終章(18)
「……くそ!」
エイザーは激情に任せて地面を殴りつけた。
全身の傷が痛む。だがそれよりも悔しさのほうが勝っていた。
目の前の石橋は途中から先がなくなっていた。レーミットが最後に放った『魔術』により破壊されてしまったのだ。
ドルフがエイザーとヒューイングを抱えて避難してくれたため、三人は橋の倒壊に巻き込まれずに済んだ。
だが、ハイブリードたちは向こう側へ逃げられてしまった。
そうそう渡れそうな川幅ではない。近くに他の橋も見当たらない。
負傷の具合も合わさって、これ以上の追跡は困難だった。
まんまと足止めされた。言葉に出さずとも、三人の間に落胆の雰囲気がただよう。
エイザーはそんな雰囲気を振り切るべく気持ちを切り替えるよう務めた。
しくじったのなら、次の手段を考えるだけだ。
エイザーは袖を破って頭に巻きつける。全身くまなく傷だらけだが、さすがに頭くらいは止血しておいたほうがいいだろう。
橋のほうから愛馬セトラがとことこと歩いてきた。
さすがのドルフも彼まで助ける余裕はなかったらしいが、なんとか自力で逃げてきたようだ。
ドルフのほうを見ると、ヒューイングが心配そうに怪我の具合を確かめていた。
特に背中の傷はだいぶ深そうだ。
「……助かったぜ、おっちゃん。大丈夫そうか?」
「一日くらいなら、平気だろう。それ以上に関しては自信がない」
とはいえ人間だったら致命傷でもおかしくないレベルに思える。
獣人の強靭さをもってしても重い傷ではないのだろうか。
「エイザーこそ大丈夫なの?」
「俺は結構ヤバいかもしれねぇ。意識が遠のいてきたぜ」
「じゃあとにかく、どこか近くの町に行こう。治癒してもらわないと……ふたりとも酷い状態だ」
こんな時こそ自分が、と思ったのだろう。唯一無事なヒューイングが率先して決める。
たしかに傷を治さないことには何もできない。
「しかし、私が覚えている限りでは、この近くに町というのは……」
と、ドルフが困った顔をした。
もしブラグデンまで戻らなくてはならないとなると相当に気が重くなる。
一晩中走ってようやくこの橋にたどり着いたのだから。
「橋……」エイザーは朦朧とする頭をなんとか働かせた。
「これはマークス大橋……だよな……それなら」
このあたりの地理には詳しくないが、ひとつだけ心当たりがあった。
きっと力になってくれるだろう。
「近くに俺の知り合いが住んでる。そこに厄介になろうぜ。まずは体勢を立て直さなきゃな……」
エイザーがふたりを案内してやって来たのは、マークス大橋よりやや上流にある牧場だった。
橋の上でハイブリードたちと接触したのが明け方。それからゆっくりと歩いてきて、たどり着いたのは日が上り切る前だった。
日常生活を送っていれば、朝食が済んで一日の活動を開始しようかという時刻だろう。
牧夫たちはすでに働き始めているようだった。
エイザーは愛馬にしがみつくような体勢でまっすぐに母屋を目指す。
玄関の手前で愛馬からのろのろと下りて、ノックもせずに扉を開けた。
「おばさんっ……! パルヴィーおばさんっ……! ちょっと困ったことになったから手助けを……」
「たぁぁーっ!」
しかし差し出されたのは手ではなく足だった。
「ぶへっ……!」
突然の飛び蹴りを食らってエイザーは外へと吹き飛ばされる。
玄関先で待っていたヒューイングとドルフは何事かと目を丸くした。
「何回言わせる気よっ! 何っ回っ!」
母屋の扉が荒々しく開け放たれて、ひとりの女性が出てきた。
年は三十のなかばほど。長い髪を首の後ろで一本に束ねている。ツナギを着た体はすらりとしていて若々しい。
年相応な中にもどこか少女らしさを残した端正な顔は、今は不機嫌そうに歪められていた。
「呼び方には気を付けるようにってあれほど……って、あら」
突風のように現れた女性は、エイザーが傷だらけなことに気付いたらしく、眉をひそめる。
そして同じく負傷しているドルフを見て大きな目をぱちくりさせた。
「……なんか、一大事みたいな雰囲気?」
エイザーはぐったりしたまま動かなかった。
◆
「助かった。礼を言う、ミセス・パルヴィー」
「ミス・パルヴィーよ、ワンコちゃん。もう一回さっきみたいな怪我したくなかったらよく覚えておくようにね」
「……失礼した」
パルヴィー・ジルヴィアの静かな威圧にドルフの声が少しだけ震えた気がした。
母屋のダイニングルーム。テーブルセットにパルヴィー、エイザー、ドルフ、ヒューイングの四人が座っている。
パルヴィーが『治癒術』を施してくれたおかげでふたりの怪我はすっかりと消え去っていた。
四人の前には牛乳の注がれたグラスが置かれている。ドルフのグラスだけは水差しのように巨大だった。
「俺からも礼を言わせてください。ありがとうございました、パルヴィーさん」
禁句に気をつけながらヒューイングが言う。
パルヴィーはにっこりと微笑んだ。
「気にしなくていいわよ。怪我人がいたら手当てしてあげようって思うの、当たり前でしょ」
怪我人に飛び蹴りを食らわせた人間とは思えないような優しい笑顔だった。
「ホントにありがとうなおばさん! いやぁ、おばさんがいてくれたおかげでマジに助かったぜ! 最後に頼りになるのはパルヴィーおばさんだけだよ!」
「直す気ないよねーっ!」
びしっ! とエイザーの頭に隣から手刀が飛んできた。
「ああぁー……こんな生意気なガキにからかわれるくらいならさっさと結婚しとけばよかったぁぁ……屈辱だわ」
パルヴィーはテーブルの上にがっくりとうなだれた。
「別にチャンスがなかったわけじゃないのよ? 何回かはあったのよ? ただタイミングとかご縁とかそういう巡り合わせが問題だっただけで。牧場のこともあったし。こう見えても責任者だし。幸せになられたアリーシェ様の傍にいづらくなって独立したのが失敗だったかなぁ。いやいやその後もちゃんとチャンスはあったし。やっぱりタイミングがなぁー……」
誰に向けてでもない言い訳が長々と吐き出される。
だいぶ鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
「いやまぁ。パルヴィーおばさんもギリギリ若いんだからそんなに気にしなくてもいいと思うけど」
「そりゃもちろんバリバリ若いけどさ。気持ちの問題ってのがあるのよ。特に、自分と同じ歳くらいのやつの子供がこんなにおっきくなってたら、余計にね」
パルヴィーはエイザーのほっぺたをぐにぐにとつねり倒した。
「つまりあんたが私を焦らせてるのよっ!」
それに関しては不可抗力と言う他ない。
パルヴィーはグラスの牛乳を一気に飲み干した。
くだの巻き方からするとアルコールが入っていると言っても驚かないだろう。
「はぁ。それにしても、ハイブリードだっけ? タチの悪い連中ねぇ」
これ以上この話はしたくないと言いたげに話題を変える。
治療してもらっているあいだに一連の事情は説明済みだった。
「で、あなたたちはこの後どうするの。すぐにそいつらを追いかけにいくの?」
「言うまでもねぇぜ」
エイザーは表情を引き締める。傷が治って安心したせいか気が緩みすぎていたかもしれない。
「すぐ出発する」
「やめといたほうが賢明ね」
パルヴィーの冷やかな一言に、三人は「む」という顔をした。
「そのハイブリードとかって連中はそのへんのゴロツキとは違うみたいだし。やるんなら腰を据えてじっくり構えなきゃ。ワンコちゃんがいれば遠くに逃げられても匂いで追えるんでしょ。少なくとも今日はゆっくり休んでいきなさいよ」
言い方はともかく、パルヴィーは三人の身を案じているのだろう。
その心配はありがたい。しかしエイザーとしては、悪いけど、としか言えなかった。
「じっくりもゆっくりもやってる暇なんかないんだよ。一刻も早くリータレーネとトレイシーを取り戻さなきゃいけねぇ。賢くなくてもこうするしかねぇんだ」
「けど、そいつらのうちのふたりを相手にしただけであんなにくっちゃくちゃにされちゃったんでしょ? だったらこのまま同じように挑んでもまた同じ結果に終わるだけじゃない。そんなのやるだけ無駄無駄」
「ミス・パルヴィー。忠告はごもっともだが」
ドルフが重々しく口を開く。呼び方は学んだようだ。
「先ほど気持ちの問題という話が出たが、それはこちらも同じことだ。家族や恋人を不逞の輩に連れ去られたとあっては理屈では片付けられぬ」
隣に座るヒューイングも、同意と言うように頷いてみせた。
男三人の決意は堅い。
それを見て取ったのか、パルヴィーはふっと小さく息を吐いた。
「まっ、そりゃそうよね。わかったわ。……だけど、せめてもう少しだけ待っててくれない? 私が準備を済ますまで」
「おばさんの準備って?」
びしっ! とエイザーの頭に手刀を入れながら、パルヴィーはイスから立ち上がった。
「私も一緒に行くわ」
「えぇっ!?」
三人が声を揃えて驚く。
牧場の女主人がついてきていったいどうするのか、と。
「あんたともリータレーネとも知らない仲じゃないし。あんなに傷だらけになってたのを黙って見送れないし。……それに」
言葉の途中でエイザーは気付く。彼女がまとっている雰囲気が変わりつつあることに。
さながら鞘から抜かれた剣。見上げたその姿は、一介の女性では持ちえない戦士の風格が静かに滲み出ていた。
「そのハイブリードとかってはた迷惑な連中の話を聞いてたら、久しぶりに血が騒いできたのよ」
パルヴィーは凛々しさをたたえた瞳をエイザーに向けて言った。
「銀影騎士団の血がね」