとリータレーネは外に出た。

「意外とすんなりいったね」

 トレイシーは最初の関門突破に胸をなで下ろす。

 ヤバげな連中ではあったが、監禁されていたというわけではないようだった。

 日差しが真上から降り注いでいる。ちょうどお昼頃だろうか。

 窓から眺めていた時にも驚いたが、ここは白い街だった。

 建物も、道の舗装も、遠くに見える外壁も、すべて白い石材が使われている。さながら雪が降り積もっているかのようだった。

 道行く老若男女はすべてリゼンブルだ。

 この人たちもどこからか連れてこられたのだろうか。

 リゼンブルだけが暮らす街……。あの女性が言っていたことを思い出す。

 人間と獣人の混血種。希少な存在であるため、トレイシーはこんなにたくさんのリゼンブルを見たのは初めてだった。

 外見は人間と同じだが、その体には獣人の血も流れている。

 中には外見的に獣人の特徴を引き継いでいる者もいた。大きな牙があったり、尻尾があったり、翼があったり。

 昔は差別を受けたりもしていたと聞いたことがあるが、少なくともトレイシー自身は十五年の人生の中でそれを感じたことはなかった。

 それはもう過去の話なのだろう。

 自分が生まれる前に終わった話。

 とある人間が終わらせた話だ。

「ねぇ、リータちゃんって呼んでいい? それともレーネちゃんがいいかな?」

「うん……どっちでもいいよ」

 歩きながら訊ねると、リータレーネは微笑んで、またしても曖昧な答えを返した。

 先ほどは不安げな表情を浮かべていたが、少しは落ち着いたようだった。

「エイザー君にはなんて呼ばれてたっけ? 呼び捨て?」

「うん。だけど……子供の頃はリっちゃんとかリータって呼ばれてた気がする」

「じゃあ、レーネちゃんにするね。ふたりだけの呼び方を取っちゃ悪いからね」

 そう言うとリータレーネは頬を染めて俯いてしまった。

 からかったつもりはないのだが、結果的にそうなってしまったのかもしれない。

 わりとわかりやすい人だ。

 と、そんな時。

「あっ……」

 通行人の中に白装束の人が混ざっているのを見て、トレイシーはぞくりとした。

 反射的にあの夜のことが思い出される。すでにそれは恐怖の象徴でしかなかった。

 知らず知らずのうちにリータレーネの手を握りしめていた。

 白装束の人が通り過ぎる。見覚えのない顔だったので、特に声をかけられるということもなかった。

 怯えすぎだったのだろうか。

 ふと、握っていた手が引かれた。

 体が温かさに包まれる。リータレーネが抱きしめてくれていた。

「えっ、えっ、なにっ……?」

 突然のことだったので慌てる。

「トレイシーちゃん怖がってたみたいだから。こうすると安心するよ」

 屈託なくリータレーネがささやいた。

 やわらかく包まれた感触は、たしかに気持ちが落ち着くものだった。

 周りを行く人々が奇異の目を向けているような気もしたが、それはこの際どうでもよかった。

「うん……ありがとレーネちゃん」

 脳天気な彼女にも心配されるほどの怯えようだったとは。

 恥ずかしくもあり嬉しくもあった。

「よくエイザーくんがしてくれてたから。こうすると私も落ち着くんだ」

「うわぁ……えろ〜」

「え、えろじゃないよっ」

「えろえろだ〜……」

「えろえろじゃないよっ」

「えへへっ……ありがと、もう大丈夫」

 笑顔を取り戻せたところでトレイシーは体を離した。

 本当に気分が楽になっていた。すごいものだ。

 リータレーネのことを、初めて年上らしいなと思った。

「じゃ、行こっか」

 再び歩き出す。手はつないだままだった。

「問題は、あっちもすんなり出られるかなぁってところなんだけど」

 街を囲う高い壁は、まだまだ遠くにあった。

 壁の切れ目は見えない。さすがにどこかに出入り口はあるはずなのだが。

「えっ、街の外に出るの?」

 なぜかリータレーネが意外そうな声を出した。

「お散歩じゃないの?」

 ずるっ! とトレイシーは肩を落とした。

 見直したと思ったらこれだ。

「あれは嘘」

「嘘なの?」

「エイザーくんとかを探しに行こーって言ったでしょ。だから探しに行くんでしょ? それともレーネちゃんはこんなとこで一生暮らしたいの?」

「うーん……うーん。それは……トレイシーちゃんが決めてくれたほうにするよ……」

 冗談ではなく本気でそう言っているようだった。

 あんなことをしてもらっておいてなんだが、引くぐらいの優柔不断さだ。

 トレイシーがこの街で暮らすと言ったら、本当に暮らすのだろうか。

 ……暮らし始めるかもしれない。

「レーネちゃんってさ、あんまり自分の意志ないよね」

「うん……よく言われる」

 自覚はあったのか。

「もー! エイザーくんに会いたいでしょ?」

「会いたいけど……」

「会えなくなるの嫌でしょ?」

「嫌だけど……」

「だったら変なこと言ってないで、行くしかないの!」

 果たして自分はこんなにも行動的だったろうか、と思わずにはいられないトレイシーだった。

 原因はわかりきっている。

 どうにもリータレーネと一緒にいると、自分がしっかりしなくてはという思いに駆られてくるのだ。

 エイザーが年のわりに頼りがいのありそうな感じなのは、こうやって日頃から鍛えられているからかもしれない。

 

 

 とりあえず大通りに沿って歩いた。

 たしかアルドリッジといったか。この街は、なんというか、普通の街だった。

 すべての住人がリゼンブルという時点で異常なのかもしれないが、それを抜きにすると、やはり普通としか言いようがなかった。

 談笑しながら歩く若い男女がいる。

 道端でおしゃべりをする女性たちがいる。

 大荷物を乗せた馬車を引く人がいる。

 楽しそうに駆け回る子供たちがいる。

 食べ物を売る屋台がある。

 なんだかよくわからないものを売る怪しげな露店がある。

 ヤバい連中のアジトにしてはあまりにもありふれた光景だった。

 しかしよくよく見てみると、浮かない表情の人たちも散見された。

 それは個人的な理由によるものなのか、トレイシーたちのように無理矢理連れてこられたことによるものなのか。

 後者だろう、と思っておいた。

 歩き続けていると徐々に建物が少なくなり、やがて左右に畑が見えるようになってくる。

 農家の娘であるトレイシーには無条件でほっとする光景だった。

 辺りには緑が増えて小川のせせらぎが聞こえてくる。街の喧騒も遠くなっていた。

 あの外壁までもう少しだ。

 さらに舗装された道をひたすら歩く。すると前方に大きな門が見えてきた。

 ついに街の出入り口に着いたのだ、と思った。 

 

 

 巨大な鉄扉の両脇に白装束を着た男性がふたりずつ立っていた。

 トレイシーとリータレーネの姿に気付いたのか、そのうちのひとりが歩み寄ってくる。

「どうかしたか?」

「あの、わたしたち外に出たいんだけど」

 白装束を見ても先ほどのような恐怖は感じなかった。

 リータレーネのハグの効力はかなり高いらしい。

「誰の許可を得ている」

「そんなのないけど」

「では通すことはできない。戻れ」

 あまりに取り付く島もなく言われたので、トレイシーはカチンときた。

「はー? なによそれ。じゃああんたたちは誰の許可もらってこんなとこに連れさってきたのよ」

 つい言ってしまう。

 ハグの効力が高すぎたのかもしれない。

 男性は、またか、とでも言いたげに眉根を寄せた。

「最近保護されてきた者か」

「さらわれてきた者です!」

「とにかく、許可がないのなら通すことはできない。わかってくれ。外は危険なんだ」

「どう危険なの?」

「人間と獣人がいる」

「そんなの、どこにだっているじゃん」

「どこにだっているから危険なんだ」

「なによそれ」

 まるで話にならなそうだった。

 強行突破でもするしかないかと門のほうを盗み見ていた、そんな時。

 まさしくその門が重たい音を出しながら開かれていた。

 外から白装束を着た男がふたり入ってくる。

 ひとりは背が高くて長髪、もうひとりは短髪で筋肉質。どちらも白装束がところどころ裂けたり薄汚れたりしていた。

 ふたり組は門のところにいた男性たちといくつか言葉を交わしたあと、舗装路を歩いてくる。つまりトレイシーたちのいるほうへと。

 彼らの背後で門が閉じ始める。

 せっかく開いた門が。

 トレイシーは思い切って走り出そうとしたが、目の前にいた男性にたやすく捕まってしまった。

「こらこら、駄目だと言っただろう」

 男性はさながら子供をあやす父親のように言った。

 そこへさっきのふたり組が差しかかった。

「どうした?」

 長髪の青年が口を開く。

「戻ったかレーミット。いや、大した問題はない。いつものことだ」

 トレイシーを捕まえていた男性は苦笑いして答えた。

「……あっ! あんた!」

 その青年の顔をまじまじと見て、トレイシーは思い出した。

 あの時の奴だ。

 ブラグデンでのあの夜に。宿の部屋に押し入り、そして噴水の前まで追いかけてきた、あいつだった。

「わたしたちをこんなとこに連れてきたのあんたでしょー! どういうつもりよ! 納得できるように説明してよ!」

 トレイシーはじたばたと暴れる。

 レーミットと呼ばれたその青年は、そんなトレイシーと横できょとんと立ち尽くすリータレーネを交互に見て呟いた。

「そうか……あの時の」

 どうやら思い出したらしい。

「ここは自分が受け持つ。あなたは持ち場に戻ってくれ」

 そしてトレイシーは捕まえていた男性に有無を言わせぬ口調で告げた。

 男性は素直に「任せる」と言ってトレイシーの体を放し、門の脇へと戻っていった。

 その門がすでに閉じられたあとだったので、トレイシーは強行突破を諦めるしかなかった。

「ブリュックナー、雑事に付き合う必要はない。お前は休みを取れ」

 今度は、一緒に帰ってきた筋肉質の男のほうへと言った。

「ん……そうだな。そうさせてもらうぜ」

 ブリュックナーと呼ばれた男はトレイシーとリータレーネをまじまじと眺めたあと、そう答えて市街地のほうへと歩いていった。

 その背中には大きな血の染みがあったが、それを気にしているほどの余裕はトレイシーにはなかった。

 

 その場には三人だけが残される。

 レーミットは改めてトレイシーとリータレーネの顔を交互に見た。

「な、なによ……?」

 トレイシーは怪訝顔で見つめ返す。

 なにやら人払いをされたようで、日が高いというのに寒気がした。

「リータレーネというのはどちらだ?」

 レーミットが尋問するように訊ねる。

「君たちのうちの、どちらかのはずだ」

「えっ……?」

 トレイシーは反射的にリータレーネの顔を見た。

 なぜ名前を知っているのか。知り合いなのか。

 しかしリータレーネも思い当たるものがないらしく、ぽかんとしていた。

 そのトレイシーの視線が返事となってしまったようだった。

「そちらか」

 レーミットはリータレーネへと一歩踏み出す。もうトレイシーに用は無いとばかりに。

「あんな男のことは忘れろ。君にはふさわしくない」

「えっ……」

 と今度はリータレーネが小さく声を出した。

「それは……エイザーくんのことですか……?」

「そうだ。エイザー・エーツェルという人間の話をしている。君にはもっとふさわしい男がいる」

「ちょっとちょっと! いきなりなに言い出してんの!」

 たまらずトレイシーは口を挟んだ。

「その男とは……俺だ! とでも言うつもり? あんな男は忘れて俺と付き合え、って? うわぁーそんな口説き方するんだ。うわぁー引くー!」

「場合によってはそうなることもあるだろう」

「えぇぇっ、マジ!?」

 突然降って湧いた三角関係にトレイシーは否応なく色めき立つ。寒気はどこかへ消えていた。

「この街にも若い男はたくさんいる。きっと気が合う者もいるだろう。人間などではなく同胞と結ばれるのが自然な形だ。あのような人間とはもう会うこともあるまい。忘れてしまったほうが、君のためだ」

 レーミットは平然として続けた。

 どうやら個人的にどうこうという話ではないようだった。

 トレイシーはほんの少しだけ残念に思った。

 要するにリゼンブルならリゼンブルの男と付き合えと。人間の男とは別れてしまえと。

 そういう余計なお世話みたいなことを言っているだけだ。

「いやです」

 リータレーネは、きっぱりとそれを拒否した。

「忘れないです」

「……!」

 驚いたのはトレイシーだった。

 内容にではなく、あの優柔不断な、というか自分の意志がほぼないような彼女が、断固とした拒絶の意志を示してみせたことに。

 顔つきまで違って見える。

 いつもの脳天気な彼女はそこにはいなかった。

「君のためを思って言っている」

 が、レーミットも引き下がらなかった。

 その顔はどこかムキになっているようにも感じられた。

「エイザー・エーツェルとは、君たちがいたあの街の――あの噴水の前で対峙した」

 ブラグデンの噴水広場……リータレーネが言っていた、エイザーとの約束の場所。

 恐らくは自分たちが彼に捕まった直後だ。

 あそこにエイザーも来ていたというのか。

「戦いは終始俺が圧倒していた。弱いくせに口だけは立派な男だ。あと一歩のところで、奴を仕留めることはできなかったが」

 レーミットはそこで一瞬だけ間を空けて、続ける。

「命だけは助けてやると言ったら、無様に逃げていった。君のことは諦めるとも言っていた。君は見捨てられたんだ。……そういう男だ」

 トレイシーは口をつぐんだ。

 それが本当なら薄情もいいところだ。

 だが、本当の話だろうか?

 トレイシーの中にあるエイザーのイメージとは違っている。

 ほんの少ししか会ってはいなかったが、そんな簡単にリータレーネを見捨てるような人とは思えなかった。

 トレイシーはリータレーネの顔を盗み見る。

 先ほどと変わらぬ、断固とした表情がそこにあった。

「嘘ついてます」

「なに……?」

 と、逆にレーミットのほうが気圧されたように眉間に皺を寄せた。

「エイザーくんはそんなの言ってません」

「……」

 今度はレーミットが口をつぐむ番だった。

「そーよそーよ! エイザーくんがレーネちゃん見捨てるわけないんだからっ! バーカ! そんなつまんない口説き方してんじゃないわよ! おととい来やがれっ!」

 リータレーネが断言したのをいいことに、トレイシーはここぞとばかりに言ってやった。

 レーミットの疎ましげな視線がトレイシーに向けられる。

 それで思わず口を閉じてしまったが、レーミットも何も言わずに、体を市街地のほうへと向けた。

「信じるか信じないかは君の好きにすればいい。だが、やはり我々と人間は共に生きるべきではない。どうせ付く傷ならば浅いほうがいいに決まっている」

 すでにその目は誰も見ていなかった。

 どこか遠くを眺めたままで、やがて歩き出す。

 市街地の方向へと。

「へへーんだ、捨て台詞言っちゃって」

 去っていく背中へ投げかけたが、何の反応も返ってなかった。

 

「レーネちゃんよく言ったね! えらいね!」

 トレイシーは改めて感心していた。

 消極的な彼女が怯みもせずに言い返したのだ。

 それは大変な勇気が要ったのだろうと思う。

「うぅ……」

 そのリータレーネはというと、なにやら体をぷるぷると震わせて、目に一杯の涙を溜めていた。

「トレイシーちゃん……抱きついてもいい……?」

 涙声でそんなことを言う。

「えーと……どっちでもいいよ。レーネちゃんが決めていいよ」

 さっきの気丈さを見てちょっと試すようなことを言ってみた。

「うぅぅ……」

 リータレーネはその場に立ち尽くしたままでぽろぽろと泣き出していた。

「ああっ、ごめんごめん。うそうそ。エイザーくんだと思って抱きついていいよ。思いっきりいいよ」

 慌てて訂正すると、リータレーネは弾かれたようにトレイシーへと飛びついた。

 どうやら急に積極性に目覚めたわけではないようだった。

 先ほどと同じくリータレーネの温かみに包まれる。だが先ほどとは逆に、こっちが慰める立場のようだった。

「うぅぅ……エイザーくんのこと悪く言われたぁ……」

「うんうん、ひどい奴だったね」

「すっごい睨まれたぁ……」

「うんうん、こわかったね」

「あとはなに言われたかあんまりよく意味がわからなかったぁ……」

「うんうん、それはレーネちゃんの頭の問題だけどね」

 トレイシーは背中をぽんぽんと叩いてやりながら周りに目を向けていた。

 巨大な門は完全に閉じられていて、見張りらしい白装束が全部で四人ほど見える。

 やはりあそこを強行突破するのは難しそうだ。

 しかし、要はあの壁の向こうへ行ければいいのだ。

 門を使わずとも、だ。

「あのさ、レーネちゃん。ここ道の真ん中だからさ、とりあえずちょっと移動しようね」

「うん……」

 素直に頷くリータレーネの手を引いて、トレイシーは畑道に入って歩き出した。 

 

 畑道の中を歩いていると、自然と家族のことが思い起こされた。

 広大な畑に実った農作物。そして身をかがめて一心不乱に農作業を行なう人々。それはトレイシーの日常風景とまったく同じと言ってよかった。

 ほっとするのと同時に、家に帰りたいという思いが強くなる。今はその気持ちに押されて足を動かしていた。

 先ほどの門が見えなくなるまで歩いた頃にはリータレーネもすっかり泣きやんでいた。

 トレイシーはそれを見計らって進路を変えた。

 再びあの外壁を目指す。

 今度は道らしい道はない。ただの草地を横切って、門も何もない壁の元へとたどり着いた。

「あちゃー。高いねー」

 街の建物と同じく白い石材で組まれたその外壁は、遠くで眺めていたよりもずっと大きくて強固そうだった。

 三階建ての家くらいの高さがあるだろうか。

 自力で登って脱出しようという作戦は、明らかに無理そうだった。

 なら次の作戦だ。

「ねぇ、レーネちゃん、『魔術』使える?」

「うん。使えるけど……」

「じゃあさ、ここドカーンってやって壊せないかな? そうしたら外に出られるよね?」

「うーん……怒られないかなぁ……」

「大丈夫だって。とりあえずドーンってやっちゃお」

 周りには背の高い草も多い。うまい具合にふたりの姿を隠してくれているはずだ。

「うーん」

 リータレーネはどうすべきか迷っているようだった。

 とはいえ彼女の性格はだいたい掴めてきた自信のあるトレイシーだ。

 強く言えばきっとやってくれるだろう、と押してみる。

「大丈夫大丈夫。だからさ、ドカーンって!」

「でも……」

「ズドーンって!」

「でもぉ……」

「ズドドドーンって!」

「あーん、ちょっと待ってっ」

「しぶといっ!」

 しぶとくはあったが、良いとも嫌とも言わないあたりがやはり彼女らしかった。

 このままいけば押し切れるかもしれない。

「おいっ! お前たち!」

 と、そんなやり取りをしていたところへ男性の声が投げかけられた。

「やばっ……!」

 トレイシーはびくりとして振り返る。もはや見慣れた白装束を着た誰かが、壁に沿って小走りで向かってきていた。

 壁を壊そうとしたのがバレたのか、と身を固くする。

 あまり若くない……中年の男性だった。

 中肉中背。人当たりの良さそう顔をしていたのと、なによりも彼の頭にネコのような耳がついていたのを見て、トレイシーは少しだけ警戒心を緩めた。

 なにやら愛嬌のあるおじさんに思えた。

「ああ、やっぱりそうか」

 間近まで来た男性は、リータレーネの顔をまじまじと眺めた。

 そして納得したように、うん、と頷いた。

「お前、リータレーネだろ。久しぶりだなっ!」

 途端に陽気な笑顔になる。

 どうやら壁を壊そうとしていたのを怒りにきたわけではないようだった。

「えっ、レーネちゃん、知り合い?」

「えっと……」

 しかしリータレーネはぴんときていないような顔をする。

「いやぁ大きくなったなぁ。前会った時はまだ子供だったもんなぁ。リュシールにそっくりだよ。娘は父親に似るってよく言うけどハーニスに似なくてよかったな。あいつは見た目からして腹黒いからなぁ、はっはっはっ……ってあれ、覚えてないか?」

 ひとりでひとしきり話したところで、ようやくリータレーネの表情に気付いたようだ。

「俺だよ、俺。お前の両親の友達だ。会ったことあるだろ?」

「えっと……」

 なおもぴんときていない感じのリータレーネに、男性の笑顔が苦笑いに変わる。

「おいおい勘弁してくれ。俺はショックだぞ。立ち直れないかもしれないぞ」

「あっ……ジャンさん」

 とリータレーネが思い出したらしいところで、男性は再び笑顔に戻った。

「そうそう! ふぅ……よかったぜ。忘れられてたらどうしようかと思ったぜ。ショックで寝込むところだったぜ。それで、なんでお前がこんなところにいるんだ? 住んでるわけじゃないよな? ハーニスは知ってるのか? こっちの子は友達か?」

 よく喋る人だなと思った。

「あの……」

 リータレーネは返答に困ったようにトレイシーのほうを見る。

 まぁこんなに矢継ぎ早に質問されたらそりゃ困るだろう。

 トレイシーはリータレーネの手を引いてジャンから少し距離を取った。

「あの、レーネちゃんの知り合いの人かもしれませんけど、わたしたちあなたと話すことなんて無いですから」

「な、なぜだ?」

 ジャンは真顔で聞き返す。ならば言ってやろうか。

「そういう服着た、あなたたちの仲間に誘拐されてこの街に連れてこられたんで。だからあんまり近寄らないでください」

「ああ、そのパターンか……。そりゃ災難だったな」

 軽い口調とは裏腹に、ジャンという男性は心からふたりを労っているような雰囲気が感じられた。

 先ほどのレーミットや門番たちとは少し違った印象を受ける。

 それは単にリータレーネの知り合いだからだろうか。

「それでこっそり脱出しようと思ってこんなとこにいたわけか」

「……まぁ」

「事情はわかった。そういうことなら、力になれるかもしれない」

「ええ?」

 トレイシーは思いっきり懐疑の眼差しを向ける。

 奴らの仲間らしき人にそんなことを言われても素直に信じられるわけがなかった。

「っていうかレーネちゃん、この人、信用できる人なの?」

「それは……わからないけど」

「おいおい」

 ジャンの顔が苦笑いに戻る。

「俺はな、お前の親がな、ハーニスとリュシールのやつらがな、『モンスターキング』に挑んだ時からの付き合いなんだぜ? そんな悲しいことは言わないでくれよ」

「『モンスターキング』ってなんだっけ?」

 なんとなく聞いたことはある。

「最近の若い奴らはよっ!」

 ジャンは投げやりに言い捨てた。

 うら若き少女と中年男性が会話を成立させるのは案外難しい。

 初対面なら尚更だ。

「……リータレーネ。まずこの子に俺のことを説明してやってくれ」

 ジャンはそんな難問に挑むべく、一から仕切り直すつもりらしい。

 こちらを助けるためにこんなに粘っているのだから、そう悪い人ではないのかもしれない。

「この人は、えっと、ジャンさんと言って、パパとママのお友達で」

 それはさっきこの人が言っていた気がする。

「以上です」

 薄い説明だった。

「ごめんなさい。あんまり詳しくは知らないです」

「……俺の心の傷はお前たちが思ってるより深いからな」

 ジャンはなにかを諦めるように大きく息を吐いた。

 そして声を潜めて言う。

「自分から言うと信憑性が薄くなるんだが、仕方ないか。実は……俺はエーツェル騎士団の一員なんだ」

「エーツェル騎士団……!」

 トレイシーは、ドルフが説明していたことを思い出す。

 なら彼はクイーンの仲間ということか。

「だけど他の連中には内緒だぜ。今はここのハイブリードって連中を探るために、そこんとこ隠して潜入してるところなんだからな」

「じゃあ、スパイってこと?」

「そうなるな。こいつらもだいぶ派手に活動し始めたから、クイーンもいよいよ放っておけなくなったってわけさ」

 派手に活動、と聞いてあの夜の出来事を思い出す。

 街に火を放って人間や獣人を襲い、同胞を連れ去る。

 たしかにそんな奴らはクイーン直々にさっさとなんとかしてもらいたい。

「だから任せてくれ。お前たちがここを出られるようになんとか手段を考えてみるから」

 ジャンが自分の胸を叩いた。

 どうあれ今は彼に頼るしかないように思えた。

「おねがいしてみよっか?」

 一応リータレーネに聞いてみる。

「うん、トレイシーちゃんが決めたほうでいいよ」

「だよねー」

 わかってた。

「おじさん、疑ってごめんね。じゃあ、そこんとこよろしくね。あっ、わたしトレイシーね」

「おう。この辺りは俺みたいに見張りの奴が巡回しに来るから、街に戻って大人しくしてろよ。じゃあな」

 と爽やかに締めくくって、ジャンは再び壁に沿って小走りに駆けていった。

 たぶん良い人なのだろう。

 今は言われた通りに大人しくしていたほうがよさそうだ。

「わたしたちも戻ろうね」

「うん」

 

 と、歩き出そうとしたその時。

 近くの茂みから、ぬぅっと大きな人影が現れて、リータレーネの腕をつかみ上げた。

「あっ……!」

 例の白装束だったため一瞬はジャンが引き返してきたのかと思ったが、体格からして違う。別の男だった。

 トレイシーはその顔に見覚えがあった。

 さっき、レーミットとかいう奴と一緒に門をくぐってきた奴だ。たしかブリュックナーと呼ばれていただろうか。

「レーミットが気にかけていたからどんな奴かと思ったが、こいつはとんでもねぇな」

 にやりと笑った顔は爽やかさの欠片もなかった。

 改めてジャンの陽気さが思い出される。

「間違ってたら悪いけどよ、聞こえちまったんだ。お前、ハーニスの娘か?」

 ハーニスという名前はジャンが何回か言っていた気がする。

 だがそれがどうしたというのだろうか。リータレーネの父親は有名人なのだろうか。

 トレイシーには何もわからなかった。

「そりゃあ、いったいどこにお住まいのハーニスさんだ?」

 腕をつかまれていてリータレーネは逃げられない。

 ただ不安そうな顔で、ブリュックナーのしたり顔を見つめ返すだけだった。

「ちょっくら詳しい話を聞かせてもらおうじゃねぇか」

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